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第八話3

 四月。入学式の朝。

 照川家の玄関で陽一は靴を履いていた。

 黒い制服は装飾のない一般枠の制服。ボタンは銀色で襟も袖も無地。体には合っている。三月に採寸して仕立てたから、中学の制服のような丈の不揃いはない。だがそれだけだ。何の主張もない、ただの黒い制服。

 茉莉が玄関に立っていた。よそ行きの服を着ている。息子の制服の背中を一度だけ手で払った。

 孝三郎も書斎から出てきた。照川商事の仕事着ではなく冠婚葬祭用のスーツを着ている。

「今日は仕事を休んだ」

 陽一は少し驚いた。孝三郎が平日に仕事を休むのは滅多にない。

「入学式だ。行くに決まってるだろう」

 茉莉が夫の袖を直しながら、小さく笑った。

 三人で家を出た。

 四月の朝。空気が柔らかいく、桜はもう散りかけている。花びらが歩道の端に吹き溜まっている。住宅街の通学路。見慣れた道。だが今日から、この道の先から向かう場所が変わる。

 角を曲がった。

 陽一の足が止まった。

 孝三郎と茉莉は数歩後ろにいた。茉莉が何か言いかけたが、孝三郎が軽く腕に触れて止めた。二人は立ち止まって、先を見た。

 十メートル先に、人が立っていた。

 金糸の刺繍が朝日を受けて光っている。襟と袖口に施された精緻な金の糸。特待生用の特注制服。同じ黒でも、陽一の制服とは素材からして違う。仕立てが違う。纏う空気が違う。

 美月が、通学路の角に立っていた。

 目が合った。

 そして、美月が笑った。

 先月、教室で「覚えているだけだ」と言われた時には消えかけた笑顔が、今朝は最初から灯っていた。待ち伏せまでして。金糸の制服を着て。同じ学校への道に立って。

 美月の中では、もう答えが出ているのだ。口で何と言おうと、陽一は養成学校に来た。約束の場所に来た。それだけで十分だと、あの笑顔が言っている。

 —違う。

 俺はお前のために来たんじゃない。

 そう言うべきだったのかもしれない。だが言えなかった。言えば嘘になるのか本当になるのか、自分でもわからなかったからだ。

 美月の笑顔が—揺れた。

 陽一の目を見たからだ。

 息を呑む音が聞こえた。小さな音。だが朝の静かな住宅街では、はっきり届いた。

「陽一・・・」

 美月の声が掠れた。

 陽一は歩き続けた。立ち止まらなかった。美月の前まで来て、足を止める。

 美月が見上げている。—見上げている。中学の頃はほぼ同じ身長だったのに、今は陽一の方が高い。十センチ近く差がある。二年間のダンジョン生活が体を作り変えた。

 だが美月が息を呑んだのは、身長のせいではない。

 陽一の目だ。

 先月、教室で会った時は気づかなかった。いや、気づかないふりをした。「覚えているだけだ」と言われても、同じ学校に来てくれた事実の方を信じたかった。あの日から一ヶ月、美月はずっとそう信じていた。

 だが今、目を見てわかってしまった。

 差し出した手を取れなかった少年の目に—劣等感が、微塵も残っていなかった。

 自分を見上げるでも見下ろすでもなく、ただ対等に。いや自分の「光」をもはや必要としていない。底知れない泥沼のような静けさがそこにあった。

「おはよう、美月。入学おめでとう」

 何の気負いもない声。淡々と。すれ違うように、歩き出す。

 美月は動けなかった。

 背中を見送る。黒い制服。装飾のない背中。あの背中は自分を追いかけてここに来たのではない。自分が知らない間に、想像もつかない場所で、自分とは全く別の道を歩いて、ここに立っている。

 美月は唇を噛んだ。胸の奥で、何かが軋んだ。

 —何が変わったの、陽一。

 問いかけたかった。だが声が出なかった。問いかけたところで、あの目をした人間が答えてくれるとは思えなかった。

 数秒の後、美月も歩き出した。陽一と同じ方向へ。同じ学校へ。だが二人の間には、制服の金糸の分だけ—いや、それ以上の距離があった。


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