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第九話3

 千代田区の皇総研。

 地上には何の変哲もないオフィスビルが建っているが、中核は地下にある。皇グループの本社ビル。受付を通り、エレベーターで地下三階に降りると、国内最大の術式研究施設が広がっている。一般の社員は地下二階までしか入れない。三階から下は皇家の血を持つ者と、皇家が直接雇用した研究員だけだ。

 暁人は地下五階にいた。書庫。正確には「封印書庫」と呼ばれている。ダンジョンから回収された古代の術式文献が保管されている場所。温度と湿度が管理され、発光鉱石の光ではなく通常の照明が使われている。古い紙は魔力に反応して劣化することがあるからだ。

 暁人は十二歳の時に初めてここに入れてもらった。皇を名乗っているが暁人は本家ではなく傍系。だが、術式理論の理解力は本家の直系を上回っていた。十一歳の時に書いた術式の解析レポートが、皇総研の研究員の間で話題になった。小学生が書いたものとは思えない精度。父が暁人を地下に連れてきた。「この子には見せておいた方がいい」と。封印書庫の管理官は渋った。傍系の子供に見せる前例がないと。父が押した。「前例がないなら作ればいい。この子は前例になる器だ」。管理官は折れた。

 あれから三年以上が経過した。暁人は入学前の最後の夜をこの書庫で過ごしていた。書庫にいる時だけ、暁人は呼吸が楽になる。地上の世界は騒がしい。人間がいて、感情があって、暁人には読み取れない空気の動きがある。書庫には文献しかない。文献は裏切らない。書いてあることが全てだ。

 手元にあるのは厚さ三センチほどの冊子だった。革装丁で、革の表面が二百年の歳月で黒ずんでいる。表紙に文字はない。開くと中には手書きの術式回路図が描かれている。インクが茶色く変色しているが線は明瞭だ。書いた人間の手が正確だったことがわかる。余白に細かい字で注釈が入っている。当時の皇家の研究者—名前は「皇道玄」とだけ記されている—が書き残した実験記録だ。

 内容は「無属性魔力の形態固定に関する考察」。

 暁人はペンを止めて、冊子のページを見つめた。道玄の字は几帳面だが、時折筆圧が強くなる箇所がある。実験がうまくいかなかった時に力が入ったのだろう。二百年前の研究者の苛立ちが、紙の上に残っている。

 道玄は無属性魔力を体外で固定する方法を探していた。体内では回路に沿って安定する魔力が体外に出た瞬間に拡散する。その拡散を抑えて、特定の形(壁、球、面)に固定する方法。

 道玄の結論は「不可能ではないが、実用に耐えない」だった。実験では体外に出した魔力を三秒間固定することに成功している。だが必要な魔力量が通常の身体強化の十二倍。当時の測定技術では再現性が確認できず、道玄はこれ以上の研究を断念したと記している。最後の頁に「後世の研究者がより精密な測定手段を得た時、この記録が役に立てば幸いである」と書かれていた。

 二百年後の後世の研究者は、この記録を読んでいる。十五歳の少年だが。

 暁人の目にはこの研究の価値がわかった。道玄が断念したのは測定技術の限界であって、理論の限界ではない。現代の魔導理論と計測機器があれば、三秒の固定を十秒に、十秒を三十秒に伸ばせる可能性がある。少なくとも、養成学校の研究項目として「無属性外部放出」の項目を追加する理論的根拠にはなる。道玄の実験データは、その根拠の出発点だ。

 暁人はノートに書き写しながら、隣に座っている管理官に聞いた。

「この文献、養成学校の教官に閲覧許可を出せますか」

 管理官は五十代の男。皇家の直属で、三十年間この書庫の管理を担当している。名前は皇道彦。本家の傍系で、暁人と同じ「皇」の姓を持つが、序列は暁人より上だ。書庫の管理官は皇家の中でも特殊な地位にあり、当主の直接指揮下に置かれている。

 道彦の眼鏡の奥の目が冷たかった。暗い書庫の中で、蛍光灯の光が眼鏡のレンズに反射して白く光っている。

「出せない」

「なぜですか」

「皇家の管理下にある文献は外部に出さない。これは方針だ」

 道彦の声は平坦だった。感情がないのではない。この会話を三十年間繰り返してきた人間の声だ。若い研究者が書庫の文献を見て、興奮して、「これを共有すべきだ」と言う。道彦が断る。毎年同じことが起きる。暁人は最年少の「同じこと」だ。

「方針は変えられます。この内容が教育現場に共有されれば、無属性魔力の研究が進む可能性がある。十年後には新たな魔導理論を構築できるかもしれない」

「暁人くん」

 道彦が初めて暁人の名前を呼んだ。書庫に入ってから三時間、一度も名前を呼ばなかった。「君」か「そこの席」だった。名前を呼んだのは、これから言うことが個人的な忠告だからだろう。

「君が聡いのは知っている。十二歳でここに入った時から見ている。君の理解力は本家の人間を超えている。だからこそ理解してほしい」

 道彦が椅子の向きを変えて、暁人に正面から向き合った。

「皇家が術式を管理しているのは、独占のためじゃない。安全のためだ。検証されていない術式が現場に出れば事故が起きる。五年前に九州の養成学校で、未検証の術式を生徒が試して実験棟が半壊した。覚えているか」

「覚えています。ニュースで見ました」

「あれは皇家の管理外で流出した術式が原因だった。非公式ルートで入手した古い文献を、教官が良かれと思って授業に取り入れた。結果、三人が重傷を負った。管理は必要なんだ。二百年前の研究が正しいかどうか、まだ検証されていない。検証が済むまでは、外に出すわけにはいかない」

 暁人は黙った。九州の事故は知っている。ニュースで見た。三人の重傷者のうち一人は魔力回路が損傷して、探索者への道を断たれた。十七歳の生徒だった。

 安全のため。道彦の言葉は正しい。検証されていない術式は危険だ。それは事実だ。だが「検証する」のも皇家の仕事であり、検証のペースも皇家が決めている。急ぐ理由がなければ、百年でも二百年でも保留にできる。道玄の研究は二百年保留されている。検証を始めた研究者はいない。いないのは「危険だから」ではなく、「必要性が認められないから」だ。皇家にとって無属性魔力の外部放出は優先事項ではない。皇家の血を持つ人間は全員が系統魔法を使えるのだから。無属性しか使えない人間のための研究に、皇家がリソースを割く理由がない。

 術式は書庫に眠り続ける。使われないまま。必要としている人間に届かないまま。

「・・・わかりました」

 暁人はノートを閉じた。書庫を出て、エレベーターに乗った。地下五階から地上へ。深い場所から浅い場所へ。ダンジョンの構造と同じだと思った。深い場所に価値のあるものがあり、浅い場所の人間には届かない。

 地上に出ると、四月の夜の空気が顔に当たった。千代田区の夜。ビルの灯り。車のヘッドライト。地上の世界は明るくて、誰にでも開かれている。だが本当に価値のあるものは地下にある。地下を知っている人間と、知らない人間の間に、壁がある。

 暁人は養成学校に行く。学校には華族以外の人間がいる。一般家庭の特待生。地方から来た秀才。華族の書庫を知らない人間たち。彼らと同じ教室に座る。暁人は知識を持っている。書庫で読んだもの、父から聞いたもの、皇家の血が当然のように与えてくれたもの。その知識と、彼らの知識の間にある差は、努力では埋まらない。

 それが不公平だと思う自分がいる。不公平でも仕方がないと思う自分もいる。

 スマートフォンが震えた。妹の詩織からのメッセージ。

「お兄ちゃん、明日の準備できた?」

「まだ。今から」

「私、制服着てみたんだけど、大きすぎて袖が余る」

「折ればいい」

「折ったら金糸が隠れちゃうよ」

 暁人は少し笑った。詩織は内向的で声が小さい。だがメッセージだと饒舌になる。対面では言えないことを、文字なら言える子だ。

「心配しなくていい。学校は大丈夫だから」

「お兄ちゃんがいるから大丈夫なんだよ。お兄ちゃんがいなかったら無理」

 暁人はスマートフォンをポケットに戻した。詩織を守る。それは暁人にとって自明のことだ。妹は皇家の空気に押しつぶされそうになっている。知識の重圧。血筋への期待。暁人はそれを平気な顔で受け止められるが、詩織はできない。

 学校に行けば、少しは楽になるだろうか。皇家の外の空気に触れれば。

 夜の千代田区を歩きながら、暁人は地下五階の書庫のことを考えていた。あの冊子の内容。いつか検証される日が来るのだろうか。

 皇総研には四百人の研究員がいる。だが封印書庫の文献に触れられるのはそのうち五十人だけだ。五十人のうち、二百年前の文献を読める古語の素養を持つのは十人。十人のうち、無属性魔力の研究に関心を持つのは三人。三人のうち、検証実験を計画する権限を持つのは一人。その一人は六十四歳で、来年定年退職する。

 つまり、あの文献は来年には読む人間がいなくなる。書庫の奥で埃を被って、次の百年を過ごす。

 暁人は養成学校に行く。学校には実験設備がある。シミュレーション室がある。そして—皇家の管理が及ばない自由な時間がある。授業の間は皇家の血ではなく、一人の生徒として扱われる。その時間に何を研究するかは、暁人の自由だ。

 あの冊子の内容をノートに書き写した。暗記もしている。封印書庫から持ち出すことはできない。だがノートに書き写すことは禁止されていない。管理官はノートの中身をチェックしなかった。暁人が何を書いているかに興味がないのだ。あるいは—十五歳の少年が書き写した程度のメモで何かができるとは思っていない。

 それでいい。暁人はメモで何かをするつもりはない。メモは種だ。学校で三年間育てる。三年後に芽が出るかどうかはわからない。だが蒔かなければ芽は出ない。

 帰宅した。皇家の傍系の住居は千代田区のマンションだ。本家の屋敷とは格が違う。三LDKの普通のマンション。父と母と暁人と詩織。四人家族。皇家の傍系にしては慎ましい暮らしだが、一般家庭に比べれば十分に裕福だ。

 詩織が居間のソファで本を読んでいた。暁人が帰ってきたのに気づいて、顔を上げた。

「おかえり」

「ただいま。まだ起きてたのか」

「眠れなくて」

 入学が不安なのだろう。詩織は知らない人間の中に入るのが苦手だ。小学校でも中学校でも、友達は少なかった。一人でいることを選ぶタイプではなく、一人でいることしかできないタイプ。暁人はそれを知っている。

「大丈夫だよ。俺がいるから」

「お兄ちゃんがいるから大丈夫なんだってさっきも言ったでしょ」

「俺がいなくても大丈夫な時が来るよ。いつかは」

 詩織は本を閉じて、暁人を見た。暁人より五センチ低い。小柄で、顔が丸い。皇家の人間にしては柔らかい顔立ちをしている。暁人が鋭角なら、詩織は曲線。

「いつか、ね。いつかが来る前に学校に行かなきゃいけないんだけど」

「だから俺がいる」

 詩織が少しだけ笑った。安心したのではない。兄がいることに甘えている自分を笑っている。自覚はあるのだ。自覚があっても変えられない。それが詩織の苦しみだった。

「お兄ちゃん。学校、楽しみ?」

 暁人は少し考えた。楽しみ。その言葉が自分に当てはまるかどうか。

「・・・知らない人間と話すのは嫌いじゃない。知らない考え方に触れるのは好きだ。だから—まあ、楽しみかもしれない」

「私は怖い」

「怖くていい。怖いまま行けばいい」

 詩織は黙って頷いた。本を持って自室に戻っていった。暁人は居間のソファに座ったまま、天井を見た。

 皇家に生まれた人間の精一杯の反抗。それは書庫の知識を外の世界に持ち出すことだ。直接的にではなく、自分の頭を通して、自分の言葉に変えて。三年間の学校生活で、暁人は知識を運ぶ。地下から地上へ。閉じた書庫から開いた教室へ。


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