第四話2
その日の夕方、陽菜は学校から帰ってきた。
ランドセルを玄関に下ろし、リビングに入る。誰もいない。テーブルの上に母の字で「冷蔵庫にごはんあります」と書かれたメモが置いてあった。父も仕事で出ている。いつものことだ。
兄はどうだろう。今朝、制服を着て家を出る兄の後ろ姿を見た。数ヶ月ぶりの制服姿は、なんだか一回り小さくなったように見えた。肩が細くて、首が頼りなくて。あんなに痩せていただろうか。
リビングに兄の姿はなかった。二階の自室にいるのかと思い、階段の方に耳を澄ませたが、物音は聞こえない。
台所で麦茶を注いでいた時だった。
—ブン、ブン、ブン。
規則的な音が聞こえた。裏庭の方からだ。
陽菜はコップを置いた。この家の裏庭は狭い。物干し竿と、母が育てている小さな家庭菜園と、父がかつて使っていた物置があるだけだが、軽い運動ができるだけのスペースはある。
台所の小窓から裏庭が見える。陽菜はそっと窓に近づき、レースのカーテンの隙間から外を覗いた。
冬の夕暮れだった。日はもう傾いていて、空は紫と灰色が溶け合った薄暗い色をしている。西の空の端だけがかすかに橙色を残し、その最後の光が裏庭の砂利を斜めに照らしていた。植え込みの影が長く伸びて、物置の壁に黒い帯を作っている。
その薄明かりの中に、人影があった。
兄だった。上着は脱いでTシャツ一枚になっている。十二月の夕方にその格好は—陽菜は思わず眉をひそめた。吐く息が白く、肌は鳥肌が立っているはずだ。それなのに兄の首筋や腕には汗が浮いていて、Tシャツの背中が濡れて肌に貼りついていた。
兄の手には木刀が握られていた。
物置から持ち出したのだろう。父がかつて練習用に使っていた赤樫の木刀。使い込まれて色が飴色に変わり、握りの部分が手の脂で黒ずんでいる古い木刀。
—ブン。
木刀が振り下ろされた。陽菜は息を呑んだ。
それは、剣道の素振りではなかった。
陽菜は知っている。兄がかつて剣道部にいた頃の素振りを。面、小手、胴。正確な軌道を描く、美しい弧。「一、二、三」のかけ声とともに、礼に始まり礼に終わる、武道としての剣の振り方。陽菜自身は剣道をやったことがないが、兄が道場で練習する姿を何度も見に行ったことがある。あの頃の兄の素振りは、流れるようで、綺麗だった。
今、兄が振っているのは、まったく別のものだった。
低い構えから、斜めに切り上げる。そのまま体を回転させて横薙ぎ。返す刃で突き。足運びは剣道の摺り足ではない。地面を蹴り、大きく踏み込み、時に跳躍する。一つ一つの動作に無駄が多い。体がついていっていない。頭で思い描いている動きと、実際の体の動きが噛み合っていないのが、見ていてわかる。右足の着地がぶれる。体幹が流れる。振りかぶった木刀の軌道が途中で歪む。
陽菜の背筋を、冷たいものが走った。
剣道は競技だ。ルールがあり、有効打突の基準があり、審判がいる。兄が今やっているのは、そのどれとも違う。相手の首を狙う。膝を狙う。足を払い、倒れた相手に止めを刺す動き。型が美しいかどうかは関係ない。泥臭くても、不格好でも、相手を殺すための動き。
十三歳の兄が、冬の夕暮れの裏庭で、人を—いや、何かを斬るための動きを、ひたすらに繰り返している。
木刀が空を切る音は乾いていて、鋭い。剣道場で聞く竹刀の音とは全然違う。もっと重くて、もっと暴力的な音。一振りごとに、空気が裂ける音がする。兄の細い腕が、その重さに振り回されているのが見えた。
まだ十三歳の成長途中の細い腕だ。数ヶ月の不登校で筋肉が落ち、肋骨が浮くほど痩せた体だ。だがその腕は、限界を超えてもなお木刀を握り続けていた。肘から先が小刻みに震えている。手の皮が剥けているのか、木刀の握り部分にうっすらと赤いものが滲んでいた。
百回。二百回。
陽菜は数えるのをやめた。数えることに意味がないほど、兄は止まらなかった。
やがて—限界が来た。
がくん、と。糸が切れたように膝が折れ、兄が砂利の上に崩れ落ちた。木刀が手から離れ、からんと乾いた音を立てて転がった。兄は両手を地面について犬のように荒い呼吸を繰り返していた。白い息が、短く激しく噴き出す。肩が上下し、背中全体が波打っている。
陽菜は窓ガラスに指先を押し当てた。声をかけるべきか迷う。こんな無茶をして体を壊す。また熱を出す。母が泣く。お父さんが心配する。やめさせなきゃ。でも—
次の瞬間、兄が動いた。
両手で砂利を掴み、震える腕で体を持ち上げようとする。膝が笑っている。腕も震えている。一度、腕が折れてつんのめり、顎が地面にぶつかった。それでも兄は這うようにして体を起こし、立ち上がった。
木刀を拾い上げる。指が白くなるほど握りしめる。構え直す。
そして—また振り始めた。
ただ愚直に木刀を振り続けている。才能もない。魔力も使えない。技術も未熟。あるのは、根性だけ。
陽菜は唇を噛んだ。
異様だった。限界まで体を酷使し、崩れ落ち、荒い息をつきながら這うようにして立ち上がり、また限界まで追い込む。それは鍛錬というよりも、自傷行為に近く見えた。体を壊しているのと同義ではないか。
だが、兄の目を見た時、陽菜はその考えを打ち消した。
夕闘の中で、兄の顔は蒼白だった。唇の色が悪い。頬はこけていて、数ヶ月前の面影がほとんどない。だがその目は—。
数ヶ月前から、兄の目は死んでいた。学校に行かなくなり、部屋に閉じこもり、食事も満足にとらず、まるで世界から消えてしまいたいと願っているかのような、空虚な目。母が部屋の前で泣いた日もあった。陽菜が扉越しに「お兄ちゃん」と呼んでも、返事はなかった。あの目には何も映っていなかった。生きている人間の目ではなかった。
今、兄の目には光がある。
穏やかな光ではない。優しい光でもない。底の方で、ぎらぎらと燃えているような光。獰猛で、必死で、刃のような輝き。
陽菜は窓から離れた。
音を立てないように台所を出て、廊下を通り、自分の部屋に向かう。階段を一段一段、つま先で踏むようにして上がった。兄に気づかれたくなかった。あの訓練を邪魔したくない。なぜそう思うのか自分でもよくわからなかった。兄が無茶をしているのは明らかだし、止めるのが正しいことなのかもしれない。でも、あの目を見たら、あの光を消す側に回りたくなかった。
部屋に入り、ベッドに腰を下ろす。ランドセルから宿題を出そうとしたが、手が動かなかった。まぶたの裏に、夕暮れの中で木刀を振る兄の姿が焼き付いている。砂利に膝をつき、それでも立ち上がる兄の姿が。
ぼんやりと考える。
何かが変わった。
あの高熱の三日間で、兄の中の何かが決定的に変わった。部屋に閉じこもって天井を見つめていた兄はもういない。代わりに、裏庭で血を滲ませながら木刀を振る別人がいる。
—何をしようとしてるの、お兄ちゃん。
陽菜は布団に潜り込み、膝を抱えた。怖い。兄が壊れてしまうのではないかという恐怖。あんな無茶を続けたら体がもたない。でも同時に・・・。
—止めちゃいけない気がする。
あの目。死んでいない目。底で燃えている光。
陽菜は、その光を消したくないと思った。たとえそれが、どれほど危うく見えても。
階下から、まだかすかに木刀の音が聞こえていた。
規則的で、頑固で、愚直な音。




