第十話2
一般三組の教室。
入学式の後、各クラスに分かれてホームルーム。担任は三十代の男性教官。名前は柏原。実戦派ではなく学術系の教官らしく、眼鏡をかけた温和な顔をしている。白衣ではなく普通のジャケット姿だが、胸のポケットにペンが二本と小さなノートが差してある。癖で書きつけるタイプの人間。
教室は南向きで、午後の陽が窓際の机を橙色に染めている。黒板の上に国旗、壁面に時間割と校内地図、後ろの掲示板にはまだ何も貼られていない。三十人分の机と椅子。新品の匂い。前期の初日の匂い。中学の四月と似ているが、同じではない。同じ方向を向いていた中学の教室と違って、ここは初日から全員の進路が分岐している。
「一般三組の担任を務める柏原です。座学の術式理論を担当します。一年間、よろしく」
簡潔な挨拶の後、自己紹介が始まった。「」出席番号順に、前の席から一人ずつ立つ。
名前、出身地、得意なこと、養成学校で何をしたいか。定型の質問。陽一は後方の席で、立ち上がる背中を順番に見ていた。
笑いを取ろうとする者、無難に乗り切ろうとする者。自己紹介はそれぞれだが、気になるやつは何人かいた。一人は黒田忍。「弓道です」とだけ言って座った。教室の何人かが顔を見合わせたが、黒田は気にしていなかった。座った後もまっすぐ前を向いている—ように見えて、目だけが教室の隅々を走っていた。制服の袖の下、左手首に細い線が一本覗いている。入れ墨ではない。魔力に関わる何かの印だろう。
柔道の瀬戸大地は教室で一番体がでかかった。声も大きい。自己紹介というより挨拶だった。「よろしくお願いします!」が壁に跳ね返るほど。前の席の笹本が耳を塞ぐふりをして笑った。一般の枠に収まらないであろう制服のサイズ感が、声と一緒に教室いっぱいに広がっていた。
佐伯鈴は立ち上がった瞬間に笑っていた。「体操やってました!」の声が教室に響いて、何人かがつられて笑った。小柄で、声と体のサイズが合っていない。ポニーテールが動きに合わせて跳ねる。
佐伯が着席する時、隣の椛川に小さく手を振ったのでよく印象に残っている。椛川とつながりがあるのであれば、要注意だ。
陽一の番が来た。
立ち上がる。椅子の脚が床を擦って、小さな音が立った。教室の視線が顔と首筋に集まり、肌の上を撫でていく。喉が砂を含んだように動かなかった。頭の中ではまだ「大河がいない」が反響していて、挨拶の文句を組み立てる時間がなかった。
「照川陽一です。よろしくお願いします」
最低限だけ言って、椅子に戻る。
一拍、沈黙。
柏原が眼鏡の奥の目を細め、手元の書類に視線を落とした。指がページを一枚めくり、ある行で止まる。胃の底が冷えていく感覚があった。
「照川くん。それだけかな? やりたいこととか、部活とか」
「・・・いえ、特に」
「ふーん。まぁいいか。ダンジョン経験があるのは、このクラスでは君だけだよ。一般クラスで入学前に実際に潜った人間は珍しい。いろいろクラスメイトに教えてやってくれ」
軽い口調だった。だがその一言で教室の空気が一段下がる。値踏みするような重さが視線に乗って、陽一の肩へ落ちてきた。指先が制服の袖を強く握り込む。呼吸が浅くなっているのに気づいて、わざと一度ゆっくり吸い直したが、肩は下がらなかった。
数列前で囁きが交わされる。
「あれで経験者?」
「魔力、ほとんど感じないんだけど」
声を潜めたつもりなのだろうが、教室は静かで三列分は素通しだった。耳の奥で囁きが繰り返される。あれで経験者。魔力ほとんど感じない—廃坑の暗がりでは誰にも気にされなかった薄さが、明るい教室では剥き出しになっていた。前の席で氷室が振り返る。眼鏡の奥の視線が一瞬陽一に絡んだあと、何も言わずに前へ戻った。
「・・・よろしくお願いします」
絞り出した声が、自分の耳にも掠れて聞こえた。座る。
椅子の硬さが太ももに食い込む。見城大河がいない。自分がどこに立てばいいのかわからない。何を見せて何を隠すか、その判断の軸がない。大河が中心にいる前提のシナリオなら、モブとして目立たず過ごせばよかった。だが大河のいない教室で、誰かの代わりに前へ出る局面はいつ来るのか—想定だけが頭の中で裏返り続ける。柏原の一言で、「経験者の照川」というラベルが教室に貼り出された。剥がす手立ては、今のところ思いつかない。
瀬戸が後ろから身を乗り出してきた。机一つ分の距離が一気に詰まる。
「お前、ダンジョン入ったことあんのか? すげえな。どこまで行った?」
「・・・そのうち」
「なんだよ、教えてくれよ」
押される。陽一は姿勢だけわずかに引いた。
笹本が横から顔を出す。
「魔物倒したことあるのか? ・・・ってか、お前、魔力けっこう細いよな。それでよく潜れてたな」
二つの問いが続けて耳に入った。前半なら頷ける。後半は、答えても黙っても噂の材料を増やすだけだ。陽一は最初の問いにだけ曖昧に頷き、後半は受け流した。膝の上の指は、いつのまにか制服の布を摘んでいる。
前方の席から、黒田が顔だけ振り向いた。
「お前、何言ってるんだ。この魔力でこの学校に合格してる意味がわからないのか」
声は低いが、教室の前まで届いた。
笹本が「は?」と眉を寄せる。黒田はそれだけ言って前へ向き直った。
陽一は黒田の後頭部を見ていた。
瀬戸も笹本も、続きの言葉を出さなかった。
そして、一番気にすべき椛川はというと。
「椛川来葉です。特にこれといった特技はないんですけど、魔法が好きです。戦術魔法部に入りたいなって思ってます。よろしくお願いします!」
明るい笑顔。当たり障りのない自己紹介。三十分前に掲示板の前で見城大河の名前を呟いていた人間には見えない。何事もなかったかのように、教室に溶け込んでいる。自己紹介の三十秒で「明るくて親しみやすい子」という印象を教室に染み込ませる。それが椛川の戦略なら、見事な手際だった。
ホームルームは三十分で終わった。部活動の案内、見習い探索者登録の説明、明日以降の時間割。初日はそれだけ。
見習い探索者登録の説明は柏原が特別に時間を取った。「これは学校の外で冒険者として活動することを認める制度だ。冒険者ギルドで登録するが、学校の許可が必要になる。希望する者は明日までに担任に申し出ること」。クラスの何人かがメモを取っていた。瀬戸、水原、黒田、佐伯。陽一もメモを取る振りをした。冒険者ギルドへの登録自体は二年前に済んでいるが、学校側の手続きは別物だ。
「では、今日は解散です。明日から本格的に始まりますので、遅刻のないように」
柏原が教室を出ていった。生徒たちが椅子から立ち上がり、ざわめきが広がる。クラスメイト同士が自己紹介を交換している。中学なら一週間かけたであろう関係づくりが、初日のうちに走り出していた。
椛川が近づいてきた。周囲には聞こえない声で。
「いつにする?」
「明日、学校が終わったらすぐ」
「了解」
それだけ。椛川はすぐに離れて、佐伯の席に戻った。佐伯が何か言って、椛川が笑った。二人で連れ立って水原と安藤のところに歩いていく。椛川は鈴の背中に手を添えて、自然に四人の輪を作っていた。掲示板の前で手を震わせていた人間と、教室で笑っている人間が、同じ顔の中に同居している。
陽一は教室を出て、講堂の前で待っていた両親と合流した。茉莉が「ホームルームはどうだった? 友達はできた?」と聞いてきた。
「まぁ、何人かとは話したよ」
答えは曖昧にした。本来なら詳細を話して茉莉を安心させるべき場面だが、頭の中が満杯で詳細を組み立てる余裕がなかった。茉莉は「そう」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。息子の顔から察したのだろう。
孝三郎は何も聞かなかった。三人で駅に向かい、電車に乗った。
駅までの道は桜並木だった。花はもう散りかけている。道端に花びらが溜まって、風が吹くたびに小さく舞い上がる。四月の午後の光。孝三郎が先頭を歩き、茉莉が中、陽一が後ろ。三人の歩幅が揃っていない。茉莉だけが二人の背中を交互に見ている。孝三郎と陽一が同じ歩幅で進むのに、茉莉の歩幅だけが微妙に違う。それでも茉莉はついていく。四十代の母親が、高校生の息子と夫の歩幅に合わせるためにいつも少し早歩きになる。
帰りの電車の中で、陽一は窓の外を見ながら考えていた。両親は隣の席で何か話しているが、耳に入らない。
椛川来葉。
明日、あの女と話す。何を聞き出すか。何を見せるか。何を隠すか。
最悪のケースを想定する。椛川がゲームプレイヤーではない可能性。見城大河と現実で接点があり、陽一が見城の名前に食いついたことを不審に思っている可能性。その場合、明日の会話で陽一の方がボロを出すリスクがある。
だが掲示板でのあの反応—「なんで見城大河がいないのよ」—あれは「ここにいるはず」と確信していた人間の言葉だ。現実の知り合いなら、同じ学校に来る前提にはならない。ゲーム知識でしかあり得ない。
敵か味方か。目的は何か。自分と同じように「生き残る」ことが目的なのか、それとも別の思惑があるのか。
明日の会話で見極める。
自分の側でどこまで情報を開示できる。
ゲームの記憶があること。見城大河がいないことに気づいていること。
自己再生の詳細。魔法書の存在。泥としての二年間の経験。
最初の二つは開示せざるを得ない。相手もゲームを知っている前提で話すなら、こちらも知っていることを示さないと会話が成り立たない。これまでの経験については会話の流れで判断するしかない。
電車が駅に着いた。両親と一緒に改札を出る。
明日の放課後。どう転ぶかはその時に考えるしかない。




