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第九話5

 成田空港の到着ロビーに、カイル・真中は一人で立っていた。

 スーツケースを一つとリュックを一つ。十五歳の少年にしては荷物が少ない。必要なものは現地で調達する。

 四月の日本。空港の空気は湿っている。合衆国の東海岸とは違う湿度。肌に張り付くような空気。カイルは上着を脱いで腕にかけた。

 到着ロビーから外に出ると、迎えの車が待っていた。黒いセダン。運転席にいるのは大使館の職員だ。カイルの留学は表向き民間の交換プログラムだが、裏では合衆国の情報機関が手配している。車も、寮の手続きも、学校への書類も、全部がこのルートで動いている。

 車に乗った。運転席の職員は英語で話しかけてきたが、カイルは日本語で返した。母から教わった日本語だ。発音にほとんど訛りはない。職員は少し驚いた顔をしたが、すぐに日本語に切り替えた。

 車窓の風景が流れていく。高速道路。東京に向かっている。

 日本の道路は綺麗だった。路面にヒビがない。白線が真っ直ぐに引かれている。ガードレールが均一に並んでいる。アメリカの東海岸の高速道路とは全く違う。あちらは路面がうねり、ガードレールは錆びて、出口の標識が半分剥がれていたりする。この国は小さいが、隅々まで手入れが行き届いている。

 看板が目に入った。高速道路沿いの広告塔が次から次へと流れていく。橘重工。皇総研。澄製薬。冑建設。扇電通。一文字の名前がどこにでもある。サービスエリアの自販機にも澄製薬のマークが入っていた。コンビニの看板の横に冑不動産のロゴがある。道路を作ったのも冑建設。ビルを建てたのも冑建設。薬を作ったのは澄製薬。テレビ番組を作っているのは扇電通。この国の経済は華族が回している。

 合衆国の軍産複合体と似ている構造だが、決定的に違う点がある。日本の華族は血で動く。血は変わらない。百年前も今も同じ五つの家が国の中枢にいる。第二次世界大戦が起きなかったこの国では、華族の解体も起きなかった。だから今でもこの看板が並んでいる。

 合衆国の情報機関はこの構造を「非効率だが安定している」と評価している。カイルはその報告書を読んだことがある。渡航前のブリーフィングで。バージニアの施設の地下会議室。窓のない部屋。長机にカイルと担当官だけが座っていた。担当官はスーツを着た四十代の男で、名前を名乗らなかった。報告書は分厚いファイルで、「日本国魔導体制分析—一文字体制の構造と脆弱性」と表紙にあった。

 三時間かけて読んだ。日本の五大華族の歴史。権力構造。経済基盤。軍事力。そして脆弱性。報告書の結論は「一文字体制は血統に依存しているため、血の断絶が最大のリスクである。各家の当主に万が一のことがあれば、体制全体が動揺する」だった。

 十五歳の少年に見せる資料ではない。だがカイルの立場は「少年」ではない。合衆国の養成機関が三年間かけて訓練した情報収集要員だ。体術はA判定。日本語はネイティブ級。そして、人に好かれる顔をしている。母親譲りの柔らかい目元と、父親譲りの彫りの深い鼻筋。日本人にもアメリカ人にも「味方」に見える顔。それがカイルの最大の武器だ。剣でも術式でもなく、顔。

 カイルはスマートフォンを出して、本国の担当官にメッセージを送った。

「到着。問題なし」

 返信はすぐに来た。

「任務を忘れるな。一文字の血統魔導の技術情報。特に術式の構造と適性遺伝のデータ。入手可能なものから順に送れ」

 カイルはメッセージを消して、スマートフォンをポケットに戻した。

 任務。半分は本物の留学で、半分は任務。その境界はカイル自身にも曖昧だった。日本の剣術を学びたい気持ちは嘘じゃない。父が日本人と結婚した理由も、日本の魔導文化への敬意があったからだ。だが母国がカイルに求めているのは敬意ではなく、データだ。

 合衆国から見た日本。「血統に頼る古い国」。日本は「生まれつきの血」で全てが決まる社会を維持している。合理的ではない。だが合衆国の魔導工学では再現できない力が、日本の華族にはある。橘厳嗣の「武士」は体内に埋め込む強化魔導回路チップでは再現不可能だ。なぜか。血の中に何があるのか。それを解明することが、合衆国の国家プロジェクトの一つになっている。

 カイルはその末端にいる。十五歳のスパイ。だが自分をスパイだと思ったことはない。情報収集員。留学生。剣術を学ぶ少年。全部が本当で、全部が嘘だ。

 車が東京に入った。ビルが増える。人が増え、信号が増える。日本の首都は合衆国の都市より小さいが、密度が高い。人と建物と看板が詰め込まれている。その中を華族の名前が縫うように走っている。

 寮に着いた。留学生用の個室は小さい部屋だったが、清潔だった。ベッドと机と小さなクローゼット。窓から校舎の屋根が見える。

 荷物を解いてスーツケースの中身を引き出しに移す。衣類。日用品。訓練用のグローブ。合衆国の養成機関から支給された魔導回路チップが一枚。手の甲に貼り付けると、魔力の出力を三割増しにする。日本では流通していない。使えば合衆国の技術であることがバレる。万が一の保険として持ってきたが、使う日が来ないことを祈っている。

 引き出しの底に小さな写真を入れた。家族の写真。父と母とカイル。カイルが十歳の時に撮ったもの。父はアメリカ人で魔導工学の技師。母は日本人で元探索者だった。母は引退して、今は父の研究所で翻訳の仕事をしている。

 母が日本語を教えてくれた。父が魔導工学を教えてくれた。そして合衆国の情報機関が「任務」を教えた。十三歳の時。養成機関の訓練中に、上官から呼び出された。「お前は日本語が話せる。日本人の顔を持っている。我々にはお前が必要だ」。断る選択肢があったのかどうか、今でもわからない。

 窓の外を見た。校舎の屋根。四月の夜空。星は見えない。東京の空は明るすぎる。バージニアの養成施設の周りには森があって、夜には星が見えた。ここには星がない。

 スマートフォンで母にメッセージを送った。日本語で。

「着いた。部屋は小さいけど綺麗」

 返信はすぐに来た。

「よかった。ご飯ちゃんと食べてね。コンビニばっかりだめよ」

 母は任務のことを知らない。知らないことにされている。父は知っている。知っていて、何も言わなかった。息子が情報機関に利用されていることを知りながら、止めなかった。止められなかったのか、止める気がなかったのか。カイルは聞いていない。聞いても答えは返ってこないだろう。

 三年間。この国で何を見て、何を持ち帰るか。

 ベッドに横になった。

 合衆国の養成機関では、寝る前にその日の情報を整理する訓練を受けた。目を閉じて、見たものを順番に思い出す。画像として。音として。匂いとして。

 今日見たもの。成田空港の到着ロビー。車窓の風景。華族の看板。寮の小さな部屋。窓から見える校舎の屋根。

 明日から学校が始まる。特別クラスに入り、橘の、皇の、澄の子弟と同じ教室に座る。彼らの魔力を間近で感じる。血統魔導。合衆国の魔導回路チップでは再現できない力の正体。それを三年間かけて観察し、分析し、本国に送る。

 だがカイルの中にはもう一つの声がある。剣を学びたい。日本の剣術を、自分の体で。合衆国の体術は合理的だが型がない。効率を追求した結果、美しさを捨てた。日本の剣術には型がある。型の中に美しさがある。母が語ってくれた「日本の武道」は、効率とは別の次元にある力だった。

 任務と学び。二つの目的が同じ方向を向いている間は矛盾しない。だが向きがずれた時、カイルはどちらを選ぶのか。十五歳の少年にはまだその答えがない。

 明るい笑顔の下で、カイルはそれを考えていた。誰にでもフレンドリーな日米ハーフの留学生。それがカイルの仮面だ。仮面の下にあるものは、この学校の誰にも見せない。


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