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第十一話1


 最初のダンジョンは、入学した週の土曜日だった。

 陽一と来葉は朝九時に駅で待ち合わせ、電車に乗った。行き先は中規模ダンジョン。陽一が中三の夏から潜っていた場所。電車で一時間半。

 始発駅のホームは四月の朝の冷気が残っていた。日は出ているが風が冷たい。来葉はジャージの上に薄手のパーカーを羽織り、下にダンジョン装備を着込んでいる。リュックは冒険者用の中型。背面に外付けの水筒ポケット。陽一が孝三郎の店から見繕った一式の一部。

「遠いね」

「新入生が学校裏のダンジョンに自力で通ってるのは目立つ」

 来葉は頷いた。それ以上は聞かなかった。

 車窓の風景が郊外から田園に変わっていく。来葉は窓際の席で、自分の装備を確認していた。指先でグローブの縫い目を辿って、左右の対称性を確かめている。泥時代の陽一がやっていた動作と同じだった。

 防刃のインナー。薄手だが刃物を通さない繊維製。その上に動きやすいジャケット。足元は冒険者用のブーツ。岩盤を歩いても滑らない底。手にはグローブ。術式の発動を妨げない、指先が薄い設計。

 全部、三日前に照川家で揃えたものだ。

 

 木曜の夜、陽一は孝三郎に「パーティメンバーの装備を見繕ってほしい」と頼んでおいた。孝三郎は「サイズは」とだけ聞き、陽一が来葉の体格を伝えると「わかった」で終わった。茉莉だけが「お友達ができたの?」と反応したが、陽一は無視した。

 翌日の放課後。来葉を照川家に連れてきた。

 玄関のチャイムが鳴り、茉莉が出迎えた。来葉は手土産の紙袋を持っていた。

「お邪魔します」

 茉莉が廊下に出てきた。来葉を見て一瞬目を丸くした。息子が女の子を家に連れてきたのは美月を除けば初めてだ。

「い、いらっしゃい。上がって上がって」

「椛川来葉です。陽一くんのクラスメイトで、パーティを組むことになりました。よろしくお願いします」

 来葉はぺこりと頭を下げた。教室で見せる明るさとは違う、きちんとした礼儀。手土産は焼き菓子の詰め合わせだった。茉莉が「まあ、わざわざ・・・」と受け取っている。

 書斎から孝三郎が出てきた。来葉を見た。

「パーティメンバーか」

「はい。椛川来葉です」

 孝三郎が来葉を上から下まで一瞬で見た。体格、姿勢、目の動き。一瞬で値踏みする目。来葉は目を逸らさなかった。

「居間に来なさい。装備を見繕う」

 居間のテーブルに座ると、孝三郎がダンボール箱から装備を出し始めた。事前に来葉の体格を陽一から聞いて、照川商事の在庫から選んでいた。

 最初に出てきたのは防刃インナーだった。薄手の黒い長袖。孝三郎が布地を引っ張って見せた。

「特殊繊維だ。刃物は通さない。魔物の爪もこの程度の厚みなら弾く。その代わり衝撃は通る。打撲は防げない」

 来葉がインナーを受け取って、腕に当てた。薄い。普通のシャツと変わらない手触りだが、引っ張っても伸びない。

「洗面所を使っていいですか」

 茉莉に案内されて来葉が着替えに行った。戻ってきた来葉は袖を伸ばしたり腕を回したりして可動域を確かめている。

「動きやすい。全然邪魔にならないですね」

 次にジャケット。防刃インナーの上に羽織る。ポケットの位置、丈の長さ。孝三郎が背中のラインを一瞥して「丈は問題ない」と言った。

 ブーツは冒険者用の底が厚いもの。来葉が履いて数歩歩いた。岩盤を踏む感触を想像するように足裏を確かめている。

「ぴったりです。—あの、おいくらですか」

「定価の半額でいい。足りないならダンジョンで稼いでからでもいい。息子のパーティメンバーなら、うちの商品を使え」

 来葉が恐縮している。孝三郎は表情を変えない。装備の選定はビジネスの延長。息子の相棒に粗悪品を渡すわけにはいかない。

 茉莉がお茶を持ってきた。来葉に笑いかける。

「陽一のお友達が来るの、久しぶりだわ。—というか、初めてかしら」

「・・・初めてだ」

「あら」

 茉莉が嬉しそうに笑った。来葉が陽一を見て、口の端を上げた。陽一は目を逸らした。

 孝三郎がブーツを出しながら、来葉に聞いた。

「ロールは」

「後衛です。将来は魔術師志望です」

 孝三郎が来葉を見た。二秒ほど。それから、箱の中からグローブを一組取り出した。

「これを使え。指先が薄い。術式の発動に干渉しない」

「ありがとうございます」

「礼は要らん。商売だ」

 いつもの台詞。陽一は聞き慣れている。だが来葉に向けられたその言葉には、息子に向ける時と同じだった。

 居間の奥から、陽菜が覗いていた。ドアの隙間から目だけ出している。来葉が気づいて手を振った。陽菜がさっと引っ込んだ。

 帰り際、玄関先で来葉は振り返って「いい家族だね」と言った。陽一は「普通だ」と答えた。来葉は笑った。「普通がいいんだよ」。



 電車のブレーキで回想が途切れた。

 来葉は隣でグローブの指先を曲げて、感触を確かめている。

 駅を降りて、徒歩十五分。山裾に開いたダンジョンの入口が見えてきた。

 駅からダンジョンまでの道は舗装されているが、アスファルトの表面が剥げかけている。車道と歩道の境界は白線が引かれているだけ。冒険者向けのトラックが時々通る。荷台に素材の箱を積んだ帰り便。運転手が手を上げて陽一に挨拶した。何度か素材を買い取ってもらった運送業者の男だった。

 入口の周辺には冒険者向けの施設が並んでいる。浴場、仮眠所、装備の修理店、簡易食堂、素材の買取所。土曜の午前だが、それなりに人がいる。装備を身につけた冒険者が出入りしている。泥の時代と同じ風景。陽一にとっては馴染みがあるが、来葉にとっては初めての世界だ。

 来葉が周囲を見回していた。目が少し大きくなっている。知識で知っていても、実物を前にすると違うのだろう。看板の文字、窓の中の人影、トラックの排気音。来葉の目が全部を追おうとしている。

 見習い探索者の登録は前日のうちにギルドで済ませてある。学生証と身分証明書を出して、二人分の手続き。来葉は書類に記入しながら「こんなにあっさり通るんだ」と驚いていたが、ギルドの窓口は養成学校の生徒に慣れている。毎年この時期に新入生が来る。

 ダンジョンの管理事務所で入場手続きを済ませた。見習い登録証を見せるだけ。

 受付の女性が陽一の顔を見て、顔をほころばせた。中三の夏からここに通っている。顔は覚えられている。

「本当に国立に受かったのね。—あら、今日は一人じゃないの」

「パーティメンバーです」

 来葉が軽く会釈した。受付の女性が柔らかく笑った。

「よかった。ずっと心配してたのよ」

 陽一は「ありがとうございます」とだけ答えた。

 事務所を出た時、来葉が陽一の袖を引いた。

「陽一。あれ」

 ダンジョンの入口から、女性だけのパーティが出てきた。四人。装備が本格的。軽装だが要所を押さえた防具。動きに無駄がない。帰還直後の疲労感はあるが、怪我はない。浅層の周回ではなく、ある程度の深さから戻ってきたのだろう。

「イリスだ」

 来葉が小声で言った。陽一も気づいていた。女性のみのクラン「イリス」。ゲームにも登場するクランだ。この中規模ダンジョンを拠点にしている。

 彼女たちの装備にはクランの紋章が入っている。双頭の蛇がハート型に絡んだ意匠だが、可愛らしさはない。陽一は中三の夏からこのダンジョンで何度か顔を見ている相手だった。

「行こう」

 陽一たちはダンジョンの入口に向かった。


 浅層。

 発光鉱石の淡い光が通路を照らしている。湿った空気。土と岩の匂い。来葉が足を止めた。

「・・・これがダンジョン」

「画面の向こう側とは違うだろう」

「全然違う。空気が重い。それに匂いがある。ゲームに匂いはなかった」

 来葉は深呼吸した。顔が強張っている。だが目は前を向いている。

 ダンジョンの匂いは、地上のどの場所にも似ていない。土の匂いでもなく、岩の匂いでもなく、その両方に魔力の独特の気配が混ざった匂い。発光鉱石の周辺は微かに金属の匂いがする。通路の床に溜まった地下水は鉄分を含んでいて、靴底で踏みしめるとすぐ足元が湿る。呼吸を深くするほど、匂いが肺の奥に溜まっていく。陽一は泥時代にこの匂いを体に染み込ませた。一度染み込むと、地上に戻っても数日は鼻の奥に残る。風呂で洗っても落ちない。体の内側から出てくる匂いだからだ。

「行ける。大丈夫」

「無理だと思ったら言え。すぐ戻る」

「うん」

 歩き始めた。陽一が前、来葉が三歩後ろ。基本の隊列。

 最初の分岐で、陽一は迷わず右を選んだ。記憶にある浅層のマップ。この先は袋小路が連なる区画で、大穴鼠の湧きが多い。袋小路なら後ろからの奇襲がない。来葉は前だけに集中できる。

 通路の奥行きが少しずつ狭まっていく。発光鉱石の青白い光が天井の岩肌を斜めに撫で、陽一たちの影を足元に長く落としている。岩盤を伝う地下水が壁の継ぎ目で雫を結び、規則的な間隔でぴちゃ、ぴちゃ、と落ちていた。後ろの来葉の呼吸が、その水音より少し速い。

 五分ほど歩いたところで、通路の奥に気配があった。発光鉱石の影に隠れるように、低い位置で何かが動いている。小柄な四肢の輪郭が壁面の光を一瞬遮った。大穴鼠が一匹。浅層では最も数が多く、最も基本的な魔物だ。陽一にとっては歩きながらでも処理できる相手だった。

 だが来葉にとっては違う。

「・・・いる」

 来葉の声が硬い。

「見えるか」

「見える。大穴鼠。弱点は頭蓋。突進してくる。速度は—」

「知識はいい。撃てるか」

 来葉が両手を前に構えた。術式を組もうとしている。魔力が指先に集まる。だが、集まりかけて、散った。

 大穴鼠が待ってくれない。

 迫ってくる巨躯に来葉の体が固まった。

 まぁ、最初だからな。陽一が前に出て短剣を一閃。大穴鼠の頭蓋を正確に捉え、勢いを殺さずに壁へ叩きつける。二秒で終わった。

 来葉が後ろで座り込んでいた。腰が抜けたわけではない。構えた姿勢のまま、膝が折れた。掌を岩肌に押し当てて、自分の重さを岩に預けている。グローブの指先が小刻みに震えていた。

「はぁ、ごめん」

「謝るな。次」

 二匹目は別の通路から現れた。低い唸り声が壁面に反射して、距離より近く聞こえる。今度は陽一がすぐには動かなかった。短剣の柄に手を添えたまま、半歩だけ前に出て、来葉の射線を確保する位置で止まる。

「撃て」

「・・・」

 来葉がもう一度構えた。指先に魔力を集める。術式の理論は頭にある。火球の基礎構成。酸素を媒介にした熱量変換。発動手順。全部知っている。

 だが指先で魔力が形にならない。流れているのに、固まらない。

「ゲームの時を思い出せ。ボタンを押す瞬間—何をイメージしてた」

「・・・標的に方向とタイミングを合わせて—」

「それでいい。見ろ。合わせろ。撃て」

 大穴鼠がこちらに向かってきている。距離十メートル。八メートル。五メートル—。

 来葉の指先から、何かが弾けた。火花。小さな。拳一つ分の、歪な火球が空中に生まれ、すぐに消えた。大穴鼠には届かない。

 陽一が前に出て処理した。

「不発?」

「いや、出た。形にならなかっただけだ。魔力は動いてる」

 来葉が自分の手を見つめていた。指先が微かに赤い。魔力の残滓で熱を持っている。

「出た・・・?」

「出た。次はもう少し保て」

 三匹目。

 通路の曲がり角から大穴鼠が顔を出した。陽一は動かなかった。来葉を見ている。

 来葉が構えた。深呼吸。指先に魔力を集中する。今度は散らさない。散らさない。ゲームの時—画面の中で術式を発動するボタンを押した瞬間の感覚。標的を見る。距離を測る。

 火球が指先から飛んだ。

 小さい。テニスボールほど。軌道も歪んでいる。だが—飛んだ。大穴鼠の胴体を掠め、壁に当たって弾けた。

 大穴鼠が怯んだ。その隙に陽一が詰めて止めを刺した。

「・・・撃てた」

 来葉の声が震えていた。両手を見つめている。指先がまだ熱を持っている。

「ああ。当たってないが、撃てた」

「当たってないけど、手から離れて飛んだ」

 来葉が笑った。目が潤んでいる。興奮と、疲労と、それから—自分の力で何かを成し遂げた時の、あの感覚。

「ゲームだとボタン一つなのに。こんなに大変で、こんなに嬉しいんだ」

「もう一回やるか」

「やる。やらせて」

 そこから一時間。浅層を周回しながら、来葉は魔法を撃ち続けた。回を重ねるごとに形になる確率が上がっていく。体が術式を覚え始めている。プレイヤーの知識がある分、理論と体の接続が速い。

 終盤、大穴鼠の胴体に火球が直撃した。致命傷ではない。だが怯ませた。陽一が詰めて止めを刺す。

「今のは当たった?」

「当たった。威力は足りないが、形になってる」

「やった・・・」

 来葉がその場にしゃがみ込んだ。膝に手をついて、肩で息をしている。魔力が底をついたのだろう。顔が真っ赤だ。

「もう限界か」

「・・・うん。足が動かない。魔力って使い切るとこうなるんだ。ゲームじゃMP切れってだけだったのに」

「現実は体に来る。立てるか」

「ちょっと待って・・・」

 陽一は通路の壁に背を預けて、来葉が回復するのを待った。発光鉱石の淡い光が二人を照らしている。浅層の大穴鼠はしばらく出ない。

「ねえ、陽一」

「なんだ」

「最初の時、あなたもこんな感じだった? 自己再生を初めて使った時」

「・・・俺の場合は痛みの方がでかくて、嬉しいとか思う余裕はなかった」

「そっか。痛みで覚えたんだもんね」

「お前は痛くない方法で覚えろ。そのために俺が前にいる」

 来葉がしゃがんだまま、陽一を見上げた。

「・・・さすが先輩だね」

「先輩風を吹かすつもりはない」

 来葉が笑った。力のない笑い。

 五分ほどで来葉が立ち上がった。二人でダンジョンを出た。


 浴場で汗と汚れを落とした。来葉は女湯から出てくるのに四十分かかった。ロビーのベンチで待っていると、髪を濡らしたまま出てきた。

「・・・全身筋肉痛。明日動けないかも」

「動ける。筋肉痛は二日目が本番だ」

「嫌なこと言わないでよ・・・」

 食堂に移動して、遅い昼食を取った。来葉がカレーを食べながら言った。

「三回目には一人で倒す」

「根拠は」

「今日の感触。術式の構造は頭に入ってる。あとは体の問題。体はやれば追いつく」

 自信ではない。分析だ。プレイヤーとして術式の構造を理論で理解している人間の、冷静な自己評価。

「あと二回で仕上げる。足引っ張らないから」

「期待してる」

「期待じゃなくて、事実にするよ」

 来葉がスプーンを持ち直して、残りのカレーを食べ始めた。さっきまでぐったりしていたのが嘘のように、目に力が戻っている。食欲も戻ったらしい。

「ねえ、こういうとこで食べるカレーって、なんでこんなに美味しいんだろう」

「体を動かした後だからだ」

「それもあるけど・・・なんか、生きてるって感じがする。ダンジョンから出てきて、お風呂入って、ご飯食べて。あ、私生きてるんだ、って」

 陽一は箸を止めた。来葉の言葉が、自分の中の何かに触れた。

 泥時代。廃坑から出て、孝三郎の車に乗り込んで、帰宅して、茉莉の夕飯を食べる。あの時間がいつも、生きている、と思える瞬間だった。ダンジョンの中では感じない。戦っている間は考える余裕がない。帰ってきて、飯を食って、初めて「ああ、今日も死ななかった」と思う。

「・・・わかる」

「わかる?」

「帰ってきて飯を食う瞬間が、一番生きてる実感がある」

 来葉がスプーンを口に運びながら、陽一を見た。少し驚いた顔。それから、ゆっくり笑った。

「陽一って、たまに人間味出すよね」

「普段は出してないみたいな言い方するな」

「普段は出してないでしょ。教室じゃ鉄仮面だもん」

 否定できなかった。

「次いつ行く?」

「俺は毎日行く。来葉は体力的に毎日は無理だろう。週二回でどうだ。土曜と、平日一日」

「わかった」

「じゃあ土曜と水曜はパーティで。それ以外の日は好きにしてくれ」

「了解。あ、帰りに薬局寄っていい? 筋肉痛の薬買いたい」

「薬で治るのか」

「治らないけど、塗ると気持ちいいの」

「好きにしろ」

「陽一も使う?」

「俺は自己再生があるから筋肉痛にならない」

「・・・ずるい。それ一番ずるい」

 来葉が本気で恨めしそうな顔をした。陽一は少しだけ笑った。自分でも驚くほど自然に、笑えた。


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