第七話1
中学三年の春。桜が散り始めた四月の第一週。
陽一は廃坑の第三階層にいた。
深層の入り口。中層の最奥から、さらに地下へと続く割れ目のような通路を抜けた先に広がる空間は、それまでの坑道とは根本的に異なっていた。
天井が高い。壁面に埋まった発光鉱石の密度が中層よりさらに上がり、白に近い光が空間全体を満たしている。眩しいほどではないが、十メートル先の壁の亀裂まではっきり見える。魔力濃度が段違いに高い。空気が重い。肺に入る酸素が薄い気さえする。
甲鎧鼠を安定して狩れるようになったのは、三月に入ってからだった。最初の一匹に肋骨を折られてからの二ヶ月で、弱点の腹部を狙うタイミングを体が覚えた。通路が狭ければ伏せて下を潜り、広ければ壁を蹴って背面に回り込む。パターンは四つ。どれも骨を折りながら編み出した。
深層は未知の領域だ。ゲームの記憶にある情報はある。だが記憶の中のデータと実際の感触は違う。第三階層の魔物は中層の上位種とは別系統。鉱石蜥蜴。全身が鉱物化した体表を持つ爬虫類型で、通常の短剣では傷一つつかない—はずだった。
陽一は短剣の刃を壁面の岩に当て、角度を確かめた。鉱石蜥蜴の体表は硬いが均一ではない。関節部分に隙間がある。ゲームでは「防御貫通」のスキルで処理する相手だが、現実にスキルはない。あるのは、関節の隙間を正確に突ける技術だけ。
奥から、岩を引きずるような音が聞こえた。
一時間後。
鉱石蜥蜴を二匹倒した。一匹目は関節を三箇所突いて動きを止め、頭部の継ぎ目に短剣を突き立てた。二匹目は尻尾の一撃を受けて左腕が折れ、自己再生で治してから仕留めた。
深層の魔物は、戦闘時間が長い。甲鎧鼠なら一分で決着がつくようになったが、鉱石蜥蜴は一匹に二十分かかった。素材も重い。鉱物化した体表の破片と、体内の大粒の魔石。革袋がすぐに一杯になる。
背負えるだけ背負って、坑道を戻る。足が重い。魔力も減っている。
中三にもなれば、ダンジョンへの往復は一人で済ませる。自転車で廃坑まで四十分。孝三郎は照川商事の仕事がある。毎回送迎していた中二の頃とは違う。
その日の夕方、ギルド支部で素材を納入した帰り際に、田嶋に呼び止められた。
田嶋は支部の受付責任者だ。四十代、痩せ型。いつも端末の画面を睨んでいて愛想はないが、陽一の納入伝票を毎回黙々と処理してくれる。一年以上の付き合いで、互いに余計な言葉を交わさない関係が出来上がっていた。
その田嶋が、わざわざ声をかけてきた。
「照川。ちょっと来い」
受付の裏にある事務室。狭い部屋に書類の山と古い端末が二台。田嶋がスチール棚の奥から段ボール箱を取り出し、デスクの上に置いた。
「支部長からだ」
蓋を開けた。使い込まれた革のショルダーバッグ。見た目は普通のバッグだが、手に触れた瞬間にわかった。内部空間が外見より遥かに広い。魔力で空間を圧縮する魔道具—マジックバッグ。ギルドの備品だ。
陽一は田嶋を見た。田嶋は端末に目を落としたまま、事務的な口調で説明した。
「お前の納入量、毎月伸びてるだろう。革袋じゃ持ち帰れる量に限界がある。支部長の判断で貸与することになった。備品だから紛失したら弁償。保険も要る。保証人に確認を取ってくれ」
一気に言い切った。用件を伝えるだけの口調。だが、そこで田嶋は少し間を置いた。端末から目を上げて、初めて陽一の顔を見た。
「それと—ボディカメラの映像を支部に提出してくれ。つけてるだろう」
「・・・なぜですか」
「備品の貸与には活動実態の記録が要る。支部長への報告書に添付する」
田嶋の目は淡々としていた。追及でも疑いでもない。ただ必要な手続きを伝えている。
だがその直後、田嶋は視線を端末に戻しながら、独り言のように付け加えた。
「・・・解体場の連中が言ってた。お前の納品は、残骸を拾い集めてる奴の品とは質が違う、とな」
沈黙が落ちた。
「何をどう回収してるかはお前の自由だ。泥の活動内容にうちが口を出す権限はない。ただ、中層素材のノルマが足りてないのは事実でな。持ってこれるなら、持ってきてくれ」
それだけ言って、田嶋はスチール棚の整理に戻った。話は終わりだという態度。
「わかりました」
陽一は段ボール箱を抱えて事務室を出た。
ボディカメラの映像は提出前に編集する。自己再生の発動シーンを切ればいい。残るのはソロで魔物を狩る映像だけだ。
マジックバッグの感触を確かめながら、支部を出た。ゲームの記憶にある。容量は通常の革袋の二十倍以上。これがあれば、素材が一杯になって帰る時間が大幅に減る。ダンジョンに長く留まれる。
つまり—もっと狩れる。もっと潜れる。もっと深く。
泥にマジックバッグを貸す。前例はないだろう。田嶋は何も聞かなかった。陽一も何も言わなかった。だが互いにわかっている。ギルド支部は冑家傘下の企業から納入ノルマを課されている。陽一が持ち込む大量の素材は、もう支部の運営に組み込まれている。知っていて聞かない。聞かない代わりに、もっと持ってこい。暗黙の了解。
それでいい。利害が一致しているなら、利用されることに不満はない。
夕食の席で孝三郎にマジックバッグの件を話すと、父は箸を止めて少し考えてから「保険は俺が出す」と言った。茉莉が何か言いかけたが、孝三郎の目を見て口を閉じた。
入試まで、あと九ヶ月。




