絵の中に生きる兄
「其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如し」
ーー孫子ーー
「人主は慾を見せてはならない。慾を見せれば、臣下に足元を見られる」
ーー韓非子ーー
速い時は風のように、静かな時は林のように。
しかし、王族の枠を外れた者が見せる顔は、時として最も自由で、最も本物だ。
オスカー兄上がいる街は、王都から馬で半日の場所にあった。
小さな街だった。
石畳の路地に、小さな店が並んでいた。
人の往来は穏やかで、誰も急いでいなかった。
フリッツに案内されて、俺はある家の前に立った。
白い壁の、ごく普通の家だった。
窓の縁に、絵の具の跡があった。
様々な色が、乾いて重なっていた。
フリッツがノックした。
しばらく待って、扉が開いた。
19歳の男が立っていた。
金髪。
背が高い。
宮廷にいるべき人間の顔ではなかった。
絵の具が手につき、頬にも少し…
目が穏やかだった。
王族の目ではなかった。
ただ、穏やかな、普通の人間の目だった。
「……フリッツか。それと……」
オスカー兄上が俺を見て、一瞬、止まった。
「……ルーク、か?」
「はい。ご無沙汰しています、オスカー兄上。」
兄上が、少し笑った。柔らかい笑い方だった。
アルベルト兄上の豪快な笑いとも、シオン兄上の無表情とも違う。
ただ、自然な、笑いだった。
「入れ。今、茶を出す。」
家の中は、絵だらけだった。
壁に、床に、棚の上に。
完成したものも、途中のものも、下書きだけのものも…
様々な絵が、この家の至るところにあった。
俺は、1枚1枚を、ゆっくりと見た。
風景が多かった。山、川、空、海。
人物画もあった。
街の人々、子供たち、老人…
どれも丁寧に描かれていた。
そして壁の中央に、一枚だけ、額に入った大きな絵があった。
俺は、その絵の前で足が止まった。
戦の絵ではなかった。
焼け落ちた建物でも、血の描写でも、炎でもなかった…
描かれていたのは、人々だった。
広場に、たくさんの人間が集まっていた。
笑っている者、泣いている者、抱き合っている者…
肩を叩き合っている者。
座り込んで空を見上げている者…
戦が終わった後の安堵の場面だった。
生き残った者たちが、互いに讃え合い、ただそこにいる。
派手な勝利の絵ではなかった。
英雄もいなかった。
旗もなかった。
ただ、人が、人のそばにいる。
その絵が、温かかった。
俺は、自分の目が熱くなっているのを感じた。
前世でも今世でも、こういうものに弱かった記憶はなかった。
でも、この絵は…
……学院封鎖戦が終わった夜のことを、思い出した。
……広場で、全員が生きていた。
……あの時の安堵とこの絵が、重なった。
俺はしばらく、その絵の前から動けなかった。
「……その絵、気に入ったか?」
兄上がお茶を持ってきた。
俺はすぐに返事ができなかった。
少し間を置き、答えた。
「……はい。」
声が、少し変だったかもしれない。
兄上が、俺の顔を見て少し目を細めた。
柔らかい笑顔で、何も言わなかった。
「あの絵は…いつ描いたのですか?」
「去年だ。…自分が消えた後に何が起きたか、フリッツから聞いた。直接は見ていない…。でも、描かずにいられなかったんだ。」
兄上は、自分の影武者が引き起こした反乱の後を、知っていた。
そして、焼き討ちの絵ではなく、その後の安堵の絵を描いた。
「……兄上は、なぜ戦を、描かなかったのですか?」
「描かなかった。いや、描けなかったと言う方が正しい。」
兄上が椅子に座った。俺も座った。
「俺が消えたことで、人が死んだ。俺の影武者が煽られて動いた…。」
「それは俺のせいだとも思っている。ただ俺が描けるのは、悲劇じゃない。その後に、人が生きていたということだ。」
……俺のせいだと思っている。
……しかし、悲劇を描かなかった。
……生きていた、という事実だけを描いた。
「……兄上は…、それで、本当にそれでいいのですか?」
「いい、とは言えない。…でも、これが俺の答えだ。」
兄上が、窓の外を見た。
街の光が、夕方の色に変わり始めていた。
「……父上から聞いたか。影武者の件も…」
「はい。全部。」
「怒るか。俺が逃げたことを?」
俺は少し考えた。
「怒りません。ただ、一つ聞いていいですか?」
「何だルーク?」
「兄上は、後悔していますか。王子を辞めたことを?」
兄上が、しばらく俺を見た。それから静かに言った。
「……王子を辞めたことは、後悔していない。でも、影武者を立てたことで誰かが傷ついたこと。それは一生、消えないだろう…」
兄上が続けた。
「俺は王族に向いていない。それはわかっていた。でも、向いていないことを、ずっとやり続けることが正しいとは思えなかった。父上が認めてくれた時、初めて自由になった気がした。」
「ただ、その自由は誰かの痛みの上に成り立っていた。それを俺は忘れないために、あの絵を描いたんだ。」
……忘れないために描いた。
……悲劇ではなく、安堵を。
……それがオスカー兄上の誠実さだ。
自由。
俺にはまだ、その感覚がわからない。
前世でも、今世でも、俺は常に何かを考え、何かを動かし、何かのために動いている…
それが窮屈だと思ったことは、なかった…
むしろ、好きだった。
しかし、兄上の言葉は、何かを俺の中に残した。
「……兄上は、絵を描いている時が一番、自分だと思えますか?」
「そうだな。お前は?」
「俺は盤を動かしている時が、一番自分だと思えます。」
兄上が笑った。
「それでいい。お前は向いていることを、やれ。ただ真っ直ぐに…。その先に誰かがいることを、忘れるな…」
……その先に誰かがいることを、忘れるな。
茶が冷める前に、俺は飲んだ。温かかった。
帰り際、兄上が小さな絵を一枚、俺に渡した。
壁の大きな絵と同じ場面だった。
ただ、こちらは小さくて、中央に一人だけ人物が描かれていた。
少年だった。
後ろ姿で、空を見上げていた。
「……これは…」
「フリッツから話は聞いていた。学院封鎖戦のことも。その夜、広場にいた少年は、こんな顔をしていたんじゃないかと思って描いた。」
「それはお前が持っていけ。」
俺はその絵を受け取った。
後ろ姿の少年が、空を見上げていた。
兄上には、見えていたのかもしれない。
俺が、あの夜、何を感じていたかを…
「……ありがとうございます、兄上。」
「また来い。茶くらいは出す。」
街を出る時、俺は一度だけ振り返った。
白い壁の家が、夕方の光の中に立っていた。
兄上は、自分の絵を見つけた。
俺の絵は、まだ、描いている途中だ…
その先に誰かがいることは、忘れない…




