第五話1
夕食を終えたリビングに、食器の片づけを済ませた茉莉が戻ってきた。孝三郎はソファに座り、テレビのニュースをぼんやり眺めている。今日の日経平均が、為替が。画面の中の数字が点滅していたが、孝三郎の目は追っていなかった。
陽一が、夕食後の食卓を離れず、そのまま座っていた。陽菜はとっくに自室に上がっている。茉莉がキッチンで洗い物をしている間も、陽一は席を立たなかった。
何かあるのかしら。母としての直感が、茉莉の背筋をかすかに引き締めた。
「話がある」
陽一の声は低く、静かだった。十三歳の声にしては落ち着きすぎている。二ヶ月前に学校へ復帰して以来、息子は別人のように寡黙になった。朝の挨拶はする。食事も取る。学校にも通う。だが感情の温度がどこか遠い。
「ふたりに、聞いてほしいことがある」
孝三郎がテレビのリモコンを手に取り、音量を下げた。茉莉がダイニングチェアに腰を下ろし、エプロンの裾を無意識に握る。洗い物で冷えた指先が、綿の布地の温もりを求めるように。
リビングに沈黙が降りた。テレビの画面だけが白々しく光っている。暖房の温風が天井付近を漂い、窓ガラスの結露がゆっくりと下へ流れていく。
「泥として登録して、ダンジョンに潜りたい」
一拍。
茉莉の指がエプロンの布地を握りしめた。繊維が軋む感触が指先に刺さる。
孝三郎はリモコンをテーブルに置いた。陶器のコースターの上に、かちりと小さな音。その動作が妙にゆっくりだったのは、手が震えているのを悟られまいとしていたからだ。
「—何を言ってるんだ」
孝三郎の声は平坦だった。三十九年の人生で磨き上げた感情を押し殺す技術。だが今、その声の底には、抑制の糸がぎりぎりまで引き絞られた緊張が透けていた。
「泥だぞ。清掃員だぞ。十三歳の子供が。何を考えてるんだ」
「わかってる。その建前で、浅層の魔物と戦う。そういうことをしたい」
陽一は視線を逸らさなかった。父の目を真っ直ぐに見据えている。
茉莉が口を開いた。声が掠れた。
「・・・あなた、体力訓練を始めたのは知ってたわ。毎日走って、裏庭で木刀を振って。学校にもちゃんと通って。それはよかったと思ってた。でも、ダンジョンって」
「母さん」
「泥って、どういう人たちがやってるか知ってるの? 正規の冒険者から外れてしまった人たちよ。あなたみたいな年齢の子がいたとしても身寄りがいなかったり、まともな装備もなくて、保険も効かなくて—」
「知ってる」
「じゃあなんで」
「俺には、自己再生の能力がある」
言葉が、リビングの空気を裂いた。
孝三郎が微かに身を乗り出した。ソファのクッションが沈む、革の軋む音。
茉莉の目が見開かれた。
「自己再生・・・?」
「十二月の高熱の後に目覚めた。魔力暴走がきっかけだと思う」
後天覚醒—その言葉を使わなくても、両親には通じる。魔力暴走を経て特殊な適性が発現することは、稀だが前例がある。父も母も、現役時代にそういう話を聞いたことがあるはずだ。
「見せる」
陽一はポケットからカッターナイフを取り出した。
茉莉が「やめなさい」と言うより早く、陽一は左腕の内側に刃を当てた。
浅くない。明確に肉を裂く深さで、五センチほどの切り傷を引いた。
「陽一っ!」
茉莉が立ち上がった。椅子が後ろに跳ね、フローリングに硬い音を立てる。孝三郎も腰を浮かせかけた。
だが、二人とも—次の瞬間、動きを止めた。
傷口から血が溢れていた。赤い線が白い肌の上を伝い、肘の内側へ流れていく。
陽一が右手を傷の上にかざした。
淡い光。蛍火よりもなお弱い、かすかな蒼白の光が、掌から滲み出た。
そして—激痛。
陽一の顔が歪んだ。奥歯を食いしばり、喉の奥から漏れる呻きを押し殺す。こめかみに汗が浮き、首筋の腱が浮き上がった。二ヶ月間、何百回とこの痛みを繰り返してきた。それでも慣れることはない。慣れないからこそ、毎回、意志の力で歯を食いしばる必要がある。
裂けた肉が蠢いた。筋繊維が生き物のようにうねり、断裂した端同士が絡み合い、癒着していく。皮膚の下で細胞が猛烈な速度で分裂し、新しい組織を形成していく。
十秒。
陽一の左腕には、傷の痕跡が一切なかった。血の滴った跡は残っているが、薄いピンク色の新しい皮膚が元通りに張り直されている。
リビングの沈黙が、重さを変えた。テレビのニュースキャスターが何かを喋り続けている。その声が、ひどく遠い。
茉莉の目に涙が浮かんでいた。
立ち上がった姿勢のまま、両手を自分の胸の前で重ねて、唇を震わせている。泣いているのに声は出ない。
「・・・痛いんでしょう」
かろうじて絞り出された声は、確認というより懇願だった。
「痛いわよね。今、あなた、ものすごく痛そうだった。あんな顔をして—」
「痛い」
陽一は認めた。嘘をつく理由がなかった。
「毎回痛い。使っていくうちにマシになればいいけど」
「じゃあ、なんでそんなことを—」
茉莉の声が震えた。涙が頬を伝って、顎の先から落ちた。フローリングに小さな染みが一つ。
「美月ちゃんに追いつこうとしなくてもいいのよ。あなたは普通の子供なの。学校に通って、友達を作って、普通に・・・自分を壊してまで—」
「壊してない」
陽一の声は、静かだった。冬の水底のように深く、平らかな声。
「壊すんじゃなくて、作り直してる。この能力は、傷を治すだけじゃない。治したあとの組織が、前より少しだけ強くなる。時間はかかる。効率も悪い。でも、確実に前に進める」
「それでも—」
「普通ではだめなんだ」
陽一は一度目を閉じ、それから開いた。
次の言葉を選ぶのに、ほんの一瞬だけ間が空いた。ゲームの記憶のことは言えない。この世界がゲームだったこと、主人公がまもなく物語を動かし始めること、力のない人間が巻き込まれれば死ぬこと—それは絶対に口にできない。だから、本当の理由の一部だけを、嘘にならない形で口にする。
「俺は普通のまま、死にたくないだけだ」
リビングの空気が冷えた。暖房は動いている。温風は天井を巡っている。なのに、その一言が降ろした温度は、機械では取り戻せない種類のものだった。
茉莉は泣いていた。声を殺して、肩を震わせて、それでも息子から目を逸らさずに泣いていた。
「納得できない。お母さんは、納得できないわ」
その声は弱かったが、芯があった。感情に流されているのではない。母親として、子供をダンジョンに送り出すことの意味を、元冒険者として骨の髄まで知っているからこそ、抵抗しているのだ。
「父さんの怪我だって見てきたでしょう。腕の傷跡。あれがどういう場所で、どうやってできたか。知っていて—」
「知ってるから、行くんだ」
陽一の声が微かに揺れた。計算された冷静さの奥で、十三歳の感情がほんの一瞬だけ顔を覗かせた。
孝三郎は、ソファに座ったまま沈黙していた。
妻と息子のやりとりを一言も発さずに聞いていた。左腕の傷跡を無意識に右手で覆っている。長袖シャツの袖口の下で、白い皮膚の隆起を指先がなぞる。冬になると引きつるあの感触。十五年以上前の記憶が、指先を通じて蘇ってくる。
息子は本気だ。
あの目を見ればわかる。二ヶ月前に学校へ復帰して以来、陽一の目には何かが宿っている。不登校の間に死んでいた目ではない。かといって、かつて美月と並んで夢を語っていた頃の無邪気な輝きでもない。もっと深い場所で、もっと静かに、もっと暗い火が燃えている。
覚悟を決めた人間の目。
「外に出ろ」
孝三郎が言った。低い声。感情を押し殺した、あの声。だが今度は、その底に別のものが混じっていた。
茉莉が振り返った。「あなた・・・?」
「裏庭に出ろ・・・。その甘い考えを叩き直してやる」




