表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/53

第九話1

 橘家の私邸は世田谷の奥にある。

 表通りから車で十分。住宅街を抜けた先の、木立に囲まれた一角。塀は低いが、塀の向こうに何があるか見通せないように植栽が配されている。近隣住民はここに誰が住んでいるか十分に知っている。知っていて近づかない。

 四月の朝。桜は散り終えていた。庭の地面に花弁の残骸が茶色く貼りついている。掃除が入る前の、早朝の庭。

 蓮司は道場にいた。

 私邸の離れにある板張りの道場。壁に橘家の家紋が掲げられ、天井は梁がむき出しの高い造りになっている。窓はない。壁面に埋め込まれた発光鉱石が青白い光で空間を均一に照らしている。ダンジョンの中と同じ光。この道場はダンジョンの環境を模して設計されており、温度も湿度もダンジョンの中層に合わせて調整されている。朝の四時台、東京の気温は十二度だが、この道場の中は十八度。湿度は七十パーセント。ダンジョンの第2区と同等の条件で訓練するためだ。

 木剣を構えている。正眼。腰を深く落とす。足の裏に魔力を溜める橘流の基本型。五歳から毎朝繰り返してきた型だ。初めてこの道場に入った日のことを覚えている。木剣が重くて、十回振ったら手が痺れた。父は何も言わず横に立って、百回振った。蓮司はそれを見て、泣きながら十一回目を構えた。

 振り下ろした。

 空気が裂ける音がした。木剣の軌道に沿って魔力が走り、板張りの床に衝撃が届く。足元の板が軋んだ。この道場の床板は魔導樹の材で、普通の衝撃では傷一つつかない。蓮司の一振りでは軋むだけだ。父の一振りなら板が割れる。十年間、その差を縮めようとしてきた。縮まった。だがまだ板は割れない。

 もう一本。もう一本。十本。二十本。五十本。

 汗が首筋を伝って、道着の襟に染みていく。呼吸が少し乱れている。だが足は止めない。橘の朝は素振りで始まる。蓮司が物心ついた頃からそうだった。兄はもういない。三年前に橘家を出て、欧州の騎士団に留学した。兄が去ってから、蓮司は一人でこの道場に立っている。

 百本目を振り終えた時、道場の引き戸が開いた。

 足音はなかった。気配だけが空間に流れ込んできた。道場の空気が一変する。蓮司の纏う魔力が、流入してきた別の魔力に押されて縮む。呼吸が一拍詰まった。

 父だった。

 橘厳嗣。橘家の現当主。国防魔導軍の最高幹部。希少職「武士もののふ」の持ち主。立っているだけで空間が歪む人間。

 厳嗣は道場の入口に立って、息子の素振りを見ていた。浴衣姿。朝の身支度を終えたばかりだろう。髪が少し濡れている。その姿で纏う魔力が、蓮司の全力の素振りより重い。力を入れているのではない。存在しているだけで漏れ出す、純粋な密度。

「百本か」

 厳嗣の声は低い。道場に響くが、反響しない。壁の魔導素材が音を吸い込んで、余韻を残さない設計だ。ダンジョンの中と同じ音響環境。反響に頼った距離感は通用しない。自分の耳だけが頼りになるように、この道場は作られている。

「はい」

「腰が浮いただろう。楽をしようとしてはいかん。七十三本目から甘くなっている」

 蓮司は黙った。七十三本目。自分では気づかなかった。六十本を超えたあたりから疲労が蓄積して、無意識に腰が浮く。そこを父に見抜かれた。だが引き戸が開いたのは百本目の後だ。それ以前から気配はなかった。橘厳嗣は希少職「武士」の持ち主だ。気配の制御は呼吸と同じように自然に行える。見ようと思えば、息子の素振りの一本目から最後の一本まで、気配を消して見ていられる。蓮司が気づけないのは蓮司の未熟ではなく、父の制御が人間の域を超えているからだ。

「朝食にしよう」

 厳嗣が背を向けて歩いていった。蓮司は木剣を架台に戻して、父の後を追った。


 朝食は母屋の和室。

 畳の部屋。掛け軸。花瓶に白い花が一輪。質素な和食が並んでいる。焼き魚、味噌汁、漬物、白米。橘家の朝食は華族の中で最も質素だと言われている。冑家は洋食を取り入れ、扇家はフルコースを出す。橘だけが武家の食事を守っている。

 蓮司が正座して箸を取った。厳嗣が向かいに座る。護衛が廊下の外に控えている。足音は聞こえないが、気配で三人いることがわかる。蓮司の索敵能力で感知できる範囲に常に三人。それが橘当主の日常だ。

 食事は無言で進んだ。厳嗣は食べるのが早い。軍人の食事。味わうためではなく、栄養を摂取するための動作。蓮司も同じ速度で食べる。幼い頃から父と同じ速度で食べることを求められた。戦場では食事に時間をかけられない。

 味噌汁を飲み干した時、厳嗣が口を開いた。

「入学式に出る」

 蓮司の箸が止まった。父が入学式に出る。それは普通のことではない。橘厳嗣が公の場に姿を見せること自体が珍しい。国防の最高幹部が学校行事に出席すれば、それだけで政治的なメッセージになる。

「保護者としてだ。深い意味はない」

 深い意味がないことをわざわざ言う。つまりある。だが蓮司は聞かなかった。父が言わないことは聞かない。

「鷹野から報告があった」

 厳嗣が湯飲みを置いた。食事が終わってから話す。食事中に仕事の話をしないのも橘の流儀だ。

「今年の東京校。特別クラスの査定が済んだ。気にしておくべき名前がいくつかある」

 蓮司は姿勢を正した。査定。入学前から始まっている。華族にとって養成学校は教育機関であると同時に、人材の青田買いの場だ。三年後に国家探索者になる人間を、今のうちから選別して自陣に引き込む。橘も、澄も、皇も、扇も、冑も、全家がそれをやっている。

「皇暁人と詩織の兄妹。皇の傍系だが、暁人の術式理論の理解力は本家級だそうだ。教官クラスの知識を入学前から持っている」

「皇家は知識の管理に長けています。暁人がその器なら、教育者として優秀ですが、前線に出るタイプではないかと」

「同感だ。妹の方は不明だ。内向的な性格と聞いている。兄が盾になるだろう」

 厳嗣が話を続けた。澄沙耶。澄家の直系。回復術の天才。清水恭介。澄の分家。この二人で回復枠が固まる。甲斐剛志。冑家の分家。前衛の重装型。扇悠馬。扇家の直系。情報戦が得意。

 華族の子弟は予定通りだった。問題は華族の外から来る人間だ。

「特待生。今年は四人。金澤美月。全中剣道三連覇。姫川あおい。全中三位。遠峰志帆。全中弓道優勝。早瀬航。全中槍術優勝。いずれもA判定以上」

「金澤美月」

 蓮司がその名前で止めた。

「映像を見ました。踏み込みに魔力が乗り始めている。一般家庭で育って橘流の訓練を受けていないのに、中学の試合であの魔力の乗せ方ができるのは橘の血の力以外に説明がつきません」

 厳嗣が蓮司を見た。息子の評価を聞いている。

「ただし、橘流の型は入っていません。道場剣道の延長です。剣技の癖が強い。矯正するには時間がかかります」

「矯正する必要はない。伸ばせばいい。金澤の家系には何代か前に橘の血が入っている。才能が開花したのはその血だろう」

 蓮司は黙った。橘の血。蓮司自身もその血を持っている。蓮司と金澤美月の間にある差は、血の濃さと、幼少期からの訓練量だ。美月が五歳から橘流を叩き込まれていたら、今頃どれだけ強かったか。だがそうはならなかった。美月は一般家庭で育ち、道場剣道で三連覇を取った。橘の訓練なしで。

 それが血の濃さの違いというものだ。

「鷹野が訓練プログラムへの参加を打診している。お前と同じ年だ。面倒を見ろ」

「はい」

 面倒を見ろ。父が「見ろ」と言った人間には何かがある。父の目を通った人間を、蓮司も自分の目で見る。金澤美月。橘の血が混じった剣士。蓮司は映像でしか見ていないが、あの剣筋は覚えている。速くはない。だが正確だ。正確すぎる。一打一打が無駄なく、真っ直ぐに的を射る。

「もう一つ」

 厳嗣が付け加えた。

「留学生が一人いる。合衆国から。カイル・真中」

「合衆国の」

「体術。A判定。合衆国の養成機関で訓練を受けている。名目は留学だが—」

 厳嗣は言葉を切った。蓮司は理解した。名目は留学。実態は情報収集。合衆国は日本の血統魔導を解析しようとしている。毎年のように養成機関から人間を送り込んでくる。今年のそれがカイル。

「近づいてきたら、距離を取れ。だが排除するな。目の届く場所にいてもらった方がいい」

「はい」

 蓮司は頷いた。華族の子弟として生まれた人間は、十五歳で既に政治を理解している。橘の世界はダンジョンだけではない。人間関係の中にも戦場がある。

「最後に」

 厳嗣の声のトーンが変わった。少しだけ柔らかくなった。

「鷹野が気にしていたことがある。今年の東京校の入試映像に、鷹野の目が引っかかる子がいなかったそうだ」

「引っかかる、とは」

「数字の話ではない。適性判定がA判定の人間は十人以上いる。数字は揃っている。だが鷹野が言うには、入試の映像を全員分見ても、予測できない反応、型にはまらない判断、常識の外にある身体の使い方—そういう動きを見せた生徒がいなかったと」

「例年はいるのですか」

「例年は一人か二人はいる。鷹野の勘に引っかかる程度の異能。そこまでならまだ勘で拾える範囲だなんだが、問題は鷹野でも気が付かない異能だ」

 蓮司は眉を寄せた。

「鷹野さんが気づけない異能ですか」

「そう。本物の規格外。今年の東京校に引っかかる子がいなかったという報告は、二通りに解釈できる。一つ、本当に今年は凡庸な年だった。もう一つ、鷹野にも見えない人間が、どこかに混じっている」

 蓮司は考えた。数字ではなく動き。鷹野は三十年間、新入生の入試映像を見続けてきた人間だ。何千人もの十五歳を見てきた目が「今年は何かが足りない」と言っている。その感覚は数値化できない。だが鷹野の勘は橘家の人事判断を三十年間支えてきた。外したことがほとんどない。

「まぁ、本当に粒ぞろいなだけで、つまらない学年という可能性の方が高いだろう。ただ、例外というのはかつても存在した」

 そう言った厳嗣は遠い記憶を引き出しているように見えた。誰のことを考えているのだろうか。

「気にする必要はありますか」

「今のところはない。学校が決めることだ。ただ、お前が教室に入った時に、周囲の生徒の中に『何か』を感じる人間がいれば、名前を覚えておけ。鷹野に見えないものが、十五歳のお前に見えることもある」

 厳嗣はそう言って、立ち上がった。

 食事が終わった。厳嗣が立ち上がる。蓮司も立った。

 厳嗣が和室を出る時、ふと立ち止まった。振り返らずに言った。

「蓮司」

「はい」

「強くなれ。誰かを守れる人間になれ」

 廊下に消えていった。護衛の気配が一斉に動く。当主の移動に合わせて配置が変わる。

 蓮司は一人で和室に残った。

 窓の外に庭が見える。散り残った桜の花弁が風に巻かれて、地面を転がっていく。

 強くなれ。父は「橘の名を汚すな」とは言わなかった。「橘を背負え」とも言わなかった。守れる人間になれ。それが父の言葉だ。

 蓮司は自分の手を見た。木剣の握りダコ。五歳から十年、毎日握り続けた手。この手で何を守るのか。誰を守るのか。答えはまだ出ていない。だが、出さなければならないことはわかっている。




 自室に戻った。二階の奥の部屋。窓が大きく、庭が見下ろせる。部屋は質素だ。ベッドと机と本棚。本棚には剣術の技法書と、ダンジョンの構造に関する文献が並んでいる。小説はない。漫画もない。蓮司の部屋にはエンターテイメントがない。そういう育ち方をしてきた。

 机の上に入学の書類が積まれている。制服は昨日届いた。金糸の制服。蓮司にとってはただの布だ。金糸があろうがなかろうが、剣を振る時に邪魔にならなければそれでいい。

 窓の外を見た。庭の向こうに、東京の街が広がっている。ビルの灯り。車のヘッドライト。この街を守っているのは橘だ。北海道の国境を守っているのも橘だ。九つの特級遺構のうち三つを管理しているのも橘だ。

 五歳の時、父に連れられてS級ダンジョンの第一ダンジョンに入った。

 入口は東京郊外の山中にある。車で二時間。道の最後は未舗装で、橘の車しか通れない道だった。入口の前に橘警備保障の警備員が四人。五歳の蓮司を見て、敬礼した。

 入口は巨大だった。幅二十メートル。高さ十メートル。入口のアーチに発光鉱石が密集していて、昼間のような明るさで通路を照らしている。

 浅い階層。魔物はあらかじめ間引かれていて、安全なルートの要所に休憩室がある。華族の子弟にとっての「遠足」の場所だ。だが蓮司には遠足ではなかった。父がいた。父が隣に立っているだけで空間の質が変わる。S級ダンジョンの浅層の魔力濃度に父の纏う魔力が重なって、五歳の蓮司は立っているだけで胸が詰まった。

 父が蓮司の手を引いて歩いた。大きく硬く温かい手だった。その手に引かれると息苦しさが少し和らいだ。父の魔力が蓮司を包んでいるのだと、後になってわかった。「武士」の魔力には周囲を守る性質がある。

 通路の途中で父が立ち止まった。壁に手を当てて岩盤に指を滑らせた。

 「これがダンジョンだ」と父が言った。蓮司を見下ろした。「お前が守るべきものは、ここにある」。

 ダンジョンの奥に何があるのか、五歳の蓮司にはわからなかった。魔物がいる。資源がある。それは教わった。だが「守るべきもの」が何なのかは教わらなかった。父は説明しなかった。体で覚えるしかないことを、父は知っていた。

 十歳の時、第四ダンジョンの中等階層に入った。今度は護衛つきではなく、父と二人きりで。魔物が出た。中等階層の魔物は、蓮司が道場で木剣を振っている相手とは別物だった。速くて、硬くて、殺意がある。木剣ではなく真剣を握った。初めての真剣。手が震えた。

 父が一歩前に出て、魔物を一刀で斬った。蓮司は手も出せなかった。震える手で剣を握ったまま、父の背中を見ていた。

 「震えたか」と父が聞いた。「はい」と答えた。父は頷いた。「震えることは恥ではない。震えながら立っていたことが重要だ。逃げなかった。それでいい」

 あの日から、蓮司は「橘」の意味を理解し始めた。

 橘は戦う家だ。国の最前線に立つ家だ。他の四家にはそれぞれの役割がある。皇は知識を、澄は命を、扇は情報を、冑は大地を。だが橘だけが剣を持つ。橘だけが血を流す。北海道の国境で帝国の術師と対峙するのは橘の人間だ。S級ダンジョンの深層に踏み込むのも橘の人間だ。他の四家は橘の剣に守られて、それぞれの仕事をしている。

 蓮司がこの家に生まれたのは偶然だ。だがこの家で育った以上、前線に立つ覚悟を求められる。それは選択ではない。血の義務だ。兄は三年前にその義務から降りた。欧州の騎士団に留学という形で。表向きは「研鑽のため」だが、実態は橘を離れたかったのだと蓮司は思っている。兄は武士にならなかった。橘の血を持ちながら希少職が発現しない。まだ若いから可能性はあるはずだったが、父は何も言わなかった。だが兄は自分で判断した。自分はここにいるべきではないと。

 蓮司は兄と違う。蓮司には武士が発現するかもしれない。まだわからない。十五歳ではまだ早い。だが兄より才能があることは、道場の型を見ればわかる。父もそれを知っている。だから「面倒を見ろ」と言って将来の婚約者候補となる金澤美月をつけた。蓮司の周りに人を配置している。蓮司が橘の次の柱になることを、父は期待している。

 来週、養成学校に入る。華族の子弟と、一般の特待生と、留学生が同じ教室に座る。蓮司にとってそれは新しい環境だが、本質は変わらない。橘の剣を振る。強くなる。誰かを守れる人間になる。父が言った言葉を、蓮司は自分の言葉にしなければならない。

 窓の外の東京の灯りが瞬いている。あの灯りの一つ一つの下に人がいる。蓮司が名前も顔も知らない人間が、生活している。その人間たちを、橘が守っている。いずれは蓮司が守る。

 ベッドに横になった。天井を見た。道場の天井は梁がむき出しだが、自室の天井は普通の白い板だ。この白い天井の下で眠って、明日もまた素振りから始まる。明後日も。入学してからも。三年間。その先も。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ