第六話1
五月の廃坑は、地上とは別の季節を生きている。
外では新緑が眩しい日差しを受けて輝いているはずだが、坑道の中には年中変わらない湿気と土の匂いが沈殿している。天井の亀裂から染み出した地下水が壁を伝い、足元の岩盤に薄い水膜を作っている。壁面に埋まった発光鉱石の淡い光がそこに反射して、不規則に揺れる。自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
第一階層。もう十分に歩き慣れた通路。
短剣を鞘に収め、陽一はグローブをはめ直した。革の内側が汗で湿っている。春先から使い始めた父が調達してくれた冒険者用の強化グローブは、手にぴったり馴染むようになっていた。新品のときの硬さが嘘のように、今は第二の皮膚のように指に吸いつく。
大穴鼠が三匹、通路の奥で蠢いていた。
半年前なら一匹で全力だった相手。今は三匹まとめて相手にしても呼吸が乱れない。
短剣を構える。重心を低く落とし、右足を半歩引く。ゲームの記憶—画面の中で無数のプレイヤーが試行錯誤して洗練させた構えの一つを、この体に最適化した形。ゲームではコントローラーのボタンを押すだけだったものが、今は全身の筋肉の連動を要求する。肩甲骨の角度、膝の曲げ、腰の回転。それらが噛み合って初めて短剣が最短距離で振り抜ける。
先頭の一匹が飛びかかってきた。
体が動く。考える前に、体が動く。短剣が弧を描き、大穴鼠の頭蓋を正確に捉えた。骨を断つ鋭い手応えが柄を通じて掌に伝わる。振り抜いた勢いをそのまま回転に変え、背後から迫る二匹目に対して短剣の柄頭を突き出す。鳩尾を抉られた大穴鼠が壁に叩きつけられ、痙攣しながら崩れ落ちた。三匹目は逃げようとした。背を向けて暗闇に駆け出そうとする。陽一は追わない。追う必要がない。右手を伸ばし、短剣を投げた。刃が暗闇の中を切り裂き、逃げる大穴鼠の後頭部に命中した。
三匹。十二秒。
半年前は一匹に五分かかった。
荒い息をつきながら陽一は短剣を回収し、大穴鼠の素材を回収した。牙と尻尾の付け根にある小さな魔石をナイフで手際よく切り出していく。この作業も最初は十分以上かかったが、今は一匹あたり二分というところだ。
素材を革袋に入れ、腰のベルトに括りつけた。今日はまだ始まったばかりだ。
第二階層への階段を降りる。
空気が変わった。第一階層より一段階湿度が上がり、壁面の岩が黒ずんでいる。地下水の流れが太くなって足元に浅い水溜まりができている箇所がある。ブーツの防水は孝三郎が選んだものだけあって信頼できるが、それでも水の中を歩く感覚は気持ちのいいものではない。靴の中で指先が微かに冷える。
毒牙鼠のテリトリー。
三月から挑み始めた相手。最初は牙の毒に苦しめられたが、今は立ち回りのパターンが体に入っている。噛まれる前に頭を仕留める。それが基本。だが毒牙鼠は大穴鼠より賢い。単純な突進だけでなく、壁を蹴って軌道を変える跳躍攻撃を持つ。予測できない角度から牙が飛んでくる。
陽一は短剣を構えたまま、足音を殺して距離を詰めた。水溜まりを避ける。音を立てれば警戒される。三歩。二歩。間合い—。
毒牙鼠が壁を蹴った。
左から。跳躍軌道は放物線を描く。到達点は—首。
陽一は首を右に傾けた。それだけでいい。毒牙鼠の牙が耳元の空気を裂く音を聞きながら、空振りで姿勢を崩した相手の胴体に短剣を突き立てた。壁に跳ね返った毒牙鼠が地面に落ちる前に、もう一撃。頭蓋を貫き、動かなくなった。
この半年で、体の反応速度が別次元になっている。
走り込みによる基礎体力の向上。十三歳から十四歳にかけての成長期。そして、自己再生による肉体の最適化。傷を治すたびに、再生された組織は以前より僅かに強くなる。筋繊維の密度が上がり、腱の弾性が増し、骨密度が高まる。成長は遅い。それでも半年の蓄積は、目に見える変化を生んでいた。
朝の走り込みのタイムが縮み、懸垂の回数が増えた。体重は増えたが、体つきは引き締まっている。鏡に映る自分は、もう不登校時代の痩せこけた少年ではない。
第二階層の奥へ進む。
毒牙鼠を五匹倒した。自己再生を使ったのは一回だけ。油断して尻尾の打撃を腕に受けた。骨にヒビが入った手応え。右手をかざし、発動。
激痛。
何百回繰り返しても、この痛みだけは変わらない。歯を食いしばり、壁に額を押しつけて耐える。冷たい岩の感触が額の汗を吸い、こめかみから顎にかけて水滴が伝い落ちた。呻きが漏れる。声を殺そうとしても、喉の奥から勝手に漏れる。骨が繋がっていく感触——肉体の内側から何かに引き裂かれるような、あの耐え難い痛み。
三十秒。長い三十秒が過ぎて、痛みが引いた。
腕を動かす。問題ない。完全に治っている。
立ち上がり、短剣を拾う。呼吸を整える。
恐怖は消えない。発動の直前、体が勝手に強張る。脳が痛みの記憶を検索し、回避せよと警告を出す。それを意志の力でねじ伏せる。毎回。何百回目でも。
だが、「恐怖をねじ伏せる手順」は、体に染みついた。
震えが来る。胃が縮む。視界が狭くなる。—深呼吸。左手で右手首を掴む。目を閉じる。三つ数える。—発動。
この手順を踏めば、体は動く。恐怖は消えないが、恐怖があっても動ける体になった。
痛みに慣れたわけではない。痛みと付き合う方法を覚えたのだ。
廃坑を出たのは午後五時半だった。
西日が坑道の入り口から差し込み、目が眩んだ。暗闇に数時間いた目には、五月の夕方の陽射しさえ刺すように明るい。目を細めながら坑道の外に出ると、駐車場に見慣れた白いワンボックスカーが停まっていた。
孝三郎が運転席でスマートフォンを見ていた。陽一の姿を認めると、窓を下ろした。
「今日は何匹だ」
「大穴鼠八、毒牙鼠五」
「上出来だ。再生は?」
「一回」
孝三郎は微かに頷いた。表情を変えないが、目の奥に安堵がある。息子が無事に帰ってきたことへの安堵。元冒険者であっても—いや、元冒険者だからこそ、ダンジョンの危険を知り尽くしている父は毎回この瞬間まで気を緩めない。
車に乗り込んだ。シートに座った途端、全身の疲労がどっと押し寄せた。太腿の筋肉が張り、肩甲骨の周りが重い。手指は細かく震えている。グローブを外すと、掌が赤く腫れていた。短剣の柄の衝撃が蓄積している。
「防具の追加、来週届く」
「何が来る?」
「すね当て。中層まで行くようになったなら、下半身の防御を強化する必要がある。板金じゃなくて革と繊維の複合だ。重量は片足三百グラム」
「ありがとう」
「礼は要らん。商売だ」
孝三郎はそう言ってエンジンをかけた。照川商事の仕入れルートを使えば、市販品より高品質な装備が原価で手に入る。父はそれを「商売」と呼ぶ。息子の安全を守るための行為をビジネスの延長線上に位置づけることで、感情を排除している。
車窓の風景が流れる。田畑が広がり、その向こうに住宅街の屋根が見える。普通の町の普通の風景。この地下に魔物の巣窟があるとは思えないほど、穏やかな夕暮れ。
「素材は明日まとめて持っていく。牙は一本百二十円、魔石はグラム単価で計算する」
「うん」
「先月の売上、二万三千円だったな」
「・・・うん」
「中層素材が増えれば単価が上がる。毒牙鼠の毒嚢は需要がある。抽出できるようになれば、一個で五百円は出る」
数字の話をする父の横顔を見ながら、陽一は窓の外に目を向けた。
二万三千円。一ヶ月のダンジョン活動の対価。アルバイトの最低賃金以下。だが、これは金の問題ではない。養成学校の入試で問われる「実績」の積み上げ。泥としての活動記録。入試の書類審査で提出する実績欄に、一行でも多くの数字を並べること。
—足りない。
まだ全然足りない。
だが今日も、昨日より少しだけ前に進んだ。
帰宅すると、玄関で靴を脱いで風呂に直行する。
熱い湯を浴びると体中の汚れと一緒に疲労が流れていく気がする。実際には疲労は消えない。だが、ダンジョンの土と汗と血の匂いを洗い流す行為は、日常と非日常の境界線を引く儀式のようなものだった。
風呂から上がり、夕食を食べて自室に入る。
机に向かって開いたのは自作の術式理論ノート。ゲームの記憶から引き出した術式の体系を、現実世界の身体感覚に翻訳する作業。
術式は使えない。魔力の質が凡庸な陽一には、今はまだ攻撃術式も防御術式も満足に発動できない。自己再生だけが唯一の手札。だが術式の「理論」を理解することには意味がある。養成学校の入試には筆記がある。術式理論は主要科目だ。ゲームの記憶は攻略情報としては正確だが、学問としての体系化は自分でやるしかない。
ペンを走らせる。夜十一時まで。
目が霞んできたら、ノートを閉じてベッドに入る。枕に頭を沈めた瞬間、意識が落ちる。深い眠りに沈んでいく体が、明日のために回復を始める。
翌朝五時。目覚ましが鳴る前に目が覚める。体内時計が完全にこのサイクルに適応した。
走り込み。シャワー。朝食。登校。
学校では透明人間でいい。授業を受け、最低限の提出物を出し、休み時間は教科書か術式ノートを読む。話しかけてくる人間はいない。中一の不登校の記憶と、「家業の手伝いで早退が多い変わったやつ」という評判が、自然と周囲を遠ざけている。担任もそれ以上踏み込んでこない。面談で「将来は家業を継ぐ予定です」と言えば、教師は頷くだけだった。
放課後はダンジョン。
この繰り返しが、陽一の日常になった。
梅雨に入った。
ダンジョンの中は天候に関係なく同じだが、坑道の入り口付近は雨の日に水量が増す。足元の水溜まりが膝下まで来る日もあった。防水ブーツが役に立つが、湿度が上がると視界にも影響する。
この時期から、第二階層の奥から第三層、つまり中層と呼ばれるエリアに足を踏み入れ始めた。
中層の空気は、浅層とは違う。
暗い。壁面の発光鉱石の密度は浅層と大差ないのに、空間全体が薄暗く感じる。浅層では大穴鼠の群れが通路のそこかしこにいた。魔物も魔力を帯びている。数十匹がひしめく浅層は、生き物の魔力が鉱石の光に重なって空間全体がぼんやり明るかった。中層は違う。通路が空っぽだ。魔物の数が少ない。鉱石だけが光っている。そして静かだった。浅層では水滴の音や小動物の気配が常にあったが、中層には沈黙しかない。数が少ない代わりに、一匹一匹が強い。そして音を立てない。
穿孔蟲。
中層の主要な魔物。地中を掘り進み、足元から突き上げてくる。全長は四十センチほど。ムカデに似た外見だが、先端の顎は岩を砕くほど硬い。素手で噛まれれば指など簡単に持っていかれる。
最初の遭遇は、六月の半ばだった。
足元の岩盤が震えた。微かな振動。それを感じ取った瞬間、陽一は横に跳んだ。
直前まで立っていた場所の地面が爆ぜた。岩の破片が飛び散り、頬を掠めた。熱い。血が出ている。破片の切れ味は鋭く、革ジャケットの袖にも穴が開いた。
穿孔蟲が地面から半身を出し、顎を開閉させている。黒光りする体表。多節の脚が蠢く。生理的な嫌悪が胃の底からせり上がってきた。
だが体は動いた。恐怖をねじ伏せる手順——もう意識しなくても体が勝手にやってくれる。深呼吸。短剣を構える。狙うのは頭部。節足動物型の魔物は頭部の神経節を破壊すれば即死する。ゲームの知識が正確に現実に適用できる数少ないケースだ。
短剣を振り下ろした。穿孔蟲の頭部が両断され、体液が飛び散った。緑がかった体液が手袋とジャケットの前面に付着し、鉄錆に似た臭いが鼻を突いた。
—倒した。
だが手が震えていた。生理的嫌悪と緊張。大穴鼠や毒牙鼠は哺乳類型だからまだ対処できたが、虫型は精神的な負荷が違う。慣れが必要だ。慣れるには、数をこなすしかない。
その日から、中層の穿孔蟲を標的に加えた。
夏休みに入った。
学校がない分、ダンジョンに費やせる時間が増える。朝の走り込みを終えたら、九時に廃坑に入り、午後四時まで七時間潜る。昼食は坑道の入り口付近で握り飯を食べる。茉莉が毎朝四つ作ってくれる。塩むすび、昆布、梅干し、鮭。四種類をローテーションで。味は素朴だが、ダンジョンで消耗した体には何よりのごちそうだった。腹が減って力が入らない状態で魔物と戦えば、死ぬ。食事は戦略の一部。
七時間の潜行。浅層の雑魚を片付けながら中層まで降り、穿孔蟲を狩って戻る。日によって獲物の数は変わるが、革袋が一杯になる前に体力が尽きることはなくなった。自己再生の発動回数も増えている。
素材の売上は月七万円を超えた。
夏の終わり。八月の最後の日。
夕方の廃坑の入り口で、陽一は自分の手を見た。
マメだらけだった掌。半年間短剣を振り続けた手。皮が剥けて、潰れて、再生して。自己再生は傷を治すが、鍛錬の結果であるマメまでは消さない。消す必要がないと、体が—あるいは能力がそう判断しているのかもしれない。硬く厚くなった皮膚。武器を握るための手。
十四歳の手には見えない。
鏡を見れば、顔はまだ中学生だ。少し日焼けして、頬の肉が引き締まって、目つきが鋭くなった気がするが、それでも十四歳の少年の顔。だがこの手だけは、何年も前線にいた冒険者のような手になりつつある。




