第十話4
どれくらいの時間が経ったのか。三分か。五分か。
涙が止まった。止めたのではなく、枯れた。二年分の孤独は涙の量に換算しても手のひらに収まる程度で、枯れるのはすぐだった。溜め込んだ時間の長さと、涙の量は比例しない。量より濃度。
顔を上げた。目が腫れている。鼻が詰まっている。最悪の顔だろう。
椛川が向かいに座っていた。両手を膝の上に置いて、陽一を見ていた。責めるでも哀れむでもない、静かな目。
「・・・カラオケで泣く人は初めてだなぁ」
軽い声。だが優しかった。
「・・・悪い」
「謝らないでよ。私が泣かせたみたいになるじゃん」
椛川が立ち上がった。ドリンクバーに行ってコップに水を汲んできた。陽一の前に置いた。
「飲みなよ」
水を飲んだ。冷たい水が喉を通る。頭が少しずつ戻ってくる。脱水していたわけではないが、泣いた後の喉は乾く。粘膜が腫れて、唾液が通りにくくなる。水が粘膜を流してくれる。
「・・・二年間、一人だったんだね」
椛川が静かに言った。
「私は九ヶ月だけど、それでもきつかった。目覚めたら別人で、世界がゲームで、誰にも言えなくて」
「あぁ、ものすごくきつかった。・・・でも、もういい」
「うん。そうだね」
陽一は椛川を見た。
椛川は笑っていた。泣く手前の目のまま、笑っていた。自分の九ヶ月と陽一の二年間を重ねて、どこかで陽一の側に沈み込んでいる顔だった。
「二人いれば、違うでしょ」
陽一は水の入った紙コップを見つめた。しばらく何も言えなかった。
「・・・ああ。違う」
声が掠れていた。自分の声が、こんなに薄いのを初めて聞いた。
空気が変わった。カラオケの個室の蛍光灯はそのまま。液晶の映像もループして流れ続けている。だが二人の間にあるものが、変わった。
椛川がリモコンの横にあったメニュー表を引き寄せた。
「お腹減らない? 私、昼抜いてるんだけど」
「ああ。何か頼むか」
椛川がタッチパネルでピザを注文した。安っぽいカラオケのフードメニュー。五分ほどで、チーズが微妙に焦げたマルゲリータが運ばれてきた。焦げたチーズの匂いが狭い個室に充満する。四等分に切られた直径二十センチほどの小さなピザ。生地は硬い。冷凍生地を店内のオーブンで焼いたもの。
椛川がピザを一切れ取って、齧りながら言った。
「家族のこと、聞いていい?」
「何が知りたい」
「なんでも。あなたの周りにどんな人がいるか知りたい」
陽一はピザに手を伸ばした。チーズが伸びて、指に張りついた。
「父親は照川孝三郎。冒険者向けの装備商社をやってる。元前衛。母親が茉莉。元斥候。今は引退して専業だ。妹が陽菜、中二」
「両親とも冒険者だったの」
「ああ。同じパーティで知り合って結婚した。親父は商売に転向して、母さんは陽菜が生まれた時に辞めた」
「仲いい?」
「普通だと思う。親父は無口だ。母さんは気が利く。妹は—俺に厳しい」
椛川が笑った。ピザを噛みながら、口元を手で隠して。
「妹に厳しくされるお兄ちゃん」
「笑うな」
「だって想像つかない。ダンジョンで穴鼠を斬ってる人が妹に頭上がらないとか」
「別に頭が上がらないわけじゃない。ただ、陽菜は—察しがいい。隠し事をすると、目で全部見抜いてくる」
「ゲームのことも?」
「それはバレてない。だが俺が中一の冬から変わったことは気づいてる。泥を始めたことも、最初から知っていたかもしれない。何も聞いてこなかったけど」
椛川が二切れ目のピザを取った。
「ご両親は。ダンジョンのこと」
「泥の登録に協力してくれた。母さんは怒ったけど、最終的には認めてくれた」
「怒った?」
「母さんは元斥候だから、ダンジョンの怖さを知ってる。中一の息子がソロで潜るとなったら—まぁ、そうなる」
「・・・お母さん、優しい人?」
「優しいというか—放っておけないタイプだ。毎日弁当を二つ作ってくる。一つは学校用、一つはダンジョン用」
椛川のピザを持つ手が止まった。
「ダンジョン用の弁当」
「傷みにくいおにぎりとか。マジックバッグに入れて持っていく」
「・・・いいお母さんだね」
椛川の声が少し変わった。陽一は気づいたが、踏み込まなかった。代わりに聞いた。
「椛川さんの方は」
「来葉でいいよ。もうパーティなんだし」
「・・・来葉。家族は」
「いきなり呼び捨てとは大胆ですな」
「おい」
ふざけたやり取りに思わず笑みが出る。こんなことをしたのはいつ以来だろうか。美月と道場の帰りに駄菓子屋の前で軽口を叩き合った頃以来か。あれから二年半。軽口を叩ける相手が、もう一人もいない生活が続いていた。
「父と母と、姉が一人。姉が五つ上。家族仲は普通—いや、普通よりちょっとややこしいかな」
来葉が三切れ目のピザを取りながら、軽い調子で話し始めた。だが軽さの中に、選んでいる感じがあった。どの言葉を選んで、どの言葉を避けるか。一文ごとに選別している。
「ややこしい」
「うちの親、姉に全力注いだの。受験も習い事も進路も、全部レール敷いて。で、姉が大学受験で壊れた。過呼吸とか不眠とか。一年浪人して、今は地方の大学にいるけど」
来葉はピザの端を齧った。
「その反動で、私には何も言わなくなった。成績も進路も、ほとんど干渉してこない。好きにしなさいって。—楽だけどね。でもたまに思うよ。好きにしなさいって、興味がないだけなんじゃないかって」
陽一は黙って聞いていた。
「中三の夏にこの体に来た時、一番怖かったのはそこだった。親が変化に気づかないんじゃないかって。—実際、気づいてないと思う。元の来葉と私の違いに」
「・・・そうか」
「まぁ、おかげで自由に動ける。養成学校に行きたいって言った時も、反対されなかった。むしろ『あら、いいんじゃない』って。姉の時と真逆」
来葉が紙コップのお茶を飲んだ。
「お弁当二つ作ってくれるお母さんとか、装備を見繕ってくれるお父さんとかうらやましいよ。怒ってくれる人がいるって、いいことだよ」
陽一は何も言えなかった。自分の環境が恵まれていることは知っている。孝三郎も茉莉も陽菜も、陽一を見ている。見ていてくれる。
来葉にはそれがない。自由の代わりに、見られていない。
「パーティなんだから、何かあったらうちに来い。母さんが飯を作ってくれる」
言ってから、自分でも驚いた。考えて言ったのではない。口が先に動いた。泥の二年間で発達した、考える前に体が動く反射。ここでは口が動いた。
来葉が目を丸くした。
「え、いいの?」
「装備も見繕える。来葉の体格に合った防具を親父に選ばせる」
「あ、そっちの用事もあるんだ。ただ飯を食いに来いって言ったのかと思った」
「・・・それもある。まあ、作るのは俺じゃないけど」
来葉が笑った。カラオケの個室で、安っぽいピザの皿を挟んで。さっきまで泣いた男と笑った女が、家族の話をしている。奇妙な光景だった。
「じゃあ、お言葉に甘えて。—手土産持っていくね」
「別にいい」
「いいわけないでしょ。初めてお邪魔する家に手ぶらで行くの?」
来葉はそういうところが律儀だった。
ピザの最後の一切れを来葉が取った。陽一は譲った。
来葉がお茶を一口飲んでから、切り出した。
「ゲームのキャラの確認をしよう。名簿は見た?」
「見た。お前は?」
「私も。見城を探したついでに全部」
「まずヒロインから。澄沙耶、遠峰志帆、鳴瀬環、柊木蕗」
来葉が名前を挙げた。ゲームの五人いるメインヒロインのうち四人。見城大河の物語を彩る女たち。
「澄沙耶、遠峰志帆は名簿にいた。鳴瀬環は三年、柊木蕗は二年」
「戦術魔法部に入れば上級生との接点ができるから鳴瀬環と柊木蕗は情報が入るかも」
「頼む。柊木蕗は学校外で活動してるから機会があれば俺も調べる」
「次、大河のパーティメンバー。金澤美月は名簿にいた」
「金澤美月は—俺の幼馴染だ」
来葉の手が止まった。
「・・・え?」
「同じ道場に通ってた。小学校からの付き合い」
「じゃあ、仲いいの?」
「・・・昔はな。中一で離れた」
「離れたって、なんで?」
「差がついた。美月はどんどん強くなって、俺はついていけなくなった。それだけだ」
来葉が黙った。一拍。それから、あえて軽い声で言った。
「—で、今は?」
「今は何もない。美月にはあまり関わらない方がいい。大河のパーティメンバーだ。俺が関わるとシナリオが—」
「歪む?」
来葉が遮った。
「もう歪んでるよ。大河がいないんだから。美月が大河のパーティに入るシナリオ自体が、もう成立しない」
陽一は口を閉じた。
—わかっている。そんなことはわかっている。
「小学校から一緒の道場で、差がついて離れた。—それ、二年前の話でしょ」
「ああ」
「二年間、ずっとそんな感じだったの?」
「中一の秋に道場を辞めた。冬から学校にもほとんど行かなくなった。同じ中学だから顔を合わせることはあったけど—」
「避けてたんだ」
「・・・ああ」
来葉がお茶の紙コップを両手で包んだまま、陽一を見ていた。
「シナリオが歪むから避けるって、本気で言ってる?」
陽一は答えなかった。答えられなかった。本気かどうか、自分でもわからない。シナリオを理由にしているのか、それとも—中一で逃げ出したことを、まだ引きずっているのか。美月が強くなっていく様子を横目で見続けた日々。自分が追いつけないことを理解した日。道場の稽古場で、美月の木刀の音だけが綺麗に揃っていた朝。他の小学生の音がずれ、中学生の音がずれ、美月の音だけが時計のように規則正しく壁に跳ね返った。あの音を聞くのが苦しくなって、道場に行けなくなった。
「・・・今は、関わらない方がいい」
「逆じゃない? シナリオがわからないんだから、ネームドキャラとは仲がいい方がいいんじゃないの。何が起きるかわからないなら、情報源は多い方がいい」
正論だった。ゲーマーとしてはそうだ。情報がないなら、取れる接点は全部取る。来葉が自分に声をかけてきたのも同じ理屈のはずだ。
「・・・美月は、別だ」
自分でもわからない。来葉の言う通りだ。合理的に考えれば、美月との接点を維持した方がいい。わかっている。わかっているのに、口がそう言った。
来葉はしばらく陽一の顔を見ていた。それから、小さく息を吐いた。それ以上は踏み込まなかった。
「わかった。美月は別。他のネームドは? 澄沙耶」
「澄家の直系。自己再生がバレても覚醒で通せる。ただ、魔法書の出どころを嗅ぎ回られると厄介だ」
「そこだけ気をつければいいのね」
「ああ」
「遠峰志帆。大河の幼馴染」
「大河が福岡校に行ったなら、志帆は知ってる」
「でもわざわざ聞く理由がないよね。大河がどこにいるかは、もうだいたい見当がついてる」
「ああ。今は放っておく」
来葉がピザの皿を脇に寄せ、テーブルに肘をついた。
「カイルは・・・ゲーム通りなら、ただの留学生じゃないよね」
「警戒しておく」
「同級生はそんなところか。上級生と校外は前に話した通りで」
「ああ。鳴瀬環と柊木蕗は戦術魔法部から」
「了解」
「整理すると—見城大河以外のネームドキャラは全員いる。世界の骨格は変わっていない」
「ズレたのはシナリオの中心だけだ」
「・・・中心がいないのが、一番困るんだけどね」
来葉が溜息をついた。
少し間があった。来葉がお茶を飲んで、テーブルに戻した。
「ゲームの流れを整理しておこう。三年分」
「ああ」
「一年目はそこまで荒れない。ダンジョンの実習とか模擬戦とか、学校の中で大河がパーティ組んで強くなっていく。ダンジョンのトラブルはいくつか起きるけど、学校と上級生が対処できる範囲。私がプレイしてた時は、のんびり育成してた記憶がある」
「二年目から変わるんだよな」
「うん。大河が特別クラスに編入する。そこから華族の連中に絡まれて。橘の派閥と皇の派閥がぶつかったり、澄家の利権の話が出てきたり。私は二年目が一番めんどくさかった。戦闘より会話の選択肢で詰む」
「三年目は学校の外に出る。クランとか国の軍とかが動き出して、ダンジョンも大規模な異常が起きる。最後は——大河が全部背負って卒業して学園編は終了」
「ただ、そこから先。あのゲーム、マルチエンディングだったでしょ。ヒロインルートに反体制ルート、探索者ルート。ルートでボスも変わる」
「ああ。全部覚えてる」
「私も。知識はある。全ルート分」
「知識はあっても現実は違う。大河はいないし、ゲームにいないキャラがいる」
「知ってるのに対処できないって、一番たちが悪いよね」
「分岐は基本的に二年目からだ。一年目のうちにどのルートに近づくか見極めないと、二年目以降の対応が変わる」
「それと、私たちの実力。ゲーム知識があっても体が追いつかなきゃ意味がない」
「・・・ああ。全部一年目のうちにやらなきゃいけない」
来葉が咳払いをした。
「で、これからの話をしましょう。養成学校を出たら、探索者になる。探索者はジョブを持つ。照川くんは何を目指すの」
ジョブ。二学期の適性診断で魔力回路を読み取られ、そこから専門訓練が始まる。回路の形がジョブの適性を決める。自分で選ぶものではない。
—俺の回路は、どうなっている。
二年間、骨を折り、筋を断ち、自己再生で繋ぎ直してきた。
「・・・決めてない」
「決めてない?」
「泥には適性診断も訓練もない。自分の回路がどうなってるかも、わからないまま二年やってきた」
「でも、自己再生がある。身体強化もある。それって—」
「質が低い。系統魔法は使えない。火も水も風も地も出せない。使えるのは無属性の魔力だけだ。身体強化と自己再生を力技で押し通してきただけで、そもそも、ジョブが発現するかどうかもわからない」
来葉が口を閉じた。
「普通なら、俺みたいなのは冒険者止まりだ。ロールだけで活動して、ジョブには届かない」
来葉はピザの耳を齧りながら聞いていたが、何かに引っかかったように手を止めた。
「・・・ひとつ聞いていい? さっき三日三晩戦えるって言ったよね。自己再生しながら」
「ああ」
「身体強化を維持しながら、同時に自己再生も回し続けてるってことだよね。それを三日間」
来葉の目が変わっていた。さっきまでの柔らかい目ではない。ゲームの仕様を検証するときの目。情報を突き合わせて、矛盾を探す目。
「その魔力で、それができるの?」
陽一は答えようとして、言葉が出なかった。
言われてみれば—考えたことがなかった。身体強化は常時展開する。それは冒険者なら誰でもやることだ。自己再生は違う。傷を受けたときに発動する。普通なら、傷を受けないように立ち回るのが前衛の基本だ。だが陽一の戦い方は違った。避けきれない攻撃を受けながら前に出る。骨が折れる。筋が裂ける。その端から自己再生が走り、繋ぎ直された体で次の一撃を振るう。身体強化で動き、壊れ、自己再生で修復し、また動く。その循環が途切れないから三日三晩戦える。
つまり戦闘中は常に、身体強化と自己再生が同時に魔力を食い続けている。回路の質が低いなら、一系統を流すだけで精一杯のはずではないのか。
「・・・考えたことがなかった」
「ないの?」
「体がそうなってるから、そうしてきただけだ。泥に理論はない。生き残ることしか考えてなかった」
来葉がテーブルに肘をついた。ピザの耳を皿に戻して、指先の油を紙ナプキンで拭いている。だが目は陽一を見たままだ。
「回路の質が低いんじゃなくて、回路の形が普通と違うんじゃない? 系統魔法が通らないのは、回路が術式を編む構造になっていないだけで。その代わり、身体強化と自己再生に特化した別の形をしてる」
陽一は右手を開いて、自分の掌を見た。魔力を意識すると、体の奥で何かがゆっくりと脈打っているのがわかる。心臓から腕を通って指先に至る流れ。だがその流れは指先で途切れる。外に出ない。術式を編むための末端の分岐が、ない。代わりに—太い管が体の芯を貫いて、内臓と筋肉と骨を繋いでいる感覚がある。外ではなく、内に向かって流れる回路。
「・・・わからない。二学期の診断を受けるまで、何とも言えない」
来葉はまだ何か考えている顔だった。口を開きかけて、閉じた。今の情報だけでは結論を出さない、という選択に見えた。
陽一は頷いた。泥時代は短剣と身体強化と自己再生だけで戦っていた。それ以外の選択肢がなかった。だが学校で術式理論を体系的に学べば、E判定の魔力でもできることがあるかもしれない。
「来葉は?」
「私は攻撃魔法の魔術師を目指す。知識はある。元の体の魔力適性もそこそこある。足りないのは実戦だけ」
「系統魔法は使えるのか」
「・・・まだ撃ったことない。理論上はできるはず。元の来葉の体に適性があるから。でも理論と実践は別物でしょ」
「別物だ。理論通りに動く体は、訓練しなきゃ作れない」
「だから学校に来た。—で、部活はどうするの」
「入らない。見習い探索者で登録して、学校のダンジョンに入る」
「経験者だもんね。部活で教官に引率されるのは、まどろっこしいか」
「時間が惜しい。放課後はダンジョンに使いたい」
来葉は頷いた。考えている顔。
「じゃあ私は—活動日数が少ない部活にする」
「なぜ」
「あなたがいるから」
陽一は眉を上げた。
「ダンジョン経験がある人間がすぐ隣にいるのに、部活で教官に手を引かれてダンジョンに入る意味ある? 放課後はあなたと組んで実戦を積んだ方がいい。部活は情報収集の場として使う。各クラスの人間と接点を持てるところ」
「・・・戦術魔法部か」
「よく知ってるね」
「いや、自己紹介の時に自分で言ってたろ」
「そうだった」
来葉がケタケタと笑った。
「見城大河のこと。どう思う?」
「わからない。東京校にいないことしかわかってない。別の学校にいるのか、そもそもこの世界にいるのかすら」
「・・・いない可能性もあるってこと?」
「排除できない。ゲームの世界がそのまま再現されているなら存在するはずだが、俺たちがここにいる時点で『そのまま』じゃない」
来葉が唇を噛んだ。
「見つける方法は?」
「今はない。もし大河がどこかの養成学校にいるなら、いずれ噂が出る。あの魔力は隠しようがない。待つしかない」
「待つしかない、か」
来葉が繰り返した。納得したわけではない。だが他に手がない。
「わからないことだらけだね。でも、わかってることもある」
来葉が陽一を見た。
「私たち二人はゲームを知っている。あなたは二年間のダンジョン経験がある。私は知識だけ詰まってて実戦ゼロ。だからこそ組む意味がある。あなたが前で戦って、私がそこから学ぶ。そのうち後衛として撃てるようになる。悪くない組み合わせだと思わない?」
「悪くない」
「じゃあ、今日からパーティだ」
来葉が手を差し出した。握手を求めている。
陽一はその手を見た。小さい手。自分の手とは違う。短剣のマメもない。ダンジョンの泥にまみれたこともない、きれいな手。
だがこの手の持ち主は、自分と同じ恐怖を知っている。
握った。
「よろしく」
「よろしく、陽一」
名前で呼ばれた。さっきまで「照川くん」だったのが、いつの間にか変わっている。
まあ、俺も呼び捨てだしいいか。
「さっさとレベ上げをしてもらわないと、俺たちの知識も活かせないからな」
「・・・パーティ組んだ直後にそれ?」
「事実だろ」
「事実だけど。わかってるよ。やる」
「それと—」
来葉がリモコンを手に取った。
「せっかくカラオケに来たんだから、一曲くらい歌わない?」
「歌わない」
「じゃあ私が歌う。聞いてて」
来葉がモニターで曲を探し始めた。陽一は呆れて天井を見上げた。
五分前まで泣いていた男の前で、カラオケで曲を選ぶ女。切り替えが速いとか、そういう次元ではない。この女は、沈んだ空気の中で勝手に浮き上がっていって、こちらまで引っ張る。
来葉が歌い始めた。上手くはないが、声が大きい。個室の壁に声が跳ね返る。陽一はソファの背もたれに体を預けて、冷めたお茶を飲んだ。
安っぽいカラオケの個室。蛍光灯の白い光。画面に流れる歌詞。隣で声を張り上げている女。
—こんな場所で、こんな形で、味方ができるとは思わなかった。
来葉が一曲歌い終わって、息を切らしながら笑った。
「さ、帰ろう」
フリータイムの残りはまだあったが、二人とも立ち上がった。話すべきことは話した。
受付で精算を済ませ、商業ビルを出た。駅前の夕暮れ。四月の風が髪を揺らす。商店街の街灯が一つずつ点灯していく。閉店準備をしている店が半分、これから夜営業を始める店が半分。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
「ダンジョン、いつ行く?」
「学校の流れがまだわからないから土曜だな。学校のではなく、俺が今行っているCランクダンジョンのギルドならギルド職員も顔見知りだから余計なチュートリアルもなくて済む」
「私も登録する。ギルド、一緒に行こう」
来葉が手を振って、反対側の改札に向かって歩いていった。
陽一はしばらく、その背中を見ていた。
小さな背中。自分より頭一つ低い。ダンジョンに入ったこともない。魔法もまだ撃てない。だがゲームを知っている。この世界の構造を知っている。自分と同じ重さを背負って、自分と違う形で歩いてきた人間が、この駅前にいる。
陽一は改札に向かった。
電車のホームに立って、反対側のホームを見た。来葉の姿はもう見えない。四月の夕暮れが駅舎を橙色に染めている。
明日からは、ひとりではなくなる。
二年間のひとりの歩き方を、もう一度作り直さなければならない。ふたりの歩き方を。




