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第五話5

 冬が、ゆっくりと終わっていった。

 二月の残りは、学校とダンジョンの往復だった。平日は授業を受け、放課後に廃坑へ向かう。家業の手伝い—孝三郎はそう周囲に説明した。照川商事は冒険者向けの商社だ。息子が現場を見学しているという建前は、それほど不自然ではなかった。

 廃坑の第一階層。大穴鼠。何度も戦った。何度も傷を負った。何度も再生した。

 成長は遅かった。

 一日に五匹が限界だった。魔力の井戸が浅い。自己再生を三回発動すれば、もう底が見える。それ以上やれば魔力枯渇で意識を失う。一度、実際に坑道の中で倒れかけて、這うようにして入り口まで戻った日がある。あの時は、入り口で待っていた孝三郎の顔が一瞬だけ強張った。

 それでも、確実に進んでいる。

 二月の終わりには、大穴鼠を一対一で倒すのに全力を使い果たすことはなくなった。三合以内で仕留められるようになった。剣戟に無駄が減り、体捌きが滑らかになった。

 三月。

 大穴鼠だけでは物足りなくなった。第一階層の奥、第二階層への階段付近に出現する上位種—毒牙鼠に挑むようになった。大穴鼠より一回り大きく、牙に弱い毒を持つ。初めて毒牙鼠と戦った日、腕を噛まれて毒が回り、三十分ほど嘔吐し続けた。自己再生は傷は治せるが、毒は中和できない。体内の免疫が自力で排出するまで、坑道の壁にもたれて苦しんだ。

 だが次からは毒牙を避ける立ち回りを覚えた。噛まれる前に頭を潰す。シンプルだが、それを実行するには速度と正確性が要る。裏庭での素振りの精度が、ダンジョンでの実戦で試される。足りない部分が明確に見える。翌日の訓練で修正する。その繰り返し。

 魔力の井戸は、少しずつ深くなっていた。自己再生を三回発動していた限界が、四回になり、五回になった。微々たる成長。だが確実な成長。

 鏡の前に立つ。三月の自分と、一月の自分。肋骨の浮きは消えた。腕に筋肉がついた。胸板が厚くなった。走力は不登校前の水準をとうに超えている。十キロを走っても息が上がらなくなった。

 痛みには慣れない。

 自己再生のたびに、同じ激痛が来る。歯を食いしばり、涙を堪え、体が勝手に逃げようとするのを意志でねじ伏せる。何十回繰り返しても、百回繰り返しても、少しはましにはなっていると自分に言い聞かせる。脳が痛みを記憶し、発動の前から体が強張る。毎回、自分の恐怖との戦いがある。

 魔物との戦闘よりも、自分の恐怖をねじ伏せる瞬間が、一番きつい。


 四月。

 桜が咲いた。

 中学二年の始業式。校門の前の桜が満開で、薄桃色の花弁が風に舞っている。一年前の入学式の日を思い出す。あの日は美月と並んで校門をくぐった。シャンプーの香りが春の空気に混じっていた。

 今年は一人だ。

 制服のポケットに手を突っ込み、校門をくぐる。鉄のタグは首にかけてシャツの下にある。金属が鎖骨に触れる感触だけが、自分が泥であることを思い出させる。

 昇降口で靴を履き替える。廊下を歩く。蛍光灯の白い光。リノリウムの床。すれ違う生徒たちの喧騒。新しい学年の始まりに浮き立つ空気。誰かが「今年こそ彼女つくる」と言って笑われている。誰かが「クラス替えで誰と一緒になった?」と聞いている。

 陽一はその中を歩いた。透明人間のように。誰も声をかけない。誰も目を合わせない。去年の不登校の記憶が、クラスメイトたちの中にまだ残っている。「照川って、あの不登校の」「ああ、最近は来てるけど」「何か暗くない?」—そういう囁きが、背中のあたりを通り過ぎていく。

 構わない。

 教室の引き戸を開けた。新しいクラス。席順は出席番号順。中央の後ろから三番目が陽一の席だった。鞄を置き、椅子に座る。窓の外に桜が見える。花弁が風に舞い、校庭の土の上を白く転がっていく。

 廊下が少しだけ騒がしくなった。

 視線を上げた。

 ー美月。

 今年は別のクラスだった。

 美月は廊下の向こうを歩いていた。周囲に数人の生徒がまとわりついている。

 すれ違いざまに、視線が交差した。ほんの一瞬。

 美月が微かに口を動かした。何か言おうとしたように見えた。だがすぐに隣の生徒に話しかけられ、視線が逸れた。

 陽一はそのまま歩き続けた。

 別のクラス。去年よりも、物理的に距離が開いている。

 美月は光の中にいる。世代一の剣士。特待生候補。将来のSランク探索者。彼女の周りには、常に人がいて、常に光が当たっている。

 陽一は影の中にいる。透明な存在。誰にも注目されない。泥のタグを首に隠して、放課後はダンジョンに潜る。血と泥にまみれて、最弱の魔物と格闘する日々。

 光と影。

 その距離は、今この瞬間、途方もなく遠い。

 だが陽一は知っている。

 距離は歩かなければ縮まらない。たとえ一歩が一ミリでも。立ち止まった瞬間に全てが終わる。

 —あと一年と少し。

 養成学校の入試まで。

 ゲームの記憶では、主人公が養成学校に入学するのは高校一年の春。現在から約二年。だが入試はその半年前。つまり、あと一年半弱。

 今の自分の実力で、入試を突破できるか。

 —できない。

 冷静に、正確に、陽一はそう判断した。最底辺の泥。筆記はどうにかなるとしても、面接で実績を問われれば何もない。今の自分では話にならない。

 だが—まだ一年半ある。

 一年半で、今の自分を何倍にも引き上げる。

 不可能に近い。だが不可能ではない。自己再生がある。痛みと引き換えに、一日を十日分に圧縮する方法がある。効率は悪い。成長は遅い。だが止まることだけはない。

 窓の外で、桜の花弁が最後の一枚、風に攫われて校庭の向こうに消えていった。

 陽一はポケットの中で拳を握った。

 シャツの下の鉄のタグが、体温を吸ってほんの少しだけ温かくなっていた。


 中二の春が、始まった


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