第六話5
三月に入った。
中学三年への進級を前に、陽一は自室の机に向かっていた。術式理論ノートの傍にもう一冊のノートが開かれている。
レベリング記録。
一年間の数字がぎっしり書き込まれたノート。日付、潜行時間、討伐数、素材売上、自己再生発動回数。
四月から三月まで。十二ヶ月間の通算。
討伐総数、素材売上、自己再生の発動回数。一年分の数字がノートを埋めている。中学生の泥としては異常な数字だが冒険者全体から見れば下の実績。
最初は三回が限界だった自己再生が、今はその倍以上発動できる。だが底なしではない。
数字を見つめる。
—足りるか?
養成学校の入試まで、あと十ヶ月。来年の一月。
入試要件を確認する。一般枠は筆記試験と面接。書類審査では「全国レベルのスポーツ実績」が求められる。全中の出場歴。地方大会の上位入賞。そういう数字だ。
陽一にはその実績がない。
中一の秋に不登校になった。部活はやっていない。大会に出たことすらない。一般枠の正規ルートでは、書類審査の段階で門前払いだ。
だが、抜け道がある。ゲームの記憶の中に。
特記事項の欄。「その他審査に資する実績」。ここに何を書くかは自由だ。全中の成績がなくても、審査機関の目を引く実績があれば、面接に呼ばれる可能性はゼロではない。前例はほとんどない。だが、制度上は閉じていない。
泥としての活動記録。プロの冒険者に引けを取らない稼働時間。
この数字を見て「会ってみたい」と思う教員が一人でもいれば—。
賭けだ。完全な賭け。スポーツ実績の代わりにダンジョンの納入記録を叩きつけるなど、まともな戦略ではない。だが他に手札がない。
量で殴る。
この一年で学んだことの一つ。才能がない人間にできることは、量を積むこと。質で勝てない相手に、量で食らいつく。審査官の常識を揺さぶるほどの、異常な量を。
甲鎧鼠を安定して狩れるようになれば、素材の質も上がる。中層の奥を安定周回するのが次の半年の目標。そして深層—その入り口に触れるところまで行ければ、審査官の目に留まるかもしれない。
かもしれない。確証はない。確証がなくても進むしかない。
視線が、ノートの端に留まった。
—生き残る。
汚い字。ボールペンの線が歪んでいる。あの日の自分は、まだダンジョンに入ったこともなく、素振りで筋肉痛になっていた程度だった。
あの決意は変わっていない。
だが一年前の自分と今の自分は、体も心も別人になった。体つきが変わった。走力も筋力も別人だ。甲鎧鼠をソロで倒せる。術式理論ノートは積み上がっている。
別人。だが決意は同じ。
—まだ足りない。でも、止まらない。
ふと、週末に聞いた話を思い出した。
美月の推薦が、ほぼ内定したという噂。学校中に広まっている。全中二連覇の実績。スカウトの接触。推薦入学の枠は学年で一クラス分しかない。だが、美月がそこに入ることに疑いを持つ人間は誰もいない。
嫉妬はない。もうない。去年の始業式の頃にはまだ残っていた、美月への複雑な感情。羨望と自己嫌悪の入り混じった何かが、一年間のレベリングで削ぎ落とされた。美月は美月の道を行く。自分は自分の道を行く。その二本の道は、今この瞬間、途方もなく離れている。
美月は光の道を歩いている。推薦。将来のSランク。すべてが用意された道。
自分は泥の道を歩いている。血と泥にまみれた、誰にも見えない道。
二つの道が交わる日は来るのか。
わからない。だが、来ないと決まったわけでもない。
養成学校。入試。受験資格さえ得られれば—同じ教室に座れる可能性がある。美月と同じ学校。同じ授業。同じ訓練。
それは今の自分から見れば、はるか彼方の夢だ。だが一年前は甲鎧鼠を倒すことさえ夢だった。夢は歩けば近づく。一歩が一ミリでも。
ノートを閉じた。
机の上の時計が午後十一時を指している。明日は五時起き。走り込み。学校。ダンジョン。同じ一日がまた始まる。
同じ一日。だが昨日と同じではない。今日の自分は、昨日の自分より少しだけ多く走れる。少しだけ速く短剣を振れる。少しだけ深く潜れる。
研磨。
砥石で刃を研ぐように、毎日の繰り返しが自分を削り、磨いていく。刃こぼれだらけの鈍い刃が、少しずつ、本当に少しずつ鋭くなっていく。
まだ切れ味は足りない。だが一年前は刃ですらなかった。
ベッドに入る。枕に頭を沈める。シャツの下の鉄のタグが、鎖骨に触れた。体温を吸った金属の、ぬるい感触。
目を閉じて、三秒で意識が落ちた。
明日もまた研ぐ。




