第九話6
冑建設の本社は大手町にある。
地上三十二階のビル。冑家の傘下企業の中で最も大きい。ダンジョン開発、鉱山、物流、不動産。日本の地下資源の七割を冑グループが管理している。
甲斐剛志の父—甲斐重蔵は冑建設の常務執行役員、開発事業本部長を兼ねる。冑家の分家。本家の直系ではないが、建設事業の現場を三十年間仕切ってきた叩き上げだ。全国で同時進行する四十七件のダンジョン開発を統括している。
重蔵のオフィスは二十八階にある。窓から皇居が見える。その向こうに霞が関の庁舎群。さっき鷹野たちが会議をしていた建物も、この窓から見える。
重蔵はデスクで報告書を読んでいた。北関東のB級ダンジョン「風穴」の開発計画。冑建設が入口の拡張工事と管理施設の建設を受注した案件だ。工期は六ヶ月、総工費三百億円。ダンジョンの入口を現行の幅十メートルから二十メートルに拡張し、現在ある管理事務所と浴場と買取所を一新する。完成後の試算では、入口のボトルネックが解消されて冒険者の出入り効率は三倍になるが、ダンジョン内部の魔物リポップ速度と買取所の処理能力が頭を打つため、一日あたりの素材産出量は一・八倍に留まる。それでも投資回収は四年半。冑建設にとっては中規模の案件だが、問題は金額ではない。この案件は来月の経営会議での決議マター、その先には経産省ダンジョン庁の事業認可、地元県議会の開発同意、そして来週の五家連絡会議での事前調整がある。北関東の地元選出は松野代議士—冑家系の族議員で、今年秋に改選を控えている。冒険者票を持つギルド支部と揉めた状態で改選期に入られるのは冑として避けたい。重蔵が本家の会長に説明する前に、地元のギルド支部と話をつけておかなければならない。順番を間違えると、すべての層が同時に炎上する。
報告書のページをめくった。「地元ギルド支部との折衝記録」。赤字の付箋が三枚貼ってある。揉めている。いつものことだ。
ギルドとの関係は常に微妙だった。ダンジョンの開発権は冑家が握っている。法的にも、歴史的にも。ダンジョンが発見されて以来、地下資源の開発は冑家の専権事項とされてきた。だが実際にダンジョンの中に入って素材を採取するのは冒険者だ。冒険者はギルドに登録している。ギルドは冒険者の労働条件と報酬を管理する立場にある。冑が開発し、冒険者が潜り、素材を採取し、冑の物流で運び、冑の不動産で建てた施設で加工し、冑の商社ルートで販売する。その循環の中で冒険者が受け取るのは素材の買取価格だけだ。ギルドは冒険者の取り分を守ろうとする。冑は取り分を最小限にしようとする。構造的に対立は避けられない。
ドアがノックされた。秘書が入ってきた。
「北関東のギルド支部長から連絡です。開発計画について意見書が届いています」
「内容は」
「開発に伴う一時封鎖の期間を最短にすること。封鎖期間中の冒険者への補償金を冑側が負担すること」
重蔵はペンを置いた。眉間に皺が寄っている。
「補償金。冒険者がダンジョンに入れない期間の収入を補填しろということか」
「はい。直接補償として、風穴に登録している冒険者約四百人への日当保証を九十日分。一人日当一万円換算で三億六千万。間接損失として、素材流通停止による加工業者・買取業者への補填が約十億。残り二十六億は近隣宿泊業と装備商社の営業補償です。支部長の試算では総額約四十億円」
「積算はギルド本部の定型フォーマット通りか」
「はい。去年に本部が各支部に配った算定マニュアルに沿っています」
重蔵はそこで一瞬止まった。定型フォーマット。つまりこれは北関東の支部長の個人的要求ではない。ギルド本部が全国の支部に配った弾だ。風穴はそのテストケース。ここで冑が折れれば、来月以降、全国四十七件の開発案件で同じ算出基準で出された金額が積み上がる。単純計算で千億は超える。経営会議どころか、本家の会長に「開発事業はもう儲からない」と報告することになる。
「ギルド側は『開発の恩恵は冑が受けるのだから、開発の痛みも冑が負担すべき』と主張しています」
重蔵は椅子の背もたれに体を預けた。窓の外に皇居の緑が見える。
ギルドの主張は筋が通っている。開発すればダンジョンの管理が効率化され、冑の収益が上がる。だがその開発の間、冒険者は仕事ができない。冒険者の多くは日銭で生きている。三ヶ月の収入が途絶えれば、生活が破綻する。
だが冑が補償金を出すと前例になる。今後、全国のダンジョン開発で同じ要求が出る。総額は数千億に膨れ上がる。
「ギルド支部長に返答しろ。補償金は出さない。ただし、封鎖期間中に限り、隣接するC級ダンジョン『霧沢』の冑管理区画の一部、東側第三区画だけだ。そこを一般冒険者に開放する」
「東側第三区画。今はAランク契約枠で押さえている区画ですね」
「九十日間だけ解放する。Aランクパーティには事前に説明を入れろ。『全社的な対外交渉のため、一時的に譲ってほしい』と頭を下げろ。代替枠として関西の二案件を優先的に回す。それで呑ませろ」
「既得権化するリスクは」
「あるから『九十日』と明文化する。契約書に戻す条項を入れて、再開時にAランク枠に戻す。ギルド本部にも同じ文言で通知しろ。『今回に限る』の一文が抜けたら、この案はそのまま次の四十億請求の根拠になる」
「承知しました」
「それと、広報に根回し。『冑は冒険者のためにAランク枠を譲った』という切り口で扇のメディアに流せ。ギルドが金を取ったのではなく、冑が場所を譲った、という記事だ。順番を間違えるな」
「どの順番でしょうか」
「扇に流すのが最後だ。まず経産省ダンジョン庁の開発局長に先に報告を入れろ。『現場の判断で柔軟対応した』という体で、大臣答弁が用意できるようにしておく。次に松野代議士の事務所に一報。秋の改選で『冒険者に配慮した』とパンフに書ける材料を渡しておけ。地元県知事の秘書室にも同文で。その上で扇だ。野党議員が国会で『なぜ北関東だけか』と振ってきた時に、省庁と地元が先に話を知っている状態を作れ。追認で済むようにしておけば、質問にならない」
「承知しました。本部長—大久保側には」
「何もするな。本部長の頭越しに支部長と妥結した、という形を作る。本部が動けば動くほど、支部は先に話が進んだことを恨む。ギルド本部の統一闘争路線に内部から亀裂が入る。それが狙いだ」
秘書が頷いて出ていった。
重蔵はペンを持ち直した。金は出さない。代わりに場所を出す。ギルドが求めているのは金ではなく、冒険者の活動場所だ。論点をずらす。だが場所を出すということは、冑の優先権という目に見えない資産を削ることだ。そこが落とし所だった。
重蔵は窓の外を見た。ダンジョン開発は冑家の根幹事業だ。日本中のダンジョンの入口を拡張し、管理施設を建て、物流網を整備する。その全てに冑の名前が入る。ダンジョンの恩恵を受けるのは全国民だが、ダンジョンを作っているのは冑だ。
息子の剛志が来週から養成学校に入る。特別クラス。甲斐家の分家として、冑の名前を背負って。剛志は体が大きく、力がある。前衛の重装型。だが、頭は固い。序列を疑わない。冑の家の論理をそのまま内面化している。
仮に剛志がいずれこの椅子に座るとして、今日の四十億にどう答えるか。重蔵は想像した。おそらく「払うべきだ」と言うだろう。人が良いからだ。あるいは逆に「一円も出すな」と言うかもしれない。どちらにしても一手だ。経営者は二手先まで見なければならない。払えば前例、払わなければ世論。その間に道を切る。今日の「場所で代替」は二手目の答えだった。剛志は一手目しか見ていない。
それでいいのかどうか、重蔵には判断がつかない。自分も同じように育った。冑の論理の中で生きてきた。「冑が作り、冑が管理し、冑が利益を得る。それが自然な秩序だ」と。だが最近、その秩序にヒビが入り始めている。ギルドの声が大きくなっている。冒険者の待遇改善を求める声が、SNSで広がっている。扇家のメディアはそれを抑え込んでいるが、いつまで抑えられるかはわからない。
剛志にはもう少し広い視野を持ってほしい。冑の内側だけを見ていては、外から何が来ているか気づけない。
重蔵は窓の外を見た。皇居の緑の向こうに霞が関の庁舎がある。あの建物の地下で、今日も五家の代理人が数字を切り合っている。鷹野が北海道の警備を主張し、澄がポーションの値上げを持ち出し、扇が情報を集め、皇がデータで仲裁する。そして冑は開発権を守る。五十年間、同じ構図だ。父の代からそうだった。祖父の代からそうだった。
だがSNSが広がって、冒険者の声が直接届くようになった。ギルドを介さずに、個人が「冑は搾取している」と発信できる時代だ。扇のメディアが抑え込んでいるが、扇の影響力が及ばないプラットフォームもある。海外のSNS。匿名の掲示板。
冒険者の不満は本物だ。名もなき人間が、曲がった剣で浅層を這い回って日当一万円にも満たない収入を得ている。その上にポーション代と装備の修繕費がかかる。手元に残るのは数千円だ。同じ「冒険者」と名乗りながら、華族の傘下企業のAランク探索者は年収三千万を超えている。この格差が持続可能かどうか。
重蔵にはわからない。自分もこの構造の中で育った人間だからだ。構造の中にいる人間には、構造の外が見えない。
だがそれは重蔵が言うべきことではない。息子は自分の目で見て、自分の頭で考えるべきだ。学校に行けば、冑の外の人間と出会う。特待生の金澤美月は冑の傘下ではない。皇の暁人は知識人だ。澄の沙耶は医療の矛盾を知っている。彼らと同じ教室に座れば、剛志の視野も少しは広がるだろう。
そう願うしかない。親にできるのは願うことだけだ。
デスクの上の報告書に目を戻した。北関東のB級ダンジョン。ギルドの意見書。冒険者への補償金。一つ一つの案件が、この国の構造の縮図だった。




