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第四話4


 陽一は自室の机に向かっていた。家中が寝静まった深夜。

 机の上に、三冊の革張りの手帳が並んでいる。デスクライトの黄色い光に照らされた、古びた革の表面。どれも似たような見た目だ。サイズ、色、革の質感。加藤はよく集めてきてくれた。

 三冊のうち一冊だけ妙に重い手帳があった。受け取った時から気になっていた。見た目は同じ。サイズも革の質も変わらない。なのに、掌に乗せた時の重さが違う。物理的な重量ではない。何か引力のようなものを感じる。

 ゲームの中では、この手帳はアイテム欄から「使用」するだけだった。現実でどうすればいいのかはわからない。やれることは一つ。魔力を流してみる。

 陽一はその一冊を手に取った。両手で挟み、目を閉じる。

 初めての意図的な魔力操作だった。力の入れ方がわからない。指先に力を込めてみるが何も起きない。逆に力を抜いてみる。それも違う。何度か繰り返すうちに、指先の温度を上げるような感覚が近いのだと気づいた。

 三分。五分。額に汗が浮く。

 掌がわずかに温かくなる。手帳の革に、その熱が伝わっていく。

 指先が、ぴりっと痺れた。

 手帳が—応えた。

 淡い蒼白の光が、革の内側から滲み出した。光は手帳全体に広がり、デスクライトの黄色い光を塗り潰していく。

 手帳が勝手に開いた。ページが一枚ずつ、風もないのにめくれていく。日記の文字が光に溶かされるように消え、その下から別のものが浮かび上がってきた。

 見たことのない文字体系。記号と図の中間にあるもの。人体を模した輪郭線の上を、無数の曲線が走っている。魔力の経路を示す回路図。

 情報が脳に流れ込んできた。

 手帳に流した魔力を通じて、記録された知識が直接、脳の中に書き込まれていく。頭蓋の内側を冷たいものが這う感覚。こめかみの奥で何かが膨張する圧迫感。回路の構造が、頭の中に直接、三次元の設計図として組み上がっていく。

 数秒だったのか、数分だったのかわからない。

 光が消えた。手帳は元のただの日記に戻っていた。

 だが陽一の頭の中には、自己再生の術式が完全に刻まれていた。

 念のため、残りの二冊にも同じように魔力を流してみた。何も起きなかった。ただの日記だった。当たりは、あの一冊だけ。

 —試す。

 陽一は机の引き出しを開け、カッターナイフを取り出した。

 刃を出す。銀色の薄い刃が、デスクライトの光を反射してぎらりと光った。手が震えている。当然だ。これから自分の体に刃を入れる。頭では理解している。術式の理論も手順も、すべて頭の中にある。だが体が拒否している。

 —やれ。

 左腕の内側。手首から五センチほど上。皮膚が薄く、血管が青く透けて見える場所を避け、その少し外側に刃先を当てた。

 浅く。あくまで浅く。

 一息に引いた。

 鋭い痛み。皮膚が裂ける感触が指先に伝わり、数ミリの深さの切り傷が一筋、左腕に走った。血が滲む。赤い線が、白い肌の上にゆっくりと広がっていく。

 —ここからだ。

 陽一は右手を傷の上にかざした。

 頭の中の回路図を呼び出す。魔力の流れを、たった今刻まれたばかりの新しい経路に通す。微弱な力を—精密に、無駄なく、傷口の一点に集束させる。

 「再生」。

 術式が起動した瞬間—

 熱が、傷口から沸き出した。

 陽一は声を上げそうになった。咄嗟に枕を掴み、顔を押し当てる。枕の布地に歯を食い込ませ、喉の奥から込み上げてくる悲鳴を押し殺した。

 痛い。

 想像の百倍—痛い。

 傷口が燃えていた。火で炙られているのとは違う。もっと深い場所で、細胞の一つ一つが溶かされて再構成されているような、内側から沸騰するような痛み。傷口の周囲の皮膚が赤く腫れ上がり、切り裂かれた肉が蠢いた。

 肉が癒着する。裂けた皮膚の端と端が、無理やりに引き寄せられ、ぐちゅりと音を立てて接合していく。筋繊維が再編され、血管が結び直される。その一つ一つの過程が神経を通じて脳に激痛として伝わってくる。

 荒療治という言葉がふさわしかった。治癒ではなく—修繕。壊れた機械を力任せに直すような、暴力的な回復。

 枕に顔を押し当てたまま、涙が溢れた。痛みで涙が出るのは生まれて初めてだった。全身が震えている。左腕だけでなく、体の芯まで震えが走っている。奥歯が勝手にカチカチと鳴った。

 数秒—体感では数分が過ぎた。

 熱が引いた。痛みが、波が引くように遠ざかっていく。

 陽一は枕から顔を上げ、左腕を見た。

 傷がなかった。

 さっきまで赤い線が走っていた場所に、傷跡の一筋もない。血の跡すらない。まるで最初からそこには何もなかったかのように、白い肌が元通りに戻っていた。

 効いた。

 陽一の唇が震えた。

 確実に効く。微弱な魔力でも、この術式の精度があれば、傷を完全に修復できる。無茶な訓練をして筋肉が壊れてもすぐに再開できる。

 だが—代償がある。

 この激痛だ。腕の裂傷を直すだけでこれだ。骨折を直そうと思ったらどれだけの痛みが走るのか。

 自己再生は魔力が足りないぶん、痛みで支払う術式だ。魔力が増えれば、いずれ痛みは和らぐのかもしれない。だが今の陽一には、そんな未来は遠すぎた。

 これから何百回、何千回と繰り返す。

 陽一は枕を抱えたまま、天井を見上げた。

 デスクライトの光が天井に丸い影を作っている。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。左腕には傷の痕跡がない。完璧な修復。だが記憶には、あの凄まじい痛みが焼き付いている。

 —できる。

 痛みには耐えられる。耐えるしかない。

 明日から、訓練の質が変わる。体力訓練だけではない。肉体を限界まで追い込み、壊し、この術式で修復し、また壊す。その繰り返しで、肉体を作り直す。通常の成長速度では追いつかないものを、痛みと引き換えに加速させる。

 カッターナイフを引き出しにしまい、デスクライトを消した。

 暗闇の中で、陽一は布団に潜り込んだ。目を閉じると、頭の中に魔力回路図が蒼白く浮かぶ。この術式はもう自分のものだ。

 左腕がまだ微かに熱を持っていた。痛みの残滓。しばらくはこの感覚を忘れられないだろう。

 道ができた。


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