旗の重さ
「其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如し、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
ーー孫子ーー
疾きこと風、静かなること林、侵すこと火、動かざること山。そして水は、全てを静かに満たす。旗を掲げる者の重さは、旗を持たされた者が知っている。
夜半を過ぎた頃、北の川が溢れた。
音が変わった。
遠くから、水が流れる音ではない、水が押し寄せる音がした。
地鳴りに似ていた。低く、持続的で、止まらない音だった。
別動隊が、堰を開いた。
これで、山の北側は完全に塞がれた。
フリッツが俺の腕に触れた。合図だった。
「行きます。」
夜明け前、俺とフリッツは山道に入った。
雨はまだ降っていた。
細くなっていたが、止んではいなかった。
松明は持たなかった。雨音が全ての足音を消していた。
天が、消してくれる。
フリッツの背中を追いながら、そう思った。
山道は泥になっていた。
歩くたびに足が沈む。しかしフリッツは速度を落とさなかった。
重心の置き方が違うのだと、後からわかった。
泥の上を、水が流れるように移動していた。
「暗」の段階を、体で見た。
廃村の手前で、水の音が聞こえてきた。
北側から流れ込んだ氾濫の水が、村の裾を回り込んでいた。
村の三方が、泥と水で覆われていた。
完全な孤島だ。
補給も、連絡も、逃走も全て断たれた。
そして向こうは、まだ知らない。
廃村まで、一刻ほどかかった。
村の手前で、フリッツが手を上げた。止まれの合図だった。
フリッツが身を低くした。俺も倣った。
草の陰から、廃村の入り口が見えた。
見張りが2名いた。
松明を持っていたが、雨で何度も消えかけていた。
2人とも、軒下に体を縮めていた。
外を見る余裕がなかった。
雨が、目を奪っている。
フリッツが指を2本立てた。それから右を指した。
俺は頷いた。
フリッツが動いた。
速かった。
雨音の中に完全に溶けた。
影が動いたと思った瞬間、右の見張りが、音もなく斃れた。
左の見張りが振り返る前にフリッツはすでに左にいた。
首に、静かに刃を当てた。
斃れた。
「殺」の剣は、音がしない。
雨が、残りの音も消した。
村の中は、水浸しだった。
地面に水が薄く張っていた。
北側から流れ込んだ氾濫水が、村の低い部分に溜まっていた。
廃屋の壁の下の方が、黒く濡れていた。
孤島の中が、さらに狭くなっている。
廃屋が三棟。そのうちの一棟に、明かりがあった。
フリッツが俺の耳元で囁いた。
「あの棟です。護衛が4名、内側にいます。対象は奥の部屋に…」
「フリッツ。護衛を片付ける前に、俺に少し待ってもらえますか?」
フリッツが目だけで問い返した。
「中の配置を、もう少し確かめたい。」
俺は廃屋の外壁に沿って、ゆっくりと移動した。
足元に水が跳ねた。雨音が消してくれた。
窓の割れ目から、中を見た。
囲炉裏を囲んで、男たちが座っていた。
4名。武装している。
しかし、疲れていた。
補給が細り、連絡が途絶え、そして夜半から水音が聞こえてくる。
何かがおかしいとは感じているはずだ。しかし、何がおかしいかがわからない。
その焦りと混乱が、目に出ていた。
奥の部屋への扉が見えた。
その扉の前にだけ、別の空気があった。
扉の向こうに、レオン・ファルクがいる。
俺は奥の窓へ回った。
小さな窓だった。外板が腐って、隙間ができていた。
その隙間から男が見えた。
23歳。
金髪ではなかった。
薄い茶色の髪。少し伸びていた。
座って、膝の上に何かを置いていた。
紙だった。何かを書いていた。
書いている。
村が水に囲まれているとも知らずに。
男が顔を上げた。窓の方を見た。
俺は動かなかった。息を止めた。
男の顔が、見えた。
オスカー兄上に、似ていた。
確かに似ていた。
しかし、目が、違った。
オスカー兄上の穏やかな目とは違う。
何かを抱えた、疲れた目だった。
それでも品があった。
ヴォルフ卿の手の者に鍛えられた「王子らしさ」か、あるいは、もともとそういう男だったのか。
男が、また紙に目を落とした。
レオン・ファルク。
お前は今、何を書いている。
フリッツのところへ戻った。
「内側の配置はわかりました。では…」
フリッツが無言で頷いた。
それからのことは、速かった。
フリッツが扉を蹴破った。
雨音が、その音を外に逃がした。
護衛の4名が立ち上がった。剣に手をかけた。
フリッツが踏み込んだ。
最初の1人、剣を抜く前に腕を取られた。
体が宙を舞い、床に叩きつけられた。動かなくなった…
2人目、剣を抜いた。フリッツはそれを素手で止めた。
刃を素手で挟んだのではない、剣を持つ腕の軌道を、わずかにずらした。
刃が空を切った。その隙に喉に刃が入った。
斃れた。
3人目と4人目が同時に動いた。
フリッツが、後ろに下がった。一歩だけ…
2人の軌道が交差した。互いの剣が、互いの進路を塞いだ。
その一瞬、フリッツが前に出た。左右、同時に…
2人とも斃れた。
全て、息をするほどの時間で終わった。
4人、全員が死んだ。
しかし、音一つ、しなかった。
雨が、全てを飲んだ。
奥の扉が開いた。
レオン・ファルクが立っていた。
手に剣を持っていた。
しかし、構えていなかった。
俺を見た。
「……子供か?」
俺は答えた。
「レオン・ファルク。王命により、身柄を拘束します。」
レオンが、少し目を細めた。
「……王命。王子の名を騙る俺を、処断しに来たのか?」
「そのつもりで来ました。但し、今は少し考えています。」
レオンが、俺をしばらく見た。
それから外の音に耳をやった。
雨音。そして、水音…
「……水が来ているな。」
「はい。」
「……包囲されていたのか。」
「はじめから…」
レオンが、小さく笑った。
乾いた笑いだった。
「……見事だ。気づかなかった。」
それから、剣を下ろした。
「……子供に殺されるより、話す方がいい」
レオンが、剣を下ろした。
水に囲まれた廃村で、最初の接触だった。




