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第六話4

 二月。

 陽一は廃坑の入り口に立ち、白い息を吐いた。発光鉱石のぼんやりとした光の中に、坑道の奥が見える。もう数え切れないほど見た光景。だが今日は少し違う。

 中層の最奥部。これまで踏み込んだことのない区域に、今日は挑む。

 一年間のレベリングの成果を確かめるために。

 孝三郎は車の中で待っている。いつもと同じ。だが今日は「無理だと思ったら即座に撤退しろ」と、わざわざ口に出して言った。普段は言わない言葉。父がそう言うのは、今日の行動がこれまでの延長線上にないことを理解しているからだ。

 中層の最奥部には甲鎧鼠がいる。

 大穴鼠の最上位種。体長は大穴鼠の三倍。全身が硬質の体毛で覆われ、短剣の斬撃を弾く。毒牙鼠の毒よりも強力な毒爪を持ち、穿孔蟲の顎力に匹敵する咬合力がある。浅層と中層の魔物の上位互換。

 ゲームの記憶では、甲鎧鼠は「初級冒険者のための卒業試験」と呼ばれていた。ただし、パーティーを前提としているため、ソロで狩れるようであればもはや中級程度の力だろう。

 今の自分に倒せるかはわからない。

 だが確かめなければ先に進めない。


 第一階層を通過する。大穴鼠が二匹出たが二匹とも一撃で仕留めた。立ち止まる必要すらない。歩きながら処理する。素材だけ回収して先に進む。

 第二階層。毒牙鼠のテリトリーを抜ける。三匹出た。二分で片付けた。穿孔蟲も一匹。地面の振動を感じ取り、出現ポイントを予測して待ち構え、顔を出した瞬間に頭部を斬り落とす。もう恐怖はない。虫型への嫌悪も薄れた。

 中層の最奥部。

 空気がさらに変わった。

 これまでの中層とは、密度が違う。暗さは同じだが、空気の圧が違う。魔力の濃度が上がっている。肌がぴりぴりする。短剣を握る手に力が入る。

 奥から音がした。

 爪が岩を引っ掻く音。重い。大穴鼠の何倍もある体重が地面を踏む振動が足元を通じて伝わってくる。

 鉱石の薄明かりの中に、何かが見えた。

 大きい。

 通路の幅いっぱいに広がる灰色の体躯。甲鎧鼠。体表を覆う硬質の体毛が発光鉱石の光を鈍く反射している。赤い目が二つ、闇の中で爛々と光っている。大穴鼠と同じ形状の目だが、知性の質が違う。こちらを品定めしている。

 距離、七メートル。

 陽一は短剣を構えた。いつもの構え。右足を半歩引き、重心を低く落とす。呼吸を整える。

 甲鎧鼠が動いた。

 速い。大穴鼠の倍は速い。巨体からは想像できない加速で、通路を直進してくる。地面を蹴る爪が岩盤を抉り、破片が飛ぶ。

 陽一は横に跳んだ—跳ぼうとした。

 通路が狭い。壁に背中がぶつかった。避けきれない。

 甲鎧鼠の頭部が胴に突き刺さった。

 衝撃。

 肋骨が折れる感触。少なくとも二本。空気が肺から叩き出され、意識が白く明滅した。壁に叩きつけられ、そのまま地面に崩れ落ちる。短剣が手から離れ、暗闇の中に滑っていく金属音。

 甲鎧鼠が反転した。追撃が来る。

 —動け。

 体が動いた。折れた肋骨が内臓に触れる痛みを無視して、地面を転がった。頭上を巨大な爪が通過する。風圧で髪が乱れた。指先が短剣の柄の感触を捉えた。握る。だが立ち上がれない。肋骨が折れている。呼吸のたびに胸の中で何かがずれる。このままでは戦えない。

 腰のポーチに手を伸ばした。小さなガラス瓶。孝三郎が持たせてくれたポーション。一本三十万円。「死にそうになったら迷わず使え。金は俺が出す」そう言った父の声が頭を過る。

 今がその時だ。

 歯で栓を噛み切り、中身を一息で飲み干した。苦い。鉄錆に似た味が喉の奥に広がる。

 数秒で効果が出た。折れた肋骨が繋がっていく感触。自己再生とは違う。痛みが薄い。外から注がれた魔力が、壊れた箇所を修復していく。自分の魔力ではなく、瓶の中に封じられた回復術式が仕事をしている。

 十秒。呼吸が楽になった。完全ではないが、動ける。

 甲鎧鼠が再び突進してくる。二度目。

 今度は跳ばない。通路が狭い。跳んでも逃げ場がない。正面から受ける。

 短剣を両手で構え、甲鎧鼠の突進に合わせて横薙ぎに振った。頭部を狙う。

 短剣が硬質の体毛に当たった。弾かれた。衝撃が腕を痺れさせる。手応えはあるが、致命傷には程遠い。

 —硬い。

 短剣では斬撃が通らない。体毛の装甲が厚すぎる。頭部も同様に覆われている。弱点は—。

 ゲームの記憶を検索する。甲鎧鼠の弱点。腹部。体毛が薄い。だが突進してくる相手の腹を狙うには下に潜り込む必要がある。

 三度目の突進。

 陽一は地面に伏せた。

 甲鎧鼠の巨体が頭上を通過する。腹が見えた。確かに体毛が薄い。灰色の皮膚が露出している。ここだ。

 仰向けの姿勢から、短剣を突き上げた。全体重を腕に乗せる。刃が甲鎧鼠の腹部に突き刺さった。

 獣が悲鳴を上げた。甲高い、金属を引き掻くような鳴き声。体液が噴き出し、陽一の顔面と胸を熱く濡らした。鉄錆と腐肉の混ざった臭い。目を瞑り、口を閉じた。体液が毒性を持っていないことは知識として知っているが、本能が拒絶する。

 甲鎧鼠が暴れた。短剣が腹に刺さったまま、通路の中を転げ回る。壁にぶつかり、天井に体をこすりつけ、岩の破片が降ってくる。陽一は壁際に張り付いて暴れ収まるのを待った。短剣は手元にない。刺さったまま。素手。武器なし。

 待つしかない。

 一分。二分。

 甲鎧鼠の動きが鈍くなった。体液の流出が多い。足元に黒っぽい液溜まりが広がっている。発光鉱石の光が液面に反射して、不気味な光沢を放っている。

 三分後、甲鎧鼠は動かなくなった。

 陽一は壁から背中を離し、そろそろと近づいた。完全に死んでいる。赤い目の光が消えている。腹部に突き刺さった短剣を引き抜く。ぬるりとした抵抗のあと、刃が抜けた。黒い体液が短剣を伝って手袋を汚す。

 座り込んだ。

 足が震えていた。両膝がガクガクと音を立てそうなほど震えている。手も震えている。アドレナリンが引いた後の反動。全身の筋肉が弛緩し、呼吸が浅く速くなっている。

 —倒した。

 甲鎧鼠を、ソロで、倒した。

 短剣一本とポーション一本で。

 喜びはまだ来ない。安堵が先に来る。生きている。死ななかった。それだけで、今はいい。

 五分ほど座り込んだ後、陽一は立ち上がって素材の回収に取りかかった。甲鎧鼠の素材は下級素材の中では高価な部類に入る。硬質体毛、毒爪、そして体内の魔石。魔石は大穴鼠の十倍の大きさがある。ナイフで慎重に切り出す。手が震えているから、いつもより時間がかかった。

 素材を革袋に入れ、坑道を戻る。足取りが重い。魔力はほとんど空。ポーションで肋骨は治ったが、全身の消耗が大きい。もう一戦は無理だ。

 帰り道の第一階層で大穴鼠と鉢合わせたが、走って逃げた。逃げることに躊躇はない。


 坑道の外に出ると、冷たい風が汗と体液にまみれた体を冷やす。寒いはずだが、火照った体には心地よい。空は曇り。鬱蒼とした灰色の雲が、低く垂れ込めている。

 駐車場の白いワンボックスカーに歩み寄ると、運転席のドアが開いた。孝三郎が降りてきた。息子の姿を見て一瞬だけ、目を見開いた。

 全身が黒い体液にまみれている。顔も、胸も、手も。

「甲鎧鼠」

 陽一は一言だけ言った。

 孝三郎は二秒ほど息子を見つめてから、車のトランクを開けた。ビニールシートとタオルが常備されている。シートに座って体液を拭き取れという意味だ。声には出さない。

 タオルで顔を拭いた。黒い液が白いタオルを汚す。臭い。だが達成感が、不快を上回っている。

「肋骨、折れたからポーション使った」

 孝三郎の目が一瞬だけ細くなった。三十万円が一瞬で消えたことへの反応ではない。息子が「死にそうになった」ことへの反応だ。

「・・・効いたか」

「効いた。ありがとう」

 孝三郎は何も言わなかった。エンジンをかけ、車を発進させた。

 しばらく無言のまま走った。田園風景が流れる。いつもの帰り道。

「陽一」

「うん」

「・・・よくやった」

 短い言葉。だが孝三郎がそう言うのは、初めてだった。「上出来だ」は何度も聞いた。だが「よくやった」は初めてだ。

 陽一は窓の外を見たまま、小さく頷いた。


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