第八話2
三月。
合格発表から入学式までの一ヶ月余り、陽一はダンジョンに潜り続けた。高校生活が始まれば、今のように毎日長時間潜ることはできなくなる。その前に、できるだけ深く。
廃坑ダンジョンの深層を繰り返し周回した。鉱石蜥蜴の関節を正確に突くのに二十分かかっていたのが、十分を切るようになった。鉄殻蟹の装甲の隙間—腹節と脚の付け根—を短剣で抉る角度が体に染みついた。自己再生の発動は一日に何十回。魔力を使い切り、枯渇の底で回復し、また使い切る。そのサイクルの中で、魔力の器がさらに広がっていくのを感じていた。
制服の採寸では、養成学校から届いた書類に従って指定の店で一般枠の黒い制服を仕立てた。付き添いの茉莉は試着室から出てきた陽一を見て、少しの間黙っていた。
「・・・大きくなったわね」
中一の冬、不登校で痩せこけていた息子。あの頃とは体が違う。肩幅が広がり、背が伸び、腕に筋肉がついている。黒い制服がその体格を隠すように覆っている。
「似合ってるわよ」
茉莉はそう言って笑った。陽一は鏡に映る自分を見た。装飾のない黒い制服。これを着て、あの学校に通う。美月と同じ学校に。見城大河と同じ学校に。
—いや、美月のことはもういい。大河に任せる。自分はモブだ。
制服を畳んで紙袋に入れた。
合格の噂は、思ったより早く広まった。
養成学校への進学は中学に書類が届く。担任が知り、職員室で話題になり、教師から生徒に漏れる。一日で広まった。
「照川が養成学校に受かったらしい」
「あの不登校の? 嘘だろ」
「スポーツやってないのにどうやって」
「家が商社だから、コネじゃないの」
廊下で、教室で、陽一の耳に届く場所で囁かれている。陽一は聞こえないふりをした。噂は放っておけば消える。否定も肯定もしない。透明のまま卒業する。
美月にも届いただろう。別のクラスだが、同じ学校だ。「照川陽一が養成学校に合格した」—その情報が美月の耳に入らないはずがない。
案の定、翌日の昼休みに美月が陽一の教室に来た。
美月の周りにはいつも人がいる。中二で別のクラスになってからは取り巻きが増え、学年の有名人だ。その美月が陽一の教室に姿を見せれば、それだけで周囲がざわつく。美月はそれを気にする様子もなく、まっすぐ陽一の席に向かってきた。
「陽一」
陽一は机で術式ノートを開いていた。顔を上げた。
美月が立っている。目の前に。至近距離で向き合うのは久しぶりだった。
美月の目が—光っていた。怒りではない。疑いでもない。期待だ。
幼い頃の約束。「私が前衛、陽一は遊撃」。小学生の頃に道場で交わした言葉。二人で養成学校に行って、二人で探索者になる。あの約束を陽一がまだ覚えていて、自分を追いかけて来てくれた—美月の目には、その期待が灯っていた。
「養成学校に受かったって本当?」
声が弾んでいた。抑えようとしているが、抑えきれていない。
「ああ」
「なんで—いつから—」
問いが溢れかけている。美月の頬が紅潮している。嬉しいのだ。中一の秋に壊れたと思っていたものが、まだ生きていた。陽一が同じ場所に来てくれる。もう一度、隣に立てる。
「・・・ねえ、覚えてる? 小学生の時の約束。私が前衛で、陽一が—」
「覚えてるよ」
美月の顔がほころんだ。
「けど、覚えているだけだ」
美月の笑顔が—止まった。
「陽一?」
陽一の声は穏やかだった。否定はしなかった。覚えている。それは事実だ。だが覚えているだけだ。あの約束のために養成学校に来たのではない。あの約束を果たすために二年間泥の底を這ったのではない。
美月は陽一の目を見ていた。じっと。数秒間。
そこに何を探したのか。期待の残り火か。かつての幼馴染の面影か。自分を見てくれる温度か。
—何も、なかった。
陽一の目は澄んでいた。美月を見ている。だが美月を「特別な存在」として見ていない。クラスメイトを見るのと同じ目。道端で知り合いに会った時の目。過去も、約束も、劣等感も—全部、消えている。
美月は一瞬だけ目を伏せた。だが、顔を上げた時には、もう笑っていた。さっきの弾んだ笑顔ではない。少し大人びた、静かな笑み。
一歩下がった。
「同じ学校なんだから、また話せるよね。いろいろ聞きたいこと、たくさんあるから」
軽い声。明るく振る舞おうとしている。完全には成功していなかったが、それでも美月は笑っていた。諦めきれない。諦める気がない。今日ここで全部を聞き出せなくても、同じ学校に三年間いるのだ。時間はある。
「じゃあ、またね」
手を振って、教室を出ていった。
陽一は術式ノートに視線を戻した。
美月にはゲームの中で決められた道がある。見城大河と出会い、仲間になり、華族の陰謀に巻き込まれ、最終的には大河とともに世界を変える。それが美月のシナリオだ。モブがそこに割り込めば、主要キャラの動線が歪む。美月の未来を壊しかねない。
それだけではない。
二年間の泥の底で、美月への感情が変質した。かつてあった羨望も、劣等感も、憧れも—削ぎ落とされた。毎日体を壊し、治し、壊し、治す日々の中で、自分が別の場所に立っていた。美月の光が遠ざかったのではない。自分の足が、別の方角に向かっていた。美月がいる世界と、自分がいる世界が、もう重なっていない。
約束は覚えている。だがそれは記憶であって、原動力ではない。自分を養成学校に運んだのは約束ではなく、生き残るための計算だ。
美月を拒絶しているわけではない。ただ、美月が期待するような形で隣に立つことが、もうできない。
—それが寂しいかと問われれば。
陽一はノートのページをめくった。考えない。考えても仕方がない。
周囲のクラスメイトの視線が刺さっている。「金澤と照川って知り合いなのか」「幼馴染らしいよ」「金澤さん、なんか怒ってなかった?」。囁き声。
透明でいたい。だが美月が来た時点で、それは少し難しくなった。
三月の半ば、卒業式。体育館で証書を受け取り、教室で担任の最後の挨拶を聞いた。陽一にとって中学の三年間は、不登校と泥の日々でしかない。感慨はなかった。
美月とは式の最中にも言葉を交わさなかった。別のクラスだ。式が終われば別々に帰る。
だが帰り道、校門を出た時に一瞬だけ目が合った。美月は小さく手を振った。陽一は軽く頷いた。それだけ。
入学式まで、あと二週間。




