第七話2
五月。連休明けの日曜日。
陽一は裏市にいた。
もう何度目かわからない。中二の冬に一人で来るようになってから、月に一度か二度は足を運んでいる。目的はずっと同じだった。
陽菜のためのアイテム。
魔力を物に通す技術—その体系的な教本。ゲームの記憶の中に存在は確認できているのに、具体的な書名が思い出せない。裏市に流れてくる古い技術書を一冊ずつ手に取り、中身を確認し、違えば戻す。その繰り返し。
今日もそのつもりだった。
工業地帯の奥、倉庫街の路地。見慣れた露店の並び。だがいつもの古物商のテントが、今日は場所が変わっていた。路地の突き当たり、壁と壁の隙間に押し込められるようにして、小さなテーブルに本が積まれている。
店主は前と同じ老人だった。帽子を目深に被り、折りたたみ椅子に座って居眠りしている。テーブルの上の本は、前回より数が減っていた。入荷が滞っているのか。
一冊ずつ手に取る。
冒険者の手記。地図帳。浅層の魔物図鑑。どれも見覚えがある。前に確認して戻したものが、そのまま売れ残っている。
山の底の方に手を伸ばした。指先に、革装丁の厚い表紙が触れた。
引き出す。表紙に文字はない。革が日焼けして、元の色がわからないほど褪せている。
手に取った瞬間、微かな違和感があった。重さだ。見た目の厚みに対して、わずかに重い。
この感触を知っている。
中一の冬。加藤が裏市から買ってきた三冊の手帳。そのうちの一冊が、他の二冊より僅かに重かった。古代の回復術式が封じられた魔法書。陽一の自己再生の原点。あの時と同じ、微かな重さの違い。
心臓が跳ねた。
表紙を開いた。ページは白い。文字はない。普通の本なら何かが印刷されているはずの紙面が、完全に空白だった。だがページの手触りが紙ではない。紙に似た何か。魔力を帯びた素材で作られている。
古代のアーティファクト。自己再生の魔法書と同じ系統の遺物だ。
陽一は本を閉じ、深呼吸した。裏市のテントの中で、心拍を落ち着かせる。
この本に魔力を流せば、封じられた術式の回路図が脳に焼きつく。自己再生の時と同じだ。だが中身がわからない。回復術式の時は、ゲームの記憶で「古い日記に偽装された回復術の魔法書」という情報があった。今回は手がかりがない。
—いや、ある。
半年間探し続けたもの。物に魔力を通す技術。付与の術式。ゲームの記憶の中に輪郭だけがあった、あの技術体系。もしこのアーティファクトがそれなら—。
老人を見た。まだ居眠りしている。
「これ、いくらですか」
老人が片目を開けた。
「・・・ああ、それか。千円」
アーティファクトだと気づいていない。当然だ。魔力を流し方がわからなければただの白紙の本にしか見えない。
本を革袋に入れ、裏市を後にした。
帰宅したのは午後三時だった。
玄関を開けると、居間から声が聞こえた。茉莉と陽菜。何かの訓練をしているらしい。
靴を脱ぎ、廊下を進む。居間の戸が半分開いている。覗くつもりはなかったが、隙間から中が見えた。
テーブルの上にコップが置いてあった。水が半分ほど入っている。陽菜がコップの前に正座し、両手をかざしていた。眉間に皺を寄せ、唇を噛み、顔が紅潮している。全身で集中している。
水面が—微かに揺れた。
ほんの数ミリ。だが確かに、陽菜の魔力がコップの水に届いている。
茉莉が隣で静かに頷いた。
「良くなってる。去年の今頃は水面を動かすのに一分かかってたのに、今は十秒で反応してる」
陽菜が両手を下ろした。肩で大きく息をついている。たったこれだけの術式で全身の力を使い果たしたような顔。中一の女の子にとって、魔力操作は体育の授業よりもきつい。
「でも、これだけ?」
陽菜の声に、苛立ちが混じっていた。
「お母さんみたいに水を持ち上げるのは全然できない。コップの水を揺らすだけ。こんなの、幼稚園の子でもできるんでしょ」
「できないわよ。魔力の操作は才能と訓練の両方がいるの。水面が揺れること自体がすごいことなの」
「・・・でも」
「焦らないの。私だって最初はそうだった」
茉莉の声は穏やかだったが、母の目が一瞬だけ翳ったのを陽一は見た。陽菜の魔力は、やはり薄い。照川の血。自分と同じだ。
これでは問題を先送りにするだけだ。
陽一は音を立てずに廊下を戻り、階段を上がった。
翌日。放課後に廃坑に潜った。
浅層の奥、人気のない袋小路。ここなら誰にも見られない。
白紙の本を取り出した。右手を表紙に当てた。慎重に魔力を通す。自己再生の魔法書の時と同じ手順。
—来た。
頭の内側に、光の線が走った。回路図。最後まで魔力を通しきる前に本から手を離した。
—付与術。物体への魔力浸透。素材ごとの伝導率。武器への一時的な魔力上乗せ。防具への魔力定着と持続時間の制御。
ゲームの記憶の中に輪郭だけがあった技術体系。
半年間探し続けたものが、ここにある。
これは古代の付与術式が封じられたアーティファクト。自己再生の魔法書と同じ系統の遺物。魔力を流すことで術式の回路図が使用者の脳に転写される。
陽菜に渡す。だがその前に考えなければならないことがあった。
今の陽菜は「後衛の魔法使い」を目指している。幼い頃の約束—「お兄ちゃんの後ろから魔法をかける」。あの夢をまだ握りしめている。両親の英才教育もその延長線上にある。母が教えているのは斥候の技術だが、陽菜自身は「いずれ魔法が撃てるようになる」と信じている。
無理だ。
魔力の質が足りない。一年以上訓練して、コップの水を揺らすのが精一杯。攻撃魔法を主武器にする後衛には、圧倒的な質と量の両方がいる。陽菜にはどちらもない。
この事実を、誰かが伝えなければならない。
茉莉は言えない。娘の夢を直接否定する残酷さを、母は持ち合わせていない。孝三郎は—気づいているだろう。だが父は待つ側の人間だ。本人が壁にぶつかるまで口を出さない。
なら自分が言うしかない。
二年間、泥の底で現実と向き合い続けた自分が。




