第四話3
身体訓練を始めて五日目。陽一は自分の限界を、骨の髄まで理解しつつあった。
毎日の訓練メニューは単純だった。朝、学校に行く前に一時間の走り込み。放課後、裏庭で木刀の素振り。合間に腕立て、腹筋、スクワット。古タイヤを使った蹴り込み。父の古い防具を着けての打ち込み練習。寝る前のストレッチ。
体は悲鳴を上げていた。
筋肉痛は全身を覆い、階段を上るだけで太腿が痙攣した。手の皮は木刀のせいで剥け、テーピングを巻いた上から握り直して振り続けた。左肩が上がらなくなった。
このままでは、壊れる前に体が追いつかない。
必要なのは、あの術式だ。早く・・・早く手に入れてくれないだろうか。
陽一が熱から回復した日、ある人物に頼みごとをした。
加藤。照川商事に出入りしている四十代の冒険者。無愛想だが、父とは長い付き合いだ。
その日の放課後、陽一は商社に寄った。父は外回りに出ている。事務のおばさんに「加藤さん、今日来ますか」と聞くと、「さあ、火曜日だから来るんじゃない?」と曖昧な返事が返ってきた。
事務所の裏手にある資材置き場のパレットに腰を下ろして待つ。冬の風が冷たい。使い古されたポーション瓶のケースが積まれ、空になった木箱が並んでいる。トタン壁の隙間から夕日の最後の光が差し込み、埃っぽい空気の中に橙色の筋を作っていた。
三十分ほど待った頃、聞き覚えのあるエンジン音が近づいてきた。
加藤の軽バンが駐車スペースに入ってくる。錆だらけの白い車体。ドアが開き、加藤が降りてきた。後部座席から素材の入った布袋を引っ張り出し、肩に担いで事務所に向かおうとする。
「加藤さん」
陽一は資材置き場から声をかけた。
加藤が足を止めて振り返った。目を細めて薄暗がりを見る。陽一の姿を認めると、怪訝そうな顔をした。
「・・・照川の息子か。こんなとこで何やってんだ」
「お願いがあって待ってました」
「お願い?」
加藤は布袋を地面に下ろし、腰に手を当てた。タバコの匂いが風に乗って漂ってくる。無精ひげの生えた顔が、不審げにこちらを見ている。
陽一は立ち上がり、二歩ほど近づいた。
「裏市で、古い日記帳を買ってきてほしいんです」
加藤の眉が動いた。「裏市」という単語に反応したのは一瞬で、すぐに表情を戻したが、陽一はそれを見逃さなかった。
「・・・何の話だ」
「こういう見た目の革張りの手帳です」
加藤の問いには答えず、陽一はポケットからメモを取り出した。昨夜、ゲームの記憶を頼りにスケッチした手帳の外観。サイズ、色、革の質感。メモを加藤に差し出す。
「古本屋で売ってるようなものじゃないんです。裏市の、奥の方の古物を扱ってる店に置いてあると思います。千円もしないゴミみたいなものですけど」
加藤はメモを受け取らなかった。陽一の顔を、じっと見ている。
「・・・なんでそんなもんが欲しいんだ」
「興味があるんです。古い手記とかが好きで」
嘘だった。だが、十三歳の少年が古い日記帳に興味を持つのは、それほど不自然ではない。少なくとも、怪しまれるほどではないはずだ。
加藤は腕を組んだ。しばらく黙って陽一を見つめていた。
面倒くさそうな—しかし、断る理由もないという空気。照川の息子の頼みだ。千円のゴミみたいな買い物だ。裏市に行くついでに探す手間が増えるだけで、大した負担にはならない。
「見つかるかどうかは知らねえぞ。そんなもん置いてるかもわからん」
「あると思います。もしなかったら、なかったらでいいですよ」
「あー、はいはい。面倒くせえガキだな」
加藤は布袋を肩に担ぎ直し、事務所に向かって歩き始めた。背中がかすかに丸まっている。安い防寒ジャケットの背中に、うっすらと汗の跡が見えた。
陽一はその背中を見送り、小さく息を吐いた。
これで、あとは待つだけだ。
一週間後。
加藤が照川商事に来た。
事務所の中で父と素材の精算をしている加藤を、陽一は倉庫の入口から見ていた。精算が終わり、加藤が事務所を出てくる。軽バンに向かう途中で、陽一の視線に気づいた。
加藤は一瞬立ち止まり、それからジャケットの内ポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは革張りの手帳三冊。
表面は使い込まれた茶色の革で、角がすり減っている。サイズも色も、陽一がメモに描いた通りのもの。
「ほらよ」
加藤は手帳を陽一に向かって放った。陽一は両手で受け止めた。手のひらに収まるサイズ。革の表面はざらざらしていて、古い紙とインクの匂いがした。
「あったんですね」
「あったっつーか、誰も見向きもしねえゴミ山の上に置いてあっただけだ。全部で三千円だ」
「ありがとうございます」
陽一は頭を下げ、財布を取り出して代金を渡した。加藤は代金を受け取ると「ったく」と呟いて軽バンに乗り込み、エンジンをかけて去っていった。
手帳を手にしたまま、陽一はしばらく動けなかった。
まだ、当たりかはわからない。だが、そのうちの一冊は信じられないほど重く感じた。
世界は不公平だが、その歪みの隙間にこそ、チャンスが転がっている。




