10人の朝
「始計篇 兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからず」
ーー孫子ーー
戦いとは国家の大事だ。
死と生、存続と滅亡が決まる道、軽く見てはならない。
しかし、その道の最初の一歩は、常に朝の静寂の中にある。
10人が、朝霧の中に並んでいた。
学院の裏手にある演習場だった。
秋の終わりの朝だ、草に霜が降りていた。
吐く息が白かった。
フリッツが、10人の前に立っていた。
腕を組んでいた。何も言わなかった。
俺は列の端に立っていた。
右隣がミア姉様。左隣がエドだった。
残り7名は、四年生の顔ぶれだった。
名前は覚えている。
しかし、まだ、「人」として見えていない。
10人。
これが俺の「集」の出発点だ…
フリッツが口を開いた。
「今日から、私が諸君の修行を見ます。」
低い声だった。
演習場全体に、静かに届いた。
「まず、一つだけ言います。諸君は今、10人います。
しかし、今この瞬間、諸君は「10人」ではない」
誰かが、少し動いた。
フリッツが続けた。
「10人の「個」が、ただ並んでいるだけです。「集」とは、10人が1つの意志で動くことです。今日から諸君がやることは1つです。「個」を捨てることではなく、「個」を持ったまま、「集」になることです。」
「個」を持ったまま、「集」になる…。
言葉にすれば簡単だ…。
しかし…、どうやって…。
最初の課題は、単純だった…。
「10人で、この演習場を十周走ってください。但し、全員が同じ速度で、同じ歩幅で、同時にゴールすること。1人でも外れた者がいれば、やり直しです。」
簡単に聞こえた。
1周目が終わった頃には、隊列が崩れていた。
足の速い者が前に出た。
遅い者が後ろに下がった。
「合わせろ」と誰かが言った。
「お前が速すぎる」と誰かが返した。
やり直し3回目の2周目で、言い争いが始まった。
俺は黙って走った。
周囲を見ながら走った。
問題は速度ではない。
誰もが「自分の速度」で走ろうとしている。
「集の速度」を、誰も決めていない。
俺は列の中央に出た。
「全員、俺を見てください。俺の速度に合わせて下さい。」
誰かが舌打ちをした。
「八歳の王子の速度に合わせるのか?」という声が聞こえた。
エドが、その声の方を一瞬見た。
それだけで、声が止まった。
やり直しの7回目から隊列が、少しだけ揃い始めた。
10周目。
全員が同時にゴールした。
フリッツが、何も言わなかった。
ただ、 頷いた。
2時間かかった。
たった10周を…。
昼過ぎ、フリッツが次の課題を出した。
「今度は、全員で1つの的を、順番に打ってください。
的が止まる前に、次の者が打つ。
的が1度でも止まれば、やり直しです。」
弓の課題だった。
1人1人の腕は、問題なかった。
しかし、順番が来るたびに、間が生まれた。
次の者が構えるまでの、わずかな空白…。
的が止まった。
やり直した。
また止まった…。
やり直した。
9回目で、ようやく通った。
ミア姉様が俺の隣に来た。
「……殿下。気づいていますか?」
「何をですか?」
「9回目に通った理由を…」
俺は少し考えた。
「……皆が、次の者を見るようになっていた…?」
「はい。自分の番が終わった瞬間に、次の者の準備が終わっているかを、確認するようになっていました。」
自分の終わりが、次の者の始まりになる…。
それが、「集」の呼吸だ…。
夕暮れ、フリッツが全員を集めた…
「今日の修行は終わりです。1つだけ聞きます。今日、諸君は「10人」になりましたか?」
誰も答えなかった。
フリッツが、少し目を細めた。
「……正直な沈黙です。では、明日また来てください…。」
それだけだった…
「10人」になったか?
…なっていない。
しかし、今日の朝と、今では何かが、少し違う…
「衆心を得る者は興り、衆心を失う者は亡ぶ」
ーー韓非子ーー
多くの心を得た者は栄え、失った者は滅びる。
10人の心は、まだ一つではなかった。
しかし1つになろうとする意志が、今日初めて、芽生えた。




