第十話1
入学式は学校の講堂で行われる。正面の舞台に紺色の緞帳が引かれていて、中央の壇上に国立探索者養成学校東京校の校章が金糸で縫い取られた垂れ幕が下がっている。天井は高く、梁がむき出しで、魔導灯の光が天井の木目に吸い込まれていく。築六十年の建物だが、華族の寄付で内装だけは毎年手が入っている。座席の布地は新品の匂いがまだ残っている。
特別クラスと一般クラスが同じ空間に並ぶ。最前列に特別クラスが横一列。その後ろに一般クラスが組ごとに縦に並ぶ。特別クラスの制服には金糸の刺繍が入り、一般クラスは黒地のみ。同じ学校の新入生でも、座席に着いた時点で色が違う。金糸の列と黒の列。前と後ろ。一本の線で世界が分かれている。
陽一は三組の列の後方に座った。前の方に、椛川がいた。掲示板の前で会った女。見城大河の名前を呟いた女。ポニーテールが揺れている。隣の女子生徒と何か話している。
椛川来葉。あの女は何者だ。
見城大河の名前を知っている理由は、今の時点では二つしか思いつかない。一つは、自分と同じようにゲームの記憶を持っている。もう一つは、現実世界のどこかで見城大河と接点があった。だが後者なら、あの呟き方にならない。名簿を確認して「いない」と呟く—それは「ここにいるはず」と確信していた人間の反応だ。ゲームの知識でしかあり得ない。
まだ確定ではない。だが限りなく黒に近い。
その椛川がすでに周囲に声をかけていた。
「ねえ、どこ出身?」「部活何やってた?」
三十分前に掲示板の前で手を震わせていた人間と同じとは思えない。あの動揺はどこに消えた。陽一は今も頭の中が煮えている。見城大河がいない衝撃から立ち直れていない。なのにあの女は、もう笑っている。初対面のクラスメイトと世間話をしている。
演技か。それとも、切り替えが本当に速いのか。どちらにしても、自分にはできないことだ。二年間泥を這いずって覚えたのは、感情を殺す技術だ。切り替える技術ではない。殺すのと切り替えるのでは、似ているようで違う。殺した感情は、後で溢れてくる。切り替えた感情は、次の場面で蓋が開くだけで済む。効率がいいのは切り替えの方だ。自分にはその技術がない。
—何者だ、あの女は。
前方の特別クラスの区画に目を向けた。金糸の制服が十数名。背筋を伸ばして座っている者が多い。だがその中でも背筋の伸び方に段階がある。華族の直系は、緊張しているのではなく、立っていても座っていても背筋が伸びる体を幼少期から作られている。分家はそれより少し緩い。特待生—一般家庭から特別クラスに入った人間は、座り方に個性が残っている。制服に体が馴染んでいない。
美月がいた。背筋を伸ばして座っている。今朝、通学路で正面から向き合った時の衝撃がまだ残っているはずだが、表情は完璧に整えられている。隣の女子生徒に微笑んで応じている。中学の頃と同じ、周囲に見せる完璧な笑顔。竹刀を握っている時の美月と、教室にいる時の美月は別人のようにふるまう。小学生の頃から美月はその切り替えができた。道場では鬼のように集中し、学校では皆に好かれる優等生。両立というより、演じ分け。
その近くに一人の男子生徒が腕を組んで座っていた。姿勢がいい。顔立ちが整っている。制服の襟の角度が定規で測ったように整っている。纏う魔力の圧が、特別クラスの中でも頭一つ抜けていた。
—橘蓮司。
ゲームの知識が反応した。本家の人間。座席は中央寄り。学校側が特別クラスの座席を並べる時、華族のヒエラルキーを暗黙に反映させる。中央が橘、左右に皇と澄、外側に扇と冑、さらに外側に分家と特待生。無名の規則だが毎年そうなっている。
ということは、もしかして。
講堂の側面に設けられた保護者席。普通の親たちに混じって、明らかに空気が違う一角がある。服装の格が違う。背後に控えている人間がいる。護衛だろう。周囲の保護者は意識しているのかいないのか、その一角との間に不自然な隙間を空けている。半径一メートルの空席。物理的には座れるのに、誰も座ろうとしない。空気圧が違う場所に人は近寄らない。
その中央に座った男の顔に、見覚えがあった。ゲームの知識ではない。テレビで見た顔だ。国防ニュースで週に一度は映る顔。北方海域の帝国術師と対峙する映像。年に一度発表される国家探索者格付け表の最上位に名を連ねる男。
纏う魔力が、桁違いだった。座っているだけなのに、空間が歪んでいるように感じる。保護者席の他の人間が距離を取っているのは、無意識の防御反応だろう。あの圧は意図して出しているものではない。存在しているだけで漏れ出す、純粋な力の密度。人間が呼吸をするように、魔力が漏れる。抑えていない。抑える必要がない。あの男は自分の魔力を周囲が怖がることを織り込んで生きている。
橘厳嗣。橘家の現当主。国内最強の前衛と称される人間が保護者席に座っている。我が子の入学式に来ている。それだけだが、異様だった。あの男は国防の最高幹部だ。公の場に姿を見せること自体が珍しい。秘書官が報告書を届け、他家の代理人が会議室で向き合い、国の官僚が廊下で頭を下げる。そういう生活を送る人間が、今日は保護者として息子の入学式に座っている。
—これが希少職の魔力か。
ゲームの中で「武士」と呼ばれていた橘家の希少職。橘の血を持つ者でも全員がなれるわけではない。なれた者だけが当主の資格を持つ。当主資格は世襲ではない。希少職の発現で決まる。兄弟姉妹のうち武士が発現した者が当主を継ぐ。発現しなかった者は分家に出るか、別の道を歩む。その当主が、今、同じ講堂の中にいる。
孝三郎と茉莉もどこかに座っているはずだ。護衛もいなければ、周囲に隙間もない。普通の親として、普通に座っている。しがない商社の社長はこの規模の公の場では無名の人間だ。それでいい。
壇上に人が立った。
校長。六十代くらいの男。白髪を短く刈り込んでいる。体は細いが、背筋が針金のように伸びている。現役の頃は前衛の剣士で、三年連続でA級探索者に格付けされていたと聞く。引退後に教育の道に入り、十年前から東京校の校長を務めている。
マイクの前に立ち、咳払いを一つ。
「新入生諸君。入学おめでとう」
型通りの祝辞。だが次の言葉で、声の質が変わった。
「諸君は選ばれてここにいる。だがこの学校は、諸君を探索者にしない」
講堂が静まった。特別クラスの最前列で、数名が顔を上げた。聞いていた話と違う、という反応。
「探索者になるのは、諸君自身だ」
校長は壇上からゆっくりと講堂を見渡した。特別クラスも、一般クラスも、等しく。視線の動きに差がない。金糸の列と黒の列を同じ速度で走る目。それ自体が、校長の姿勢を示していた。
「我々が与えるのは知識と基礎だ。それをどう使い、どう実戦に結びつけるかは、諸君が自分で決めろ。この学校のカリキュラムに戦闘訓練は組まれていない。模擬戦と座学と基礎訓練がすべてだ。ダンジョンの実習は初回の一度だけ。それ以降は自分の足で踏みに行け」
新入生の間にざわめきが走った。一般クラスの何人かが顔を見合わせている。聞いていた話と違う、という顔。中学の進路相談で教師に聞いていた話、親から聞いていた話、パンフレットに書いてあった言葉。そのどれとも違う。養成学校は手取り足取り探索者を育てる場所だと思っていた人間には、開始五分で梯子を外された格好になる。
「指示を待つ者は、この学校にいても探索者にはなれない。ダンジョンに立った時、隣に教官はいない。判断するのは自分だ。行動するのも自分だ」
校長の声は淡々としている。煽っているのではない。事実を述べている。この校長は現役時代に自分の判断で多くの部下を失い、自分の判断で多くの部下を生かしてきた。数字を知っている人間の語り方だ。
「我々は、生徒として行動する諸君を全力でサポートする。部活動、見習い探索者登録、あらゆる枠組みを用意してある。だがその枠に収まらない者を、我々は止めない。自分の足で立て。自分の頭で考えろ。それができる人間を、この国は必要としている」
講堂が静まり返った。
—知っている。この演説を。
ゲームの中で、見城大河がこの言葉を聞いて拳を握るシーンがあった。「自分の足で立て」。大河はこの一言をきっかけに行動を開始する。仲間を集め、ダンジョンに挑み、華族の陰謀に立ち向かっていく。物語の起点。ゲームのプロローグの終わり、本編の始まり。
だが大河はここにいない。
この演説に奮起するはずだった人間が、この講堂のどこにもいない。
代わりにいるのは、E判定の泥上がりが一人。見城大河の名前を知っている女が一人。
数列前で、椛川が小さく拍手しているのが見えた。校長の演説に。本気で感心しているのか、演技なのか、陽一には読めなかった。両手を胸の前で合わせる小さな動作。拍手の音は出していない。形だけの賛意。
校長が壇から降りた。続いて学年主任、生活指導と挨拶が続いたが、最初の一文が強すぎて後の言葉は耳に残らなかった。新入生の頭の中にはまだ「自分の足で立て」が残響している。入学式が終わるまで、その残響は消えないだろう。




