水底の龍、激昂
「怒りを以て戦いを致すべからず」
ーー孫子ーー
「君子は怒りを以て国を興し、小人は怒りを以て身を亡ぼす」
ーー韓非子ーー
怒りに任せて戦ってはならない。
しかし制御を失った怒りは、主をも滅ぼす。
これは、後になって知ったことだ。
俺が学院の統合を終えた頃、シオン兄上の赴任先で、何かが起きていた…
正確な経緯は、後日ヴィクターを通じて断片的に入ってきた。
そしてその全貌を知った時、俺はしばらく何も言えなかった。
シオン兄上の赴任先は、王都の外れにある第1王子アルベルトの執務館だった。
アルベルト兄上の側近として従事し始めて、まだ10日と経っていない頃のことだ。
その日の午後、トーマスが、赴任先を訪ねてきた。
トーマス・フォン・ブラウン
シオン兄上の側近筆頭として、書類仕事の八割を処理してきた男だ。
眼鏡をかけた細身の20歳。
感情を表に出さず、淡々と仕事をこなす、シオン兄上に最も近い場所にいた人間だ。
トーマスは部屋に通され、深く一礼した。
シオン兄上は椅子に座ったまま、視線だけを向けた。
いつも通りの無表情。いつも通りの静かな目。
部屋の空気は……、穏やかだった。
「ご報告に参りました、シオン殿下。」
トーマスが背筋を伸ばした。
「ルーク新党首殿が、見事に学院の統治に動かれました。」
シオン兄上が、何も言わなかった。
トーマスが続けた。
「派閥争いに終止符が打たれました。玄狼衆、鉄環会、白鷺派、暁明社、無所属に至るまで、学院の全勢力が、ルーク党首殿の下に1つにまとまりました。」
シオン兄上は、まだ何も言わなかった。
トーマスが、少し表情を明るくした。
良い報告を届けられることへの、安堵があったのかもしれない。
「さらに、ルーク党首殿は、シオン殿下のご意図を汲み上げ、二大派閥ではなく一本化という形で見事に学院を統合されました。殿下の期待を超える成果かと存じます」
シオン兄上の指が 机の上で、わずかに動いた。
トーマスは気づかなかった。
「これもひとえに、 シオン殿下がルーク殿下を推薦し、直々に取り立てられたご手腕の賜物と、学院の者たちは大いに称えております。殿下のご慧眼、さすがと申し上げるほかございません。」
トーマスが、深く頭を下げた。
称賛の言葉だった。
悪意は、欠片もなかった。
ただ良い報告を、誠実に届けていた。
トーマスは、シオン兄上に仕えた男だ。
誰より近くにいた。
誰より信頼されていた。
その男が、顔を上げた瞬間。
部屋の中が……静かだった。
……その静けさが、少し長すぎた。
「誰が………」
トーマスが目を瞬いた。
「誰が統合しろと言った……」
声だった。
シオン兄上の声だった。
トーマスが今まで1度も聞いたことのない声だった。
低く、地の底から絞り出すような。
しかし同時に爆発寸前の何かを、かろうじて押さえているような。
トーマスが目を瞬いた。
「……シオン、殿下?」
「それでは……やつを学院に縛れないではないか!!」
シオン兄上が立ち上がった。
ーー瞬きの間に、剣が鞘から出ていた。
トーマスは、何が起きたのか、わからなかったと思う。
驚いた顔のまま、真っ二つになった…
眼鏡が、床に落ちた。
割れた。
シオン兄上の剣が、血で弧を描いていた。
トーマスは、最後まで表情を変えられなかった。
シオン兄上は、止まらなかった…
机が、宙を飛んだ。
ひっくり返った机が壁に激突し、書類が雪のように舞った。
椅子が握られた。
そのまま床に叩きつけられ、木が砕け散った。
砕けた破片が部屋中に飛んだ。
カーテンが、鷲掴みにされた。
布が断末魔のような音を立てて、レールごと引きちぎられた。
窓から光が差し込んだ。
部屋の外にいた部下たちが、異変に気づいた。
叩きつける音。
砕ける音。
そして、それ以前にあった、何かが割れる音…
部下の一人が扉を開けた。
部屋の中を見た瞬間、足が止まった。
床に広がる赤。
ひっくり返った家具の残骸。
舞い散る書類。
そして背中を向けたまま立っているシオン兄上。
部下が声を出す前に、隣にいたもう1人も部屋の中を覗き込んだ。
2人とも腰が抜けた…
その場に崩れ落ちた。
シオン兄上が振り返った。
温度のない目ではなかった。
何か全く別のものが、その目に宿っていた。
「邪魔だ!!」
剣が動いた。
二人が床に倒れた。
それからのことは、後の記録によればこうだった。
執務館の廊下に血の跡が続いた。
シオン兄上は部屋から出て、廊下を歩いた。
行く手にいた者は、逃げるか、逃げ遅れるかのどちらかだった。
最終的な被害は…
死者6名。重症者3名。
執務館の衛兵が総動員された。
1人、2人では足りなかった。
3人、4人と加わっても、簡単には止まらなかった。
最終的に5人がかりで取り押さえ、床に組み伏せた。
それでもシオン兄上は、しばらくの間、暴れ続けた。
落ち着くまでに、かなりの時間を要した。
事態が収まった後、執務館には箝口令が引かれた。
「この件について、外部に一切漏らすな」
それが第1王子アルベルト兄上の最初の言葉だったと聞く。
アルベルト兄上は事態を知った時、長い間黙っていたという。
それから静かに言った。
「……シオン。しばらく謹慎を言い渡す」
シオン兄上は、抵抗しなかった。
ただ、黙って頷いた。
その目は、またいつも通りの、「温度のない目に戻っていたという。
まるで何事もなかったかのように…
以上が、 後から俺が知った、あの日の話だ。
ヴィクターから断片的に聞いた内容を、後日エドが補足した。
エドは、珍しく、少し表情が硬かった。
「……ルーク。トーマスは── 死んだ」
わかっていた。
しかし、声に出して言われると、重かった…
トーマス・フォン・ブラウン
シオン兄上の側近筆頭
20歳
細身で眼鏡をかけた、頭の切れる男
あの冷静な男が 驚いた顔のまま逝った。
俺はしばらく、窓の外を見た。
トーマス
お前は最後まで、シオン兄上への報告を誠実にこなしていた。
それが命取りになった…
シオン兄上
あなたは俺を学院に縛るつもりだった…
二大派閥の片方をあなたの影響下に置いて…
俺は駒のままでいるはずだった。
しかし俺は一本化した。
党首になった。
あなたの盤の外へ出た。
……それが、あの結果だった。
俺はノートを開いた。
トーマス・フォン・ブラウン
死亡、享年20歳
シオン兄上
激昂、死者6名、重症者3名
謹慎処分
原因
俺が命令の先へ行ったこと。
学院の統合が、シオン兄上の盤を崩したこと。
俺がトーマスを死なせた……
直接手を下したのはシオン兄上だ。
しかし……引き金を引いたのは、俺だ
ペンを止めた。
部屋に、静寂があった。
シオン兄上。
あなたは、恐ろしい人だ。
制御している時も。
制御を失った時は、もっと恐ろしい。
俺はノートを閉じた。




