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第四話1

 校門が見えた瞬間、足が止まった。

 数ヶ月ぶりの登校。

 鼻腔の奥まで凍てつくような乾燥した冷気が突き刺さる。陽一はコートのポケットに両手を突っ込みゆっくりと息を吐いた。白い塊が口元から生まれ、冬の日差しの中で一瞬だけ形を保ち、すぐに解けて消えた。

 怖いわけではない。

 ただ、この場所がひどく遠い世界に見えた。

 高熱にうなされた三日間で、陽一の中にはゲームの記憶が焼き付いていた。青年がモニターの前でコントローラーを握り、『煌華のフローレス』というRPGを何百時間もプレイしていた記憶。攻略サイトを読み漁り、wiki の考察スレッドに書き込み、レイドボスの討伐動画を繰り返し再生していた記憶。その膨大な知識の残滓が、現実の色合いを塗り替えてしまっていた。

 校門の向こうに広がる校庭も、昇降口に群がる制服姿の生徒たちも、まるで解像度の足りないテレビ画面を眺めているような、そんな隔たりがある。自分はこちら側にいて、世界はガラス一枚を隔てた向こう側にある。

 この世界の未来を知っている今、立ち止まっている暇はない。

 陽一は校門に一歩を踏み出した。靴底がアスファルトを踏む音がやけに大きく響いた。


 昇降口で靴を履き替える。数ヶ月放置されていたロッカーの中は思ったとおりの有様だった。消しゴムのカスが散らばっている。誰かが上履きの中に入れたのだろう、小さな紙屑がくしゃくしゃに丸められて詰まっていた。

 以前の陽一なら、胸の奥がきゅっと締め上げられるような痛みを感じただろう。視界がぼやけてトイレに駆け込んで一人で泣いたかもしれない。あるいは、その場で膝から崩れ落ちていたかもしれない。

 今は、ただ上履きから紙屑を振り落とし、足を通した。

 廊下を歩く。リノリウムの床が靴底に冷たい。蛍光灯の白い光が均一に廊下を照らし、その下をすれ違う生徒たちの視線が顔に張りつくように向けられた。

「—あれ、照川じゃね?」

「マジだ。来たんだ」

「もう学校来ないかと思ってた」

「あいつ全中のあとからずっと休んでたよな。やっぱメンタル弱——」

 ひそひそ話が背中に貼りつく。以前ならその一言一言が針のように肌に刺さった。聞こえないふりをしながら、心の中では必死に耐えていた。唇を噛み、拳を握り、廊下の端をうつむいて歩いていた。

 今は違う。

 声は聞こえている。意味も理解している。だが、それが胸に届かない。ゲームのNPCが決まったセリフを喋っているのを聞き流すような感覚。

 それは冷酷なことだろうか。同級生をNPCと同列に見なすのは。

 —たぶん、そうだ。

 だが今の陽一にとって、彼らの言葉よりも遥かに重いものが頭の中にある。この世界の未来。迫りくる災厄。そして、それに備えるための計画。その重さの前では中学生の陰口など羽毛ほどの質量もなかった。

 教室の引き戸に手をかける。

 がらり、と乾いた音。

 三十数名の視線が一斉に集まった。教室の中の空気が、一瞬だけ凍りついたように止まる。壁の時計の秒針の音が、不自然なほどはっきりと聞こえた。

 それから、まるで何事もなかったかのように喧騒が戻ってきた。冬休み前の話題、昨日のテレビ、誰かの恋バナ。陽一の存在は一瞬の空白を生んだだけで、すぐに日常の波に飲み込まれた。

 —それでいい。

「陽一・・・!」

 席について鞄を開けた瞬間、すぐ横に影が立った。

 金澤美月、俺の幼馴染。

 彼女は陽一の机の前に立ち、ほっとしたような顔でこちらを見下ろしていた。周囲の視線が集まる。

「体調、大丈夫? ずっと休んでたから、すごく心配してて—」

「ああ、もう平気。ありがとう」

 陽一は自然に、しかし明確に距離を置いた。椅子に座り直し、鞄から教科書を取り出す動作に移ることで、会話を終わらせる意思を示す。視線を合わせたのは一瞬だけだった。

 美月の表情が微かに曇った。

 以前の陽一との違いに、美月は戸惑っているのだろう。

 美月は何か言いかけた。口が動いて、しかし言葉にならず、結局「・・・うん、よかった」とだけ言って自分の席に戻っていった。窓際の前から二番目。背筋のまっすぐな後ろ姿が、数歩先の席に収まる。

 申し訳なさがないわけではない。

 ただ、美月に向ける感情の優先度が、決定的に変わってしまっていた。

 窓の外を見た。鈍い鉛色の空の下、遠くの山並みが冬枯れの色をしている。

 

 午前中の授業は淡々と過ぎた。

 一時限目の数学。教師がチョークで放物線を描く音を聞きながら、陽一はノートの隅にゲーム知識の断片を書き起こしていた。身体強化の理論。魔力循環の経路図。知識はある。だが体がない。一つずつ積み上げるしかない。

 二時限目の英語。教科書の音読を当てられた。立ち上がり、淡々と読む。以前なら人前で声を出すだけで喉が詰まった。今は何も感じない。読み終えて座った。

 三時限目の理科。人体の循環器系。心臓から動脈、毛細血管、静脈へと流れる血液の経路。資料集の図を見ながら、陽一は別のものを思い浮かべていた。魔力の循環経路。血管に似ているがまったく異なる体系。ゲームの記憶では「魔力脈」と呼ばれていた回路。心臓に相当する「核」から全身に魔力を巡らせる経路。自分の中にもそれはあるはずだ。覚醒者には程遠いが、一般人よりはある中途半端な魔力量。だが冒険者の親から受け継いだ力だ。

 ゼロではない。ゼロでないなら、使い道はある。

 昼休み。

 陽一は弁当を持って屋上に向かった。

 冬の屋上は誰もいない。フェンスに囲まれたコンクリートの平面に冷たい風が吹きすさんでいる。フェンス越しに見える街並みは灰色で、遠くにダンジョンの入口がある区画の上空だけがかすかに空気の色が違って見えた。魔力の濃度が高い地域特有の、わずかに青みがかった空気の揺らぎ。

 コンクリートの床は凍えるように冷たかった。尻にすぐ冷気が伝わってくる。陽一は鞄を敷いてその上に腰を下ろし、母が詰めてくれた弁当を開けた。

 卵焼き。きんぴらごぼう。小さな鮭の切り身。梅干し。ご飯は少し固めで、海苔が一枚乗っている。質素だが、一品一品が丁寧に作られていた。

 今朝、数ヶ月ぶりに家族と朝食を取った時の母の顔を思い出す。泣きそうなのを堪えて、何でもない顔で味噌汁をよそっていた母。かつてダンジョンで斥候として活躍していたとは思えないほどその背中は小さく見えた。

 箸を動かしながら陽一は頭の中で計画を反芻した。

 体を作る。術式を手に入れる。ダンジョンへの道を開く。三つの段階を一つずつ潰していく。

 弁当を食べ終え、蓋を閉じた。冬の風が頬を切る。指先が悴んで、箸を持つ手の感覚が薄い。

 陽一は空を見上げた。鈍い鉛色の雲が低く垂れ込めている。その向こうに太陽があるはずだが、光は雲の層に遮られ、ただぼんやりとした明るさだけが空全体に広がっていた。

 この空の下のどこかに、自分の人生を変える入口がある。

 —まず、体を作る。話はそれからだ。


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