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第五話4

 週末の朝。

 二月にしては穏やかな日だった。空は薄曇りで、柔らかな光が街全体を包んでいる。風はほとんどない。

 陽一は父の車の助手席に座っていた。

 孝三郎がハンドルを握り、住宅街を抜けて幹線道路に出る。ウィンカーの音。交差点を左折。車内には暖房が効いていて、フロントガラスの内側がわずかに曇っている。孝三郎がハンカチでガラスを拭う。その仕草が妙に日常的で、これからやろうとしていることの重みとの落差に、陽一は不思議な感覚を覚えた。

 冒険者ギルド。

 孝三郎は元冒険者だ。この場所を知っている。かつて自分が登録し、報酬を受け取り、仲間と合流した場所。引退してからも商社の仕事でギルドの関係者とは付き合いがある。息子をここに連れてくることの重みを誰よりも理解している。

 車が住宅街の外れで停まった。

 建物が見えた。コンビニほどの大きさのプレハブ。看板には『関東第七地区冒険者管理事務所 第三支部』と色褪せた文字で書かれている。本部は街の中心部にある四階建ての立派な施設だが、登録や簡易な手続きはこうした支部でも行われる。ダンジョンに近い地域に点在する、末端の窓口。

 駐車スペースは三台分しかない。うち一台に軽トラが停まっていて、荷台に素材の入った袋が積まれている。

 孝三郎がエンジンを切った。

「行くぞ」

 短い言葉。陽一は頷いた。

 引き戸を開けると、タバコの残り香と古い紙の匂いが混じった空気が鼻を突いた。蛍光灯の光が狭い室内を照らしている。受付カウンターが一つ。壁にはダンジョンの注意事項と素材の買取価格表が貼られていて、その上から落書きや古いメモが重なっている。待合のパイプ椅子が数脚。奥にはスチール棚が並び、書類の束が積まれていた。

 人はほとんどいなかった。受付に女性が一人。待合に、くたびれたジャケットを着た男が一人座っているだけ。男は陽一をちらりと見て、すぐに興味を失ったように視線を戻した。

 ここに来る人間はそれぞれ事情を抱えている。孤児も、ドロップアウト組も、訳ありの大人も。余計な詮索をしないのが、この場所の暗黙のルールだ。

 孝三郎が受付に歩み寄った。その足取りに迷いはなかった。元冒険者が支部とはいえギルドに入る。その所作は体に染みついている。背筋を伸ばし、受付の人間の目を真っ直ぐに見る。

「息子の登録をしたい。遺物回収業者だ。特例申請になる」

 三十代半ばだろうか。眼鏡、髪をゴムでまとめているが受付の女性が顔を上げた。孝三郎を見て、それから隣に立つ陽一を見た。

「特例、ですか」

「年齢が十三歳だ。親権者の同意と保証人は俺がやる。照川孝三郎。元Cランク冒険者、登録番号K-7-2284」

 受付の女性の指がキーボードの上で止まった。画面を確認する。

「・・・照川孝三郎さん。記録があります。引退済みですが、保証人資格は有効です」

「手続きを進めてくれ」

 女性が書類を出した。特例申請用の用紙。通常の遺物回収業者の登録よりも厚い書類の束。親権者同意書、保証人宣誓書、未成年者ダンジョン入域許可申請書。

 孝三郎がペンを取り、迷いなく署名していく。住所、氏名、登録番号、保証人としての宣誓。ペン先が紙の上を走る音が、広いとは言えないロビーに響いた。

 陽一は自分の欄を記入した。名前。生年月日。住所。

 受付の女性が書類を確認しながら、一度だけ陽一の顔を見た。眼鏡の奥の目が、何かを測るように細められた。十三歳。ダンジョンに潜る。それも泥として。元Cランクの父親が保証人。

 何を思ったのか、女性は口にしなかった。書類に不備がないことを確認し、淡々と処理を進めた。

「魔力測定をお願いします。奥の機械に左手を」

 古びた測定器。金属の台座にガラスの球体が嵌め込まれている。陽一は左手を乗せた。

 球体が微かに光った。蛍の光ほどの、頼りない輝き。

「魔力値・・・すでに若手クラスの値はあるようですね」

 受付の女性は事務的に言った。それから引き出しを開け、鉄色のタグを取り出した。チェーンに通された薄い金属板。表面に登録番号と名前が刻印される。

「照川陽一さん。遺物回収業者の登録、完了です。ボディカメラは推奨ですが、装着されますか。万が一の際の証拠になります」

 受付の女性がタグと一緒に、小型のカメラユニットを出した。安価で頑丈なつくり。胸元に装着するタイプだ。映像はカメラ内のストレージに記録され、何か事件があった場合にのみギルドが確認する。日常的にチェックする人手はギルドにはない。

「自前のがあるから結構だ」

 孝三郎が答えた。

 その言葉を聞いて、女性はボディカメラをカウンターから下ろしてタグだけを差し出した。手が、ほんの一瞬だけ躊躇ったように見えた。気のせいかもしれない。

 陽一はタグを受け取った。

 冷たい金属が掌に触れた。軽い。驚くほど軽い。命を預ける身分証明としては、あまりに頼りない重さ。だがこの薄い金属板が、ダンジョンへの入場券であり、冒険者としての最低限の身分を証明するものだ。

 首にかけた。チェーンの金属がシャツの上から鎖骨に当たる。ひんやりとした感触が、胸の中央に落ちた。

「—行くか」

 孝三郎が言った。ギルドのロビーを出て、駐車場に向かう。車には乗らなかった。

「歩いて二十分だ。ダンジョン『廃坑』まで」

 車に戻ると、孝三郎がトランクを開けた。

 中にはボディカメラと装備一式が積まれていた。

 防刃ジャケット。照川商事が扱う中で最高グレードのもの。表面は質素な灰色だが、裏地に三層の防刃繊維が織り込まれている。鋭い爪を持ったモンスターの一撃を止められる強度。腕と脛のガード。軽量だが衝撃を吸収する複合素材。革手袋。強化グローブではなく、指先の感覚を残しつつ掌を保護するタイプ。トレッキングブーツは防水仕様。ヘルメット。そして—短剣。刃渡り二十センチの実戦用。中古だが、孝三郎が自分で刃を研ぎ直してある。

 元冒険者が、息子のために選んだ装備。商社の在庫の中から、十三歳の体格に合うもの、浅層の魔物に対して必要十分なものを、一つ一つ吟味している。過剰でも不足でもない、実務的な選択。

「着ろ」

 陽一は黙って装備を身につけた。ジャケットの重みが肩にかかる。ガードが腕と脛にフィットする。短剣を腰のベルトに差す。ボディカメラを胸元に装着する。

 装備の重さが、現実の重さだった。

 父と並んで歩いた。車を置いて、畑の脇を通り、山裾の道を上る。二月の空気は冷たいが、歩くうちに体が温まってくる。孝三郎は黙って歩いた。陽一も黙って歩いた。

 やがて、見えてきた。

 山の斜面に開いた横穴。周囲には朽ちた坑道支柱と錆びたトロッコのレールが残っている。入り口の脇には投光器があった。

 ダンジョン『廃坑』。

 入り口の前には誰もいなかった。土曜の午前中、この最低ランクのダンジョンに来る物好きは少ない。

 孝三郎が足を止めた。

 入り口の手前、五メートルほどの距離。横穴の奥から吹き出す冷たい空気が、二人の顔を撫でた。土と鉄錆と、微かな血の匂い。

「俺はここで待つ。」

 孝三郎の声は平坦だった。

「引退した人間は許可なくダンジョンには入れない」

 陽一は父を見た。

 孝三郎の顔には何の表情も浮かんでいなかった。だがその目の奥に、十五年分の記憶が渦巻いているのが見えた。かつて自分がこの種の入り口に立っていた頃の記憶。暗闇に踏み出す前のあの一瞬。

 保証人としての義務は果たした。ここから先は、息子の領域だ。

「行ってくる」

 陽一は言った。

 足を踏み出した。

 最初の一歩で外界の光が背後に遠ざかる。横穴の天井が低い

 二歩目で温度が下がった。外気よりもさらに冷たい、地下特有の湿った空気が全身を包む。防刃ジャケットの下のシャツが、冷気を吸って肌に張りつく。

 三歩目で、匂いが変わった。カビ。血。そしてもう一つ。魔力を含んだ鉱石が放つ、金属的な微かな甘さ。ゲームの画面では絶対に伝わらない、現実のダンジョンだけが持つ匂い。

 五歩。十歩。二十歩。

 坑道の壁が荒く削られた岩肌を晒している。そして—明るかった。

 壁面に埋まった鉱石が、淡い青白の光を放っている。天井にも、足元にも、大小さまざまな鉱石が岩盤に食い込むようにして発光していた。ヘッドライトがなくても通路の先まで見通せる程度の明るさ。曇天の夕方くらいの視界。

 ゲームの記憶と一致する。画面の中のダンジョンも、こうやって視界が確保されていた。ゲーム的なご都合主義だと思っていたが。魔力を含んだ鉱石が自然に発光する現象。ダンジョン内の魔力濃度が高いほど光量も増すらしい。ここは最低ランクの廃坑だから薄暗い程度だが、深層に行けばもっと明るいのだろう。

天井から水が滴っている。ぽたり、ぽたり。規則的な音が、心臓の鼓動とずれたリズムで静寂を刻む。発光鉱石の光が水滴に反射して、壁面にちらちらと光の粒が散る。

 しばらく歩くと、通路が広くなった。天井が高くなり、壁面に古い採掘跡が残っている。足元には他の泥が残していったゴミ—空のペットボトル、使い捨ての手袋、素材を包んでいたビニール袋—が散らばっていた。

 安全圏だ。

 ダンジョンの入口から百メートルほどの範囲は、魔物が出現しない。冒険者が頻繁に通るため、魔物が寄りつかないのか、あるいはダンジョンの構造自体がそう設計されているのか。理由はわからないが、ゲームの記憶でもそうだった。泥が残骸を拾い集めるのは、このエリアだ。冒険者が倒した魔物の死骸や、持ちきれなかった素材が、安全圏のあちこちに転がっている。

 たとえ孤児でもスカベンジャーとしてやっていけるのは、この安全圏があるからだ。ここから出なければ、魔物とは会わない。

 陽一は安全圏を歩きながら、足元の残骸を見た。大穴鼠の毛皮が泥の中に落ちている。誰かが回収し損ねたか、価値がないと判断して捨てたものだろう。泥の仕事ならこれを拾って帰ればいい。安全で、確実で、死ぬ心配もない。

 —だが、それでは足りない。

 安全圏の終わりが見えた。通路が狭くなり、床のゴミが消え、発光鉱石の光もわずかに暗くなる。ここから先は、冒険者の領域。泥が踏み込む場所ではない。

 陽一は足を止めた。

 境界線の向こうを見つめる。通路は続いている。暗くはないが、空気が違う。安全圏の「何もいない」空気と、その先にある「何かがいる」空気。境目ははっきりしないのに、体が感じ取っている。

 足元が変わった。乾いた石から、ぬかるんだ土へ。ブーツの底が泥を踏む湿った音。安全圏を超えた。

 恐怖が腹の底から這い上がってくる。

 当たり前だ。十三歳の体は正直だ。膝が笑いそうになる。唾液が止まらない。短剣を握る手が汗で滑る。

 ゲームの記憶はある。このダンジョンの構造も、出現する魔物も知っている。だがそれは画面越しの知識だ。今、目の前にある現実は画面では絶対に伝わらない、死の気配。

 しばらく進んだ。五分。十分。安全圏を出てからの時間が、やけに長く感じる。

 壁の向こうから、かすかな音が聞こえた。

 爪が石を引っ掻く音。小さな体が這い回る音。

 —来る。

 通路の先に、赤い目が二つ光った。

 大穴鼠。

 灰色の毛並みが汚れと脂でべっとりと固まった、中型犬ほどの体躯。黄色い牙が唾液で光り、鱗に覆われた尻尾が石畳を擦っている。赤い瞳が発光鉱石の光を反射して、薄暗がりに二つの点となって浮かんでいる。

 陽一は短剣を構えた。汗を拭く暇はない。呼吸を整える。鼻から吸って、口から吐く。心臓が壊れそうなほど激しく打っている。

 大穴鼠が低くキイイと鳴いた。毛が逆立つ。体が低くなる。

 跳んだ。

 速い。石畳を蹴って一直線に、陽一の胴体めがけて飛来する。

 体を左にずらした。裏庭で何百回と繰り返した体捌き。大穴鼠の牙が右腕の防刃ジャケットを掠める。防刃繊維のおかげで肌には届かない。

 短剣を振り下ろして大穴鼠の背中に叩きつける。鈍い手応え。肉と骨を叩く重い感触が腕に伝わる。竹刀で面を打った時とはまるで違う、暴力的な衝撃。

 だが、倒れない。

 大穴鼠が悲鳴を上げて身をよじり、反撃に転じた。前足の爪が弧を描く。

 今度は—避けきれなかった。

 左の前腕に灼熱が走った。防刃ジャケットの袖口と手袋の隙間、わずか数センチの防護のない肌を、爪が抉った。皮膚が裂け、肉が削がれる。

 痛みで視界が白く明滅する。左手から力が抜けそうになる。

 —ここからだ。

 陽一は歯を食いしばった。

 左腕は動くはずだが、震えて使えない。短剣を右手に持ち替える。片手で扱える武器で助かった。。

 大穴鼠が体勢を整え、再び突進してきた。低い姿勢。足首を狙う動き。

 陽一は跳んだ。

 全体重を右腕に乗せて、真上から短剣を振り下ろした。重力と体重と、十三歳の全筋力を込めた一撃。

 頭蓋に直撃した。ぐしゃりという湿った音。大穴鼠の赤い目から光が消え、四肢が痙攣し、やがて動かなくなった。

 陽一は膝をついた。

 荒い呼吸。心臓が暴れている。右腕は鉛のように重く、指が開かない。左腕からは血が流れ続けている。

 一匹。たった一匹の最弱の魔物に、全力を使い果たした。

 左腕にかざした右手から、蒼白い光が滲み出た。

「再生」

 激痛が来た。

 傷口が燃えた。裂けた肉が蠢き、筋繊維が絡み合い、皮膚が再構成されていく。

 石畳にうずくまり、額を冷たい石に押しつけ、奥歯を食いしばった。唇の端から血が滲む。涙が勝手に溢れる。痛みのせいだ。ただ、痛みのせいだ。

 三十秒。永遠のような三十秒。

 痛みが引いた。

 左腕を見ると傷がなかった。裂傷があった場所に、薄いピンク色の新しい皮膚が張っているだけ。

 左手を握った。開いた。握った。

 力が入る。

 陽一は短剣を拾い上げた。左手で。

 立ち上がった。膝が震えている。全身が汗でびっしょりだった。だが、立った。

 坑道の奥に、闇が続いている。この先にまだ魔物がいる。一匹では足りない。全然足りない。

 陽一は歩き出した。

 恐怖はある。痛みの記憶がある。あの灼熱の三十秒をもう一度味わうことへの、本能的な拒絶。

 だが足は前に出た。


 —どのくらいの時間が経っただろう。

 廃坑の入り口に、陽一の姿が現れた。

 横穴から這い出すようにして、外の光の中に出てきた。二月の曇天が、坑道の闇よりも百倍明るく感じた。目を細める。冬の空気が汗で冷えた体に突き刺さる。

 全身が泥と血にまみれていた。防刃ジャケットは爪痕だらけで、カーゴパンツの膝は泥で黒く染まっている。髪は汗で額に張りつき、顔には乾いた血の跡がこびりついている。

 だが、傷は一つもなかった。

 泥と血にまみれているのに、肌には裂傷の跡も打撲の痕も、何一つない。白い肌が、防刃ジャケットの隙間から無傷のまま覗いている。

 孝三郎は、入り口の脇の岩に腰かけて待っていた。

 泥と血にまみれた十三歳の息子。だが傷一つない。ボロボロの装備の下の肌は、まるで一度も戦場に出たことがないかのように滑らかだ。

 孝三郎は立ち上がった。

 何も言わなかった。

 息子の前に歩み寄り、その肩に手を置いた。一度だけ、ぽんと叩いた。

 それだけだった。

 それが、照川孝三郎にできる最大の肯定だった。


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