第九話2
入学式の五日前。霞が関の合同庁舎の地下二階の会議室。
ここで、国土魔導管理局の管轄で年に四回、四月・七月・十月・一月に「ダンジョン資源配分調整会議」が行われている。実態を知る者はこの会議室が使われる際には「五家の間」と呼ぶ。五大華族の代理人が集まって四半期の成績の総括を行い、翌四半期のダンジョン運用計画を策定する。国の職員は同席するが、発言権はほとんどない。
長方形のテーブルの周りに、五つの家の代理人が座っている。テーブルは黒い漆塗りで、表面に華族の紋章が五つ、金箔で刻まれている。橘の「橘花」、皇の「菊紋」、澄の「蓮花」、扇の「扇」、冑の「兜」。このテーブルは五十年前に冑建設が寄贈したもので、以来一度も動かされていない。五家の関係が変わっても、テーブルは変わらない。
橘家の席には鷹野がいた。橘重工の取締役であり厳嗣の右腕。五十代の白髪交じりの短髪で、軍人上がりの姿勢が背骨に残っている。書類は持っていない。全て頭に入っている。
皇家の席には皇総研の副所長が座っていた。六十代の女性で、眼鏡の奥の目が鋭い。手元に積まれた分厚い書類は皇総研の研究報告書で、この場にいる誰もその中身を全ては理解できない。皇家の代理人が書類を積む行為自体が「我々は知識を持っている」という示威だった。
澄家の席には澄製薬の常務取締役。四十代の男で、にこやかな表情を崩さないが、目の奥が笑っていない。澄家の人間は全員がそうだ。張り付いた笑顔の下に商売人の顔を持っている。
扇家の席には扇電通の常務が座っている。三十代後半。この場で最も若い。扇家は若い人間を前に出す。見た目のフレッシュさも戦略のうちであり、相手に油断させる効果がある。だがこの男が扇家の情報網の中枢にいることを他の四家は知っている。
冑家の席には冑建設の専務。五十代で体格がよく、スーツの肩幅が椅子の背もたれより広い。現場を三十年歩いてきた体だ。この中で唯一、自分の手でダンジョンの岩盤に触れたことがある人間。
テーブルの端—五家の席からは少し離れた位置に、国土魔導管理局の局長が座っている。五十代の官僚で、ネクタイの結び目がきっちりしている。五家の代理人は全員がスーツだが、同じ服でも纏う空気が違う。この国の官僚は華族の調整役であり、決定者ではない。議事録を取り、合意事項を文書化し、省庁に伝達する。それが国の役割だ。
会議は鷹野の報告から始まった。
「北海道海域のダンジョン。北方神聖帝国との緩衝地帯にある三つのダンジョンについて。先月の偵察報告では、帝国側の活動が活発化しています。氷結魔導の残滓が増えている。帝国の術師が境界付近まで来ている可能性がある」
鷹野の声は淡々としている。軍事報告の口調。だがテーブルの空気は変わった。北方神聖帝国。旧ロシア圏の政教一致国家。過酷な環境下で進化した独自の氷結魔導と、死霊術に近い自動人形の軍隊を持つ。日本の北方領土の海域にはダンジョンが三つあり、その地下資源を巡って日本国軍と帝国が長年睨み合っている。血は流れていないが、いつ流れてもおかしくない。
「具体的な偵察結果を共有します」
鷹野が手元のタブレットを操作した。テーブルの中央にあるプロジェクターが起動して、壁に地図が表示された。北海道の北方海域。三つの小島にそれぞれダンジョンのマーカーが付いている。マーカーの周囲に赤い点が散っていた。
「赤い点は氷結魔導の残滓が検出された地点です。先月の調査で三十七か所。前四半期の十二か所から三倍に増えています。残滓の魔力パターンから、帝国の北方師団の術式と推定されます」
テーブルが静まった。三倍。数字の持つ重みを全員が理解している。
「橘としては、緩衝地帯の警備を強化したい。具体的には、北海道駐留部隊、国家探索者を増員する。増員分の人件費と装備費は国と橘が負担する。年間で約百二十億円の追加投資になります。ただし、ダンジョンからの資源採取権の配分を現行の四割から五割に引き上げることを条件とする」
冑家の専務が背筋を伸ばした。
「北海道のダンジョンは冑が開発権を持っている。資源配分の変更は冑の権益に直接影響する。現行の配分は橘四、冑四、国二だ。橘が五に上げるなら、冑が三に下がる」
「三ではなく、国の取り分を一に下げて冑の四は維持する。国に負担を求める」
鷹野の提案に、テーブルの端の局長が顔を上げた。国の取り分を二から一に下げる。つまり国の収入が半減する。
「それは・・・管理局として容易には。国軍の支出も増えますし」
「帝国の活動が三倍に増えている状況で、国だけでは賄えない仕事を請け負っているのが橘です。コストを負担するのも橘です。それなら配分の見直しは当然ではないですか」
鷹野の声は穏やかなまま。だが論理が鋭い。局長は言い返せなかった。橘が守り、冑が開発し、国が取り分を得る。その三者の中で、国だけが大きなリスクを負っていない。国軍という規模の力はあるが、実際に戦闘にならなければリスクを負わない者が同じ取り分を主張するのは、筋が通らない。
冑の専務が口を挟んだ。
「冑の四割を維持するなら、橘の提案に反対する理由はない。国の配分については—」
「管理局内で検討します」
局長の声は小さかった。検討する。つまり、華族の決定に追従する。いつものことだ。
鷹野と冑の専務が目を合わせた。言葉はないが、合意が成立した瞬間だった。橘と冑は利害が対立することもあるが、対帝国という外敵がいる場面では共闘する。内部で争っている場合ではない。
皇の副所長が書類に何か書き込んでいた。澄の事務局長はにこやかに茶を飲んでいた。扇の常務はスマートフォンの画面を見ている。この交渉を誰かにリアルタイムで報告しているのだろう。
局長が口を挟んだ。
「国としては、緩衝地帯の警備強化は支持します。ただ、資源配分の変更は管理局の承認が必要です。手続きに—」
「手続きは後で結構です」
鷹野が局長の発言を切った。穏やかな声。だが切った。局長は黙った。手続きは後。つまり、華族間で決まった後に国が追認する。いつものことだ。
皇の副所長が書類をめくった。
「話を変えます。東京校の件。今年度の特別クラスの編成について」
空気が変わった。ダンジョンの資源
配分は金の話だが、養成学校の人員配置は人の話だ。三年後に国家探索者になる人間を、どの家が確保するか。
「特別クラスの枠は二十名。華族の直系と分家で十二名が確定しています。残りの八枠は特待生と推薦。今年の特待生は四名。金澤美月、姫川あおい、遠峰志帆、早瀬航。それに留学枠でカイル・真中がいます」
「金澤は橘がもらう」
鷹野が即座に言った。声に力みはない。当然のこととして述べている。
「橘の血だ。訓練プログラムへの参加も打診済み。全中三連覇の実績と、魔力の伸びから見て、三年後にはA級探索者の最低ラインに届く。橘流の訓練を受ければ、それ以上も見込める。異論はないと思うが」
冑の専務が口を開きかけて、閉じた。金澤美月は剣士だ。剣は橘の領分。冑が手を出す理由がない。だが冑の専務が口を開きかけたのは、金澤の出身地が冑の勢力圏にある中堅都市だからだ。地元の冒険者ギルドは冑の傘下。金澤が将来探索者になった時の所属先を冑系列にできないかと考えた。だが橘が先に押さえている。一歩遅かった。
澄の事務局長が微笑んだ。
「金澤美月。回復術の適性はないですね」
「ない。前衛の純粋な剣士だ」
「であれば、澄は関心がありません。どうぞ」
澄の事務局長の「どうぞ」は、金澤に興味がないという意思表示であると同時に、「橘に恩を売った」という演出でもある。異論がないものに「どうぞ」と言うことで、将来橘に何かを求める時の小さな布石にする。華族間の交渉はこういう微細な貸し借りの積み重ねで成り立っている。
扇の常務は黙って聞いていた。金澤美月そのものには関心がない。だが「橘が金澤を取った」という事実は記録する。特別クラスの人間関係の地図を描く上で、金澤が橘の影響下にあるという情報は重要だ。
「遠峰志帆は射撃。射撃の人材は橘も冑も必要としている。配分は?」
「遠峰は弓道だ。射撃部に入るだろうが、卒業後の進路はまだ読めない。確保を急ぐ必要はないのでは」
扇の常務が口を挟んだ。
「遠峰志帆。全中弓道優勝。一般家庭の特待生。都内出身で自宅通学ですね。美月さんと境遇が近いですから、特待生同士で自然に接点ができるでしょう」
扇家らしい視点だった。実力ではなく人間関係。誰と誰が近くなるかを先読みして、情報の流れを予測する。
「特待生同士の連帯は学校にとっても望ましい。華族の子弟に囲まれて潰れる人材を減らせる」
鷹野が言った。橘は人材を潰すことを嫌う。才能ある人間を壊すのは国の損失だと考えている。
澄の事務局長が手を挙げた。
「話を戻しましょう。特別クラスの回復枠。澄沙耶と清水恭介で二枠。これは澄家の確定枠として了承をお願いします」
「異論なし」
五家が頷いた。回復は澄の領分。誰も手を出さない。回復術を独占していることへの不満は水面下にあるが、この場では出さない。
「もう一つ。今年度のポーション価格改定について」
澄の事務局長がにこやかな顔のまま、テーブルに一枚の紙を滑らせた。価格改定の提案書。数字が並んでいる。
「原材料のダンジョン産薬草の産出量が前年比で十八パーセント減少しています。特にB級以上のダンジョンから採取される高品位薬草の減少が顕著です。この影響で、ポーションの製造コストが上昇しています。つきましては、卸価格を七パーセント引き上げたい」
「七パーセント」
冑の専務が提案書を手に取った。数字を読んでいる。太い指が紙の上を走る。
「冑の傘下企業は冒険者を四千人以上抱えている。ポーション一本あたりの値上げが七パーセントということは、年間の購買量から換算すると—」
専務が暗算した。現場育ちは計算が速い。
「年間で約三百億円の追加負担になる。冑だけで。他の企業も合わせれば総額で千億は超える。七パーセントは大きすぎる」
「薬草の産出量は冑が管理するダンジョンに依存しています」
澄の事務局長がにこやかに切り返した。にこやかなまま刃を出す。澄のやり方だ。
「産出量が減ったのは冑の管理に問題があるのでは。管理ダンジョンの薬草採取区画が乱獲されているという報告を、私どもの調査チームがまとめています」
冑の専務の顔が強張った。乱獲。冑が管理するダンジョンの中で、冑の傘下企業が薬草を取りすぎている。つまり冑の自業自得だと言っている。
「乱獲ではない。需要増に対応するために採取量を増やした結果、再生が追いつかなくなった。これは管理の問題ではなく需要の問題だ」
「需要を生み出しているのは冑の傘下企業ですよね。冒険者を増やして、ダンジョンに送り込んで、怪我が増えて、ポーションの需要が増える。需要を作っているのは冑なのに、供給が足りないから値上げしますという論理は—」
「それは澄が言うことか? ポーションを製造して売っているのは澄だ。需要が増えて一番儲かっているのは澄じゃないか」
テーブルの空気が険しくなった。澄と冑の対立は五家の中で最も古い。ダンジョンの開発と医療。入口と出口。冒険者の体を通して、二つの家の利害が絡み合っている。
皇の副所長が口を挟んだ。
「魔力濃度の周期変動については皇総研の報告があります。今期はダンジョン全体で魔力濃度が低下する時期に当たっており、薬草の生育に影響が出ているのは事実です。乱獲が原因かどうかは、現時点のデータでは断定できません」
皇家が仲裁に入った。データを出して、どちらにも加担しない。皇家はこうやって中立を保ちながら両者に借りを作る。
「であれば、価格改定は一時的な措置として期限をつけるべきだ。恒久的な値上げは受け入れられない」
「三ヶ月の暫定措置として提案します。次回の会議で魔力濃度の推移と薬草産出量を再評価した上で、延長か撤回かを判断する。これなら皆さんご納得いただけるのでは」
澄の事務局長が微笑んだ。三ヶ月の暫定。だが三ヶ月後に「まだ濃度が低い」と言えば、延長される。延長が二回続けば、既成事実になる。澄家の事務局長はそれを見越して「三ヶ月」と言っている。冑の専務もそれを見越している。だが今ここで「永久に認めない」と言い切る根拠がない。皇のデータが「乱獲が原因とは断定できない」と言ってしまったから。
鷹野は黙って聞いていた。橘の関心はダンジョンの資源配分と国防であって、ポーションの価格は直接関係しない。だが回り回って、橘系列の探索者の運用コストに影響する。ポーションが七パーセント上がれば、橘系列のクランの経費が年間で数十億円増える。無視できる額ではない。
扇の常務は手元のスマートフォンに何かを打ち込んでいた。この交渉の結果を誰かにリアルタイムで伝えている。ポーション価格の改定は消費者物価にも影響する。報道のネタになる。だが扇が報じるのは「澄製薬が価格を引き上げた」ではなく「ダンジョンの環境変化により、やむを得ない措置」だろう。澄家に不利な報道は扇家の利益にならない。五家は互いの弱みを報じない。暗黙の不可侵条約。
局長が議事録を取っている。ペンが追いついていない。この会議の内容は省庁内でも限定公開だ。五家の交渉の詳細を知る官僚は、局長を含めて三人しかいない。
会議は三時間続いた。
終了後、鷹野は廊下で皇の副所長と立ち話をした。
「鷹野さん。先ほど仰っていた『引っかかる動きをする人間がいない』という件。少し気になりますね」
副所長が言った。
「気にはなります。ただ、年によって波はありますから」
「皇総研としても、今年の入学者の適性データには目を通しましたが、数値的には例年と大差ありません。A判定以上の人数も標準範囲です。数字では見えない部分で何かが足りない、ということですね」
「ええ。言葉にするのが難しいんですが—入試の映像を見た時の、背筋が伸びる感覚がなかった。こいつは化けるかもしれないという予感。それが今年はなかった」
副所長は眼鏡を直した。
「予感は数値化できませんが、鷹野さんの予感は三十年間の実績に裏付けられています。来年以降に期待しましょう」
副所長は書類を胸に抱えたまま廊下を歩いていった。ヒールの音が遠ざかる。角を曲がる直前に一度だけ振り返って、鷹野に小さく頷いた。
鷹野は一人で廊下に立っていた。
霞が関の庁舎の廊下は長い。足音が反響する。ダンジョンの通路より静かだが、駆け引きの密度は変わらない。北海道の資源配分。特別クラスの人員配置。ポーションの価格。一つ一つの議題の裏に、五家の利害が絡み合っている。魔物を斬る代わりに数字を斬り合い、剣の代わりに言葉で突き合う。血が出ない戦場だ。だが負ければ、血が出る戦場に影響が及ぶ。
鷹野は三十年間この廊下を歩いてきた。橘厳嗣が当主になる前から。先代の当主に仕え、厳嗣に引き継がれ、今は厳嗣の右腕として五家の会議に出席している。三十年で変わったことと変わらないことがある。テーブルの漆は光沢を失ったが、五つの紋章は変わらない。代理人の顔は何度も変わったが、各家の主張する内容は変わらない。橘は国防を、皇は知識を、澄は医療を、扇は情報を、冑は開発を。同じ主張を、異なる数字で、異なる人間が繰り返す。
変わらないということは安定しているということだ。だが変わらないということは進歩しないということでもある。
鷹野は携帯を取り出して、厳嗣に報告のメッセージを送った。
「北海道:橘五冑四国一で合意。特別クラス:金澤は確保。ポーション:七パーセント暫定三ヶ月」
三行。それで全部伝わる。厳嗣は三行を読んで、必要な判断を下す。それだけの関係を三十年間築いてきた。
廊下を歩いて、庁舎を出た。四月の午後。霞が関の空に雲はなかった。桜の季節は終わっている。庁舎の前の通りに、黒い車が止まっていた。橘の車。鷹野が乗り込むと、運転手が無言でエンジンをかけた。車が動き出す。霞が関の庁舎が後部の窓に映って、遠ざかっていく。
次の会議は七月だ。その頃には東京校の新入生が入学して一学期を終えている。金澤美月がどれだけ伸びたか、蓮司がどう成長したか。数字が出る。数字を見て、次の手を打つ。華族の時間はそうやって流れていく。
鷹野は窓の外の東京の街を見ていた。ビルの間から空が見える。青い空だ。この空の下で、来週、百人以上の新入生が養成学校に入る。その中の誰が三年後にSランクになるのか。誰が途中で折れるのか。誰が華族の期待に応え、誰が期待を裏切るのか。
それはまだ誰にもわからない。




