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第五話2

 裏庭の空気は、刃のように冷たかった。

 気温は零度に近い。吐く息が白く凍り、頬を撫でる風が容赦なく体温を奪っていく。空には雲がかかり、月明かりはほとんどない。隣家の窓から漏れる光とリビングの窓から射す暖色の光だけが、狭い裏庭を薄暗く照らしていた。

 砂利を踏む音が二つ。

 陽一は物置から木刀を二本取り出した。一本は父の古い赤樫の木刀。もう一本は自分が毎日振っている白樫の木刀。使い込まれて表面が磨かれ、握りの部分に手の脂が染み込んで黒ずんでいる。

 孝三郎に赤樫を差し出した。

 父は受け取らなかった。しばらく木刀を見下ろしていた。引退して十五年以上。最後にこれを握ったのはいつだったか。

 いや、忘れるはずがない。

 十年ほど前。陽一がまだ五歳で、「冒険者になる」と目を輝かせていた頃。庭先でこの木刀を振って見せたことがある。息子が「すげえ」と歓声を上げ、自分もやりたいと言い出して、子供用の竹刀を買いに行った日。あれが最後だ。

 孝三郎は木刀を握った。

 指が自然と正しい位置に収まった。体が覚えている。十五年のブランクなど手の記憶には関係ない。握りの感触が掌に広がった瞬間、背筋を走る電流のようなものがあった。懐かしさとは違う。もっと原始的な、戦う者の血が目を覚ます感覚。

「型を見せろ」

 陽一は頷いた。

 木刀を構えた。低い構え。重心を落とし、右足を半歩前に出す。

 —これは、剣道の構えではない。

 孝三郎の目が細くなった。息子が中段に構える姿を何百回と見てきた。道場で竹刀を握っていた頃の陽一は、正統な剣道の構えだった。正眼に構え、摺り足で間合いを詰め、正確な面・小手・胴を打つ。基本に忠実な美しい剣道。

 今の構えは違った。

 重心が低い。膝の角度が深い。左足の踵がわずかに浮いている。どこからでも跳べるように、どこへでも逃げられるように。竹刀を構えるのではなく、得物を構えている。相手を打つためではなく、相手を斬るための構え。

 陽一が動いた。

 振り下ろし。斜めからの切り上げ。そのまま体を回転させて横薙ぎ。返す刀で突き。足運びは地面を蹴る実戦的なもので、摺り足の面影はない。一つ一つの動作に、二ヶ月前にはなかった重みがある。

 粗い。技術的には、まだまだ荒削りだ。右足の着地がやや不安定で体幹が流れる瞬間がある。切り返しの際に重心の移動が遅れ、次の動作への接続が滑らかでない。

 だが—。

 孝三郎は息を呑んだ。

 動きの「質」が違う。

 二ヶ月前の息子は、裏庭で木刀を振っていた。孝三郎はそれを見ていないが、茉莉から聞いた。「頭で思い描いている動きと体が噛み合っていない」—茉莉はそう言っていた。

 今の陽一は違う。頭と体が噛み合い始めている。それだけではない。一つ一つの動作に、迷いがない。試行錯誤の段階を超えて、自分なりの理論を体に刻み込んでいる者の動き。

 何より、覚悟が乗っている。

 その表現は曖昧だ。だが孝三郎には、それ以外の言い方ができなかった。実戦経験のある者だけが持つ「重さ」が、十三歳の息子の木刀に宿っている。形は未熟でも、振りの一つ一つに「殺す覚悟」と「死ぬ覚悟」が同居している。

 —この子は、何をした。

 たった二ヶ月で、裏庭での素振りだけでこうはならない。体力訓練だけでこうはならない。もっと根源的な何かを—立ち上がることを繰り返した者だけが持つ、あの種類の動き。

 陽一はさっき作り直しているといった。

 自己再生。あれを使って体を壊しては治し、壊しては治しを繰り返したのか。

 背筋が冷えた。

 筋繊維を断裂させ、腱を損傷させ、激痛に耐えながら無理やり修復し、強化する。それを毎日、何十回と繰り返す。正気の沙汰ではない。十三歳の子供がやることではない。

 だが—その結果がこれだ。

 二ヶ月前まで不登校で痩せ衰えていた少年が、今、元前衛の目から見ても「実戦で動ける」レベルの体を作り上げている。

「——打ってこい」

 孝三郎が木刀を構えた。

 剣先が震えていないことに、少し驚いた。十五年のブランク。引退してから剣を握ることなど一度もなかった。だが構えた瞬間に、体の奥底に眠っていたものが目を覚ました。

 かつてダンジョンの暗闇で両手剣を振り回していた男。Cランクパーティの前衛として、壁のように立ちはだかっていた男。変異種の爪に左腕を抉られてもなお剣を離さなかった男。

 その男の体が、覚えている。

「来い」

 陽一が踏み込んだ。

 斜めからの切り上げ。速い—十三歳の体にしては、明らかに速い。だがまだ若い。軌道が読める。

 孝三郎は最小限の動きで木刀を合わせた。がつん、と乾いた音が夜の裏庭に響いた。砂利が振動で跳ね、窓ガラスに反射した光が揺れた。

 打ち合いが始まった。

 軽い、と孝三郎は自分に言い聞かせた。軽い打ち合いだ。実戦ではない。息子の力量を測るための、軽い手合わせ。

 だが、体は嘘をつかなかった。

 三合目。陽一の横薙ぎが孝三郎の脇腹を狙った。速度はそこまでではない。だがタイミングが良い。前の二合で孝三郎の受けのパターンを見て、三合目に崩しにきている。たった二合の打ち合いから相手の癖を読み取ろうとしている。

 五合目。孝三郎が意図的に隙を作った。右肩を開き、面ががら空きになる構え。誘いだ。これに乗ってくるかどうかで、実戦感覚の有無がわかる。

 陽一は乗らなかった。

 面を打ちにいく代わりに半歩下がって間合いを取り直した。孝三郎の目が光った。——わかっている。不自然な隙を疑える判断力がある。これは場数を踏まなければ身につかない感覚だ。裏庭での一人稽古で、どうやってこれを覚えた。

 七合目。陽一が突きを繰り出した。木刀の先端が孝三郎の喉元に向かって直線的に伸びる。そこそこの速度。だが孝三郎は体を半身にずらして躱し、陽一の木刀を横から叩いて軌道を逸らした。

 その瞬間、陽一の体勢が崩れた。突きを逸らされた反動で前につんのめり、膝が砂利に着きかける。

 孝三郎は追撃しなかった。

 陽一はすぐに体勢を立て直し、構え直した。膝についた砂利の冷たさなど気にもせず、木刀を正眼に据えて孝三郎を見据える。

 —まだ足りない。

 孝三郎は思った。技術は未熟だ。体幹の安定性も、足運びの精度も、まだまだ実戦レベルには届いていない。今のダンジョンに一人で入れば、Eランクの雑魚にすら苦戦するだろう。

 だが。

 この子の中には、何かがある。

 自分が引退してからずっと見ないようにしてきたもの。ダンジョンの暗闇に身を投じる者だけが持つ、あの種類の覚悟。それが十三歳の息子の動きにはっきりと宿っている。

 —なぜだ。

 魔力を探る。息子の魔力の器を読もうとする。だが—感じ取れたのは、凡庸な密度の魔力だけだった。孝三郎と茉莉の子としては上出来な、中の上程度。特別なものは何もない。自己再生の術式がどれほどの魔力を消費するのかはわからないが、外から見る限り、魔力的には平凡な少年にしか見えない。

 なのに、体の動きが平凡ではない。

 相当な場数を踏んでいる。

 孝三郎の直感がそう告げた。実際は裏庭での自己再生レベリングだ。自分の体を壊し続けるという、修羅場とは別種の地獄。だが動きの質—痛みを知り、恐怖を知り、それでも前に出ることを選び続けた者の動き。それは、実戦経験者と重なる部分がある。

 甘かったのは俺の方だったか・・・。


「—止め」

 孝三郎が木刀を下ろした。

 陽一も構えを解いた。白い息が二つ、冬の闇に溶けていく。

 沈黙が落ちた。

 砂利を踏む音はもうしない。暖房の室外機が低く唸る音だけが夜の静寂を埋めている。

 孝三郎は木刀を左手に持ち替え、右手で左腕の傷跡をさすった。無意識の動作。冬になると引きつるあの皮膚を、指先がなぞる。

 自分が諦めたものを、息子が拾おうとしている。

 変異種に腕を抉られたあの日。才能の壁を思い知り、両手剣を置いたあの日。冒険者を辞め、会社を興し、家庭を築いた。後悔はしていない。陽一が生まれ、陽菜が生まれた。それは自分の人生の最良の選択だった。

 だが、ダンジョンの暗闇に置いてきた自分の半身が、今、息子の中で目を覚まそうとしている。

 それを止める権利が、自分にあるのか。

 孝三郎は長い間黙っていた。冬の夜気が頬を刺し、鼻腔の奥を凍えさせる。遠くで犬の遠吠えが聞こえた。住宅街の静寂に小さな命の声が響いて消えた。

「中途半端にやれば、確実に死ぬ」

 孝三郎の声は低く、重かった。

 息子の目を見た。月のない夜の裏庭で、リビングの窓から漏れる光だけが息子の顔を照らしている。十三歳の、まだ子供の輪郭を残した顔。だがその目は——覚悟を決めた人間の目だ。

「やるなら、徹底的にやれ」

 その一言が、孝三郎の答えだった。

 保証人になる。自分の息子を泥にする。元冒険者の父親が、十三歳の息子をダンジョンに送り出す。それがどういう目で見られるか、わかっている。世間は言うだろう。照川商事の社長が、息子を泥に堕としたと。虐待だと。あるいは、かつて自分が果たせなかった夢を息子に押しつけていると。

 どう思われても構わない。

 息子の覚悟を見た。打ち合いの中で、体で確かめた。この子は本気だ。本気の人間を止める権利は親にもない。

「—お前の保証人になる」

 陽一の目が、微かに揺れた。

 それは感謝とも安堵とも違う、もっと複雑な色をしていた。父が何を賭けてその言葉を口にしたか、理解している目だった。

「ありがとう。父さん」

 声は静かだった。だがその言葉に、十三歳の少年がこの二ヶ月間で積み上げてきたすべての重みが乗っていた。

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