第六話2
全国中学校剣道大会の会場は、名古屋の大型アリーナだった。
十月の第三土曜日。観客席はほぼ満席で、中学生の保護者、探索者養成学校のスカウト、メディア関係者がひしめいている。美月は控室のベンチに座り、膝の上に置いた手を見つめていた。
テーピングを巻いた指先。爪は短く切りそろえてある。手の甲には薄い傷跡がいくつか残っている。日常の鍛錬で負った傷。治癒術を使えば消せるが、あえて残している。自分がどれだけ練習したかを忘れないためにそう思っていた時期もあった。今は、ただ面倒で治していないだけだ。
控室のテレビモニターに、トーナメント表が映っている。準決勝まで終わった。美月は順当に勝ち上がっている。対戦相手の攻撃を一度も有効打にさせていない。
去年と同じだ。
去年の全中も、こうやって勝ち上がった。中一で優勝した。会場が沸いた。メディアが取り上げた。「天才」「十年に一人の逸材」「将来のSランク候補」—そういう言葉が降ってきた。嬉しかった。純粋に嬉しかった。
今年は違う。
称賛の質が変わった。「すごいね」ではなく、「まあ、当然だよね」。周囲の期待が前提になっている。勝って当たり前。負けたら事件。そういう空気が、控室のドアの外に充満している。
美月は背筋を伸ばし、深呼吸した。
別にプレッシャーに負けているわけではない。負ける気もない。ただ、勝つことの意味が去年とは変わってしまった。去年は「自分がどこまで強いか知りたい」だった。今年は「負けるわけにはいかない」に変わっている。
それに気づいていた。気づいていても修正できない。
控室のドアがノックされた。
「金澤さん、十分前です」
「はい」
立ち上がる。体の調子は万全。むしろ良すぎるくらい。試合前の緊張がない。去年の決勝では手が震えていた。今年は微動だにしない。それが成長なのか、それとも何かが麻痺しているのか、美月にはわからなかった。
決勝も危なげなく勝った。連覇を知らせる場内アナウンス。歓声。拍手。
美月は一礼して、試合場を下りた。顧問の長谷川が大会運営委員の人たちと握手をしているのが見えた。観客席は見ない。見れば、あの空気が見える。「当然だ」という空気。
表彰式の準備のため控室に戻る途中、一人の男性に声をかけられた。
五十代くらいの、スーツを着た男性。穏やかな笑顔。だが背筋の伸び方と足運びに、元冒険者特有の緊張感がある。ただの関係者ではない。
「金澤美月さん。素晴らしい試合でした」
「ありがとうございます」
「失礼ですが—少しお時間をいただけますか。橘グループのスカウト部門で働いております、鷹野と申します」
橘。
美月の指先が、ほんの微かに強張った。
探索者業界で橘の名前を知らない者はいない。国内最大の冒険者ギルドを運営し、養成学校とも深い繋がりを持つ。Sランク探索者を複数抱え、政財界にも太いパイプがある。冒険者の世界における最大の権力機構。
「養成学校に進学されるご予定だと伺いました」
「・・・はい」
「進学後のことで、ぜひ一度ご相談させていただきたいのです。橘では、金澤さんのような才能あるお若い方を対象とした特別訓練プログラムを用意しています。養成学校のカリキュラムと並行して受けられるもので、費用は橘が全額負担いたします。もちろん、強制ではありません。ご興味があれば、ということですが」
丁寧な口調。柔らかい物腰。強制ではないと言いながら、断りにくい空気を完璧に作り上げている。
美月は鷹野の目を見た。温かみのある目。だがその奥に、何かを計算する冷たさが透けている気がした。気のせいかもしれない。だが美月は、人の目を見る訓練を長くやってきた。試合中に相手の視線から次の動きを読む。日常会話でも、無意識にそれをやっている。
「考えさせてください」
「もちろんです。急ぐ話ではありませんから。こちら、名刺をお渡ししておきますね」
名刺を受け取った。高級感のある厚手の紙。金色の箔押しで橘のロゴが入っている。裏面には鷹野の連絡先と、手書きで「いつでもご連絡ください」と添えてある。
鷹野が去った後、美月はしばらく通路に立ったまま名刺を見つめていた。
才能がある。それは知っている。周囲に言われなくても、自分が同年代の中で突出していることは実感している。だがそれは自分が選んだ強さなのか。
ふと、疑問が浮かんだ。
自分は「強くなりたい」と思って強くなったのか。それとも「強くなれる体に生まれた」から、周囲が勝手に道を敷いたのか。
養成学校への進学。推薦はほぼ確実。それは以前から覚悟していたことだ。だがその先に橘の訓練プログラムがあり、その先にSランクへの道があり—すべてが「強い人間が通るべきレール」として、あらかじめ用意されている。自分の意志でレールに乗ったのか、レールの上に生まれ落ちたのか。
わからない。
—わからないなら、考えても仕方ない。
美月は名刺をジャケットの内ポケットにしまった。今はまだ中二だ。養成学校の入試すら一年以上先。今考えるべきは、次の試合、次の練習、次の一歩。それだけでいい。
新幹線の車窓に、夕暮れの景色が流れていく。
名古屋から東京方面へ。試合の疲労が肩と腰に残っている。座席に深く腰掛け、窓に額を預けた。振動が心地よい。隣の席には付き添いの母親が座って、スマートフォンで何かの連絡をしている。試合の結果を親戚に報告しているのだろう。
目を閉じた。
ふと、陽一のことを考えた。
最近、学校で見かけない。同じ学校だが別のクラスで、しかも早退が多いと聞いた。家業の手伝い、照川商事の仕事を手伝っているらしいが、陽一の場合は頻度が異常だ。週に三日は午後の授業に出ていないという噂をクラスメイトの誰かから聞いた。
去年の不登校。そして今年の早退の多さ。
何かがおかしい。
美月は目を開け、窓の外を見た。田園風景が暗くなりかけている。水田に映った空が、茜色から紫に変わりつつある。
陽一は中一の頃と変わった。話し方も、体つきも、目つきも。始業式の日、廊下ですれ違ったとき一瞬だけ目が合った。その目は美月が知っている陽一の目ではなかった。何かを決めた人間の目。覚悟を持った人間の目。
だが何を決めたのか、何を覚悟しているのか、美月には見えない。
話したい。聞きたい。
でも—何を?
「最近どうしてるの」。そんな軽い問いかけが今の陽一に通じる気がしない。通じたとしても、陽一は答えないだろう。
美月は唇を噛んだ。
自分が強くなれば—いつか、陽一を引き上げられる。中一の不登校の時、何もできなかった自分への後悔が、まだ胸の底に沈んでいる。あの時、もっと強引に踏み込んでいれば。もっと粘り強く話しかけていれば。
だから強くなる。全中で勝つ。養成学校に入る。国家探索者になる。そうすれば—きっと何かが変わる。何かを変えられる立場になれる。
その「何か」が何なのか、美月にはまだ見えていなかった。
新幹線のアナウンスが、次の停車駅を告げた。美月は目を閉じ、もう一度額を窓に預けた。ガラスの冷たさが心地よかった。




