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第五話3

 リビングの窓が、外の二人を照らしていた。

 暖色の光が裏庭に長方形の枠を作り、その中で父と息子の影が動いていた。木刀を打ち合う乾いた音が二階の窓ガラスを震わせた。

 陽菜は自室の窓辺に座っていた。

 カーテンを少しだけ開けて、暗い裏庭を見下ろしている。部屋の照明は消していた。暗闇の中にいれば下からは自分の姿が見えない。

 話の全容は聞いていた。

 自室に上がった後、陽一がなかなか自室に戻らなかったことが気になってリビングに戻ろうと階段を降りた。その途中でリビングから声が聞こえてきた。静かなこの家では筒抜けだ。兄の声。母の声。父の声。一言も聞き漏らさなかった。

 兄が泥になる。自己再生に目覚めた。ダンジョンに潜る。

 カッターで腕を切る瞬間は見えなかった。だが母の悲鳴のような声と、その後に落ちた沈黙の深さで、何が起きたかは想像できた。

 そして今、打ち合いが終わった。

 父が木刀を下ろし、兄も構えを解いた。二人の白い息が重なっては消える。

 父の声が、かすかに聞こえた。

 —中途半端にやれば、確実に死ぬ。やるなら、徹底的にやれ。

 陽菜は窓枠を握りしめた。指先が白くなるほど強く。

 怖い。

 兄がダンジョンに潜る。十三歳の、まだ大人にもなれていない兄が。魔物と戦う。傷を負う。あの激痛に耐えながら治す。そしてまた戦う。

 怖い。兄を失うことが。

 去年の秋から冬にかけて陽菜は兄を失いかけた。不登校で部屋に閉じこもり、食事も満足に取らず、生きている人間の目をしていなかった兄。あの頃の兄はもうこの世界にいないのと同じだった。声をかけても返事がない。扉の向こうの沈黙が毎日少しずつ陽菜の胸を削っていった。

 だから—兄が外に出てきた時、走り出した時、裏庭で木刀を振り始めた時、陽菜は安堵した。生きている。まだこちら側にいる。目に光が戻っている。

 でも今度は、その光が兄をダンジョンの暗闇に連れていこうとしている。

 —止められない。

 あの目を見たら、止められない。

 あの光を消す側に回りたくない。

 それは十二月の夕暮れに、台所の窓から兄の素振りを見た時と同じ感情だった。止めるべきかもしれない。止めるのが正しいのかもしれない。でも—。


 階下で玄関が開く音がした。父と兄が裏庭から戻ってきたのだ。

 陽菜は窓辺を離れた。

 部屋の扉を開け、廊下に出る。階段の上から、一階の様子をうかがう。

 リビングに光が漏れている。父と兄が戻ったらしい。母の声がかすかに聞こえる。まだ泣いているのだろうか。

 陽菜は階段を降り始めた。

 一段。二段。三段。素足がフローリングの冷たさを踏む。パジャマの裾が足首に触れる。心臓が早い。何を言うかまだ決まっていない。頭の中で言葉が渦を巻いている。うまく整理できない。でも、言わなければならないことがある。今、この瞬間に。

 リビングのドアは開いていた。

 陽菜は立ち止まった。ドアの枠に手をかけて、中を覗く。

 母がダイニングチェアに座っていた。目が赤い。エプロンの裾を固く握りしめている。父はソファに戻っている。兄は父の向かいに立っていた。

 三人の視線が、同時に陽菜に向いた。

「陽菜ちゃん・・・」

 茉莉の声が掠れている。

「聞いてた」

 陽菜は言った。取り繕うつもりはなかった。

「全部、聞いてた」

 陽一の目が妹を見ている。孝三郎が微かに眉を動かした。

 陽菜はリビングに足を踏み入れた。パジャマの裾を踏みそうになって、少しだけよろめいた。でも止まらなかった。

「私も—」

 声が震えた。喉の奥が詰まる。言葉にするのが怖い。でも、兄があんな覚悟を見せたのに、自分だけ黙っているわけにはいかない。

「私もついていく。それで国立に行く」

 言った瞬間、自分の声が思ったより大きかったことに気づいた。リビングの壁に反響して、少しだけ遅れて自分の耳に戻ってきた。

 沈黙が落ちた。

 茉莉が目を見開いた。孝三郎が微動だにしない。陽一が—ほんの一瞬、目を細めた。それが何の表情なのか、陽菜にはわからなかった。

「ひなちゃん—」

「小さい頃に約束した」

 陽菜は母の言葉を遮った。遮ったことに自分でも驚いた。でも止まれなかった。

「お兄ちゃんの後ろから魔法をかける後衛になるって。美月ちゃんと三人で最強のパーティーになるって」

 あの日の記憶。道場の縁側で、夕焼けの中で、三人の小指が絡まった日。おもちゃのステッキを振り上げて、「ひなはこうえい!」と叫んだ日。画用紙に描いた三人の棒人間。黄色い魔法。緑の草原。青い空。

 あの約束は、まだ生きている。

 美月がどこにいようと、兄が何をしようと、陽菜の中であの約束は一度も消えたことがない。

 茉莉の目から再び涙が溢れた。

 だが今度の涙は、さっきとは色が違った。恐怖と拒絶の涙ではない。もっと熱くて、もっと深い場所から湧き上がってくる涙だった。子供たちが自分の足で立ち上がろうとしている—その姿を見た親だけが流す涙。

 孝三郎が口を開いた。

「やるなら本気でやれ」

 息子に言ったのと同じ言葉を、今度は娘に向けた。声の調子は変わらない。低く、重く、感情を押し殺した声。だがその目の奥に微かな光があった。

 陽一が妹を見た。

「陽菜」

「何」

「・・・ありがとう」

 それだけ言って、兄は視線を逸らした。兄らしい不器用な感謝の仕方だった。陽菜はそれ以上何も言わなかった。言う必要はなかった。

 茉莉がエプロンで目元を拭い、深く息を吐いた。震える吐息が、リビングの空気に溶けていく。

「・・・お父さんもお母さんも、元は冒険者よ。子供たちに偉そうなことを言えるだけの腕は、まだ残ってると思いたいけど」

 その声には、諦めと決意が同居していた。

「陽菜ちゃんは私たちが見る。基礎から、ちゃんと」

 孝三郎が無言で頷いた。

 引退して十五年以上。だが子供たちのためなら、錆びた刃をもう一度研ぐ覚悟くらいはある。

 リビングの時計が、九時を告げた。鳩時計の古い仕掛けが、かちかちと音を立てる。

 照川家の夜は、まだ長い。

 この夜を境にこの家の空気は決定的に変わった。


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