水は低きに流れる
「兵の形は水に象る。水の行は高きを避けて下きに趨る」
ーー孫子ーー
軍の形は水に倣え。水は高い所を避けて低い所に流れる。
力でぶつからず、隙間に入り込み、気づかぬうちに満ちていく。そして、天が水を降らせる時、人の計略と天の意志は1つになる。
作戦開始の前夜、雨が降り始めた。
最初は細い雨だった。
しかし、夜が深まるにつれて、音が変わっていった。
屋根を叩く音。地面を叩く音。山道を流れる音。
天が、味方をしている。
フリッツが静かに言った。
「……好都合です…」
「はい。」
「雨は音を消します。足音、声、刃の音。また、見張りは雨の夜に外を向きません。松明も消えやすい。そして、雨が続けば、山道は泥になります。敵が動きたくても、動けなくなります。」
水計に、天の水が加わった。
これは、計算の外だった。
しかし、盤はこちらに傾いた。
俺は地図を広げた。
山間地帯の地形を、もう一度見た。
廃村のある山の北側に、川があった。
普段は穏やかな流れだが、雨が続けば増水する。
その川の上流に、小さな堰があった。
…使える。
「フリッツ。上流の堰を操作できますか?」
「……別動隊を出せば、可能です。何を考えておられるのですか?」
「川を氾濫させます。山の北側を、完全に水で塞ぐ…」
フリッツが、少し間を置いた。
「……補給路・連絡路・正面道路・山越えルートに加えて、北側の川も…」
「はい。六方向、全て塞ぎます。天の雨で音が消える間に、こちらの水も流す。孤立が完成した時、向こうはまだ気づいていない。」
フリッツが静かに頷いた。
「……別動隊三名を上流に回します。雨が強くなる夜半を狙って堰を操作させます。」
「お願いします。」
作戦開始から二日が経った。
補給路の封鎖から始めた。
ヴィクターが宿場に先回りし、「北の山道で土砂崩れがあった」という話を流した。
嘘ではなかった。雨で山道が緩んでいたところに、フリッツの部下が夜中に少し手を加えた。
村人が山道を避けるのに、半日もかからなかった…
次の日、伝令が止まり始めた。
王剣騎士団の元構成員3名が、山道の要所に「旅の行商人」として張り付いた。
雨宿りを勧める。荷物を手伝う。道を尋ねる。
反王権派の伝令が通りかかるたびに、時間を奪った。
雨の中での立ち話は長引く。断りにくい。
伝令は遅れ、情報の流れが鈍くなった。
派手なことは何もしていない。
しかし確実に、水が満ちていく。
そして天の水も、着実に地を満たしていた。
三日目の夜、エドが戻ってきた。
「党首殿。正面道路、封鎖完了しました。」
エドが報告した。雨に濡れていた。
「工事の看板を立て、石を積みました。雨で地盤が緩んでいる、という名目で通行止めにしました。地元の者も、この雨では文句を言いません。」
「村人の反応は?」
「驚いていましたが、この雨では、外に出たくないようです。むしろ好都合でした」
俺はエドを見た。
「エド。お前はここで待機だ…」
エドが少し表情を変えた。珍しいことだった…
「……中には、入れてもらえないのですか?」
「そうだ…、お前は俺の側近だ。俺が戻れなかった時に動ける者が、外に必要だ。」
エドが一瞬、何かを言いかけた。
それから、頷いた。
「……承知しました。」
エドの目が、少し鋭くなったのを見た。
納得していない。しかし従う。
それが、エドだ。
包囲の外縁が完成したのは、四日目の夕暮れだった。
補給路 封鎖済み。
連絡路 実質遮断。
正面道路 封鎖済み。
山越えルート フリッツの部下5名が先回りして待機中。
北側の川 別動隊が上流の堰を操作中。増水進行中。
孤島の完成まで、あと一手。
天が降らせた雨が、最後の壁になろうとしていた。
フリッツが静かに言った。
「殿下。夜半に堰を開きます。明け方までに北側の川が氾濫します。その後、夜明け前が、最も動きやすい時間です。」
「はい。」
「私が先行します。殿下は三歩後ろを…」
「わかりました。」
「一つ確認させてください。」
フリッツが俺を見た。
「……対象と接触した時、 殿下は、どうするおつもりですか?」
俺は少し考えた。
「まず、見ます。」
「見る、とは?」
「レオン・ファルクという人間を…処断する前に、直接見て、判断します。」
フリッツが、少しの間、俺を見ていた。
それから静かに言った。
「……わかりました。ただし…、時間は、多くはありません。」
「わかっています。」
雨が強くなっていた。
山の向こうで、知らない男が濡れた夜の中にいた。
レオン・ファルク。
お前はまだ、包囲されていることを知らない。
川が溢れる頃、俺が会いに行く。




