遠征軍帰還──そして、盤上の終わり(後)
「知彼知己、百戦殆うからず」
ーー孫子ーー
敵を知り己を知れば、百戦しても危うくない。
しかし最も難しいのは、己の隣に立つ者を知ることかもしれない。
事の報告が王城に届いたのは、3日後だった。
第5王子が、反王族軍の先発隊を無傷で制圧し、本隊を火計で壊滅的に打撃を与え、学院を守り抜いた。
遠征軍の帰還を待たず、相手の100分の1の勢力で。
王城の謁見室で、その報告を聞いた父王フリードリヒ三世は、しばらく何も言わなかった。
それから、窓の外を見た。
侍従は、その時の父王の表情を後に語った。
「陛下は、笑っておられました。あのような穏やかな笑顔を、私はそれまで見たことがありませんでした。」
父王が、静かに言ったという。
「……あの子は、大丈夫だな。」
それだけだった。
学院の正門前に、1週間後、馬が来た。
近衛兵団だった。
金色に輝く甲冑を身に纏った近衛兵たちが、整然と馬を進めてきた。
その数、約50名…
先頭に立つ近衛兵団長の隣に、1人の男が馬で並んでいた。
ハイルベルク侯爵
近衛最高位、ミア姉様の父上だった。
俺は正門に出た。
侯爵が馬から降りた。
50代だろうか。銀髪を短く整えた、静かな雰囲気の男だった。
しかしその立ち方が、フリッツに似ていた。
無駄がなく、静かで、全てを見ている…
「第5王子殿下。ハイルベルク侯爵、ミア・フォン・ハイルベルクの父にございます。陛下の御意を受け、学院の安全確認と、殿下へのご挨拶に参りました。」
侯爵が深く礼をした。
俺は頷いた。
「遠路、ありがとうございます。今回は、ミア姉様とフリッツに大変お世話になりました。侯爵のお力がなければ、学院を守り切れませんでした。」
侯爵が、少しだけ目元を緩めた。
「……ミア姉様、とおっしゃいましたね、殿下。」
「はい」
「娘が大変喜んでいると聞いております。感謝致します。」
ミア姉様が後ろで小さく言った。「お父様!」
侯爵が振り返って、娘に向かって静かに微笑んだ。
その笑顔の形が、フリッツとも、ミア姉様とも、少し似ていた。
近衛兵団が学院の周囲を固めた。
金色の甲冑が、夕日を受けて輝いていた。
その後ろに、シオン兄上が立っていた。
遠征から戻って1週間、シオン兄上は俺に何も言わなかった。
いつも通り書類を処理し、いつも通り報告を受け取り、いつも通り俺を見ていた。
温度のない目で…
しかし今、その目が、正門の外を見ていた。
金色の近衛兵団を。侯爵を。
そして、その更に遠く、北西の方角を…
アルフレート兄上が敗走した、その方角を…
シオン兄上が、静かに言った。
「……兄上は、失敗したか。」
それだけだった。
誰に向けた言葉かは、わからなかった。
俺に向けたのか。自分に向けたのか。
あるいは、北西の空に向けたのか…
金色の近衛兵団の甲冑が、風に揺れる旗の下で輝いていた。
学院の正門に、静かな夕暮れが降りていた。
俺は、シオン兄上の横顔を少しだけ見た。
この人の盤上に、何が見えているのか。
俺にはまだ、読めなかった。
しかし、いつか読む…
俺はノートを開いた。最後の一行を書いた。
学院封鎖戦
終結
盤上は、また次を求めている
ペンを置いた。
俺は、まだ七歳だ。
夕日が、学院の石畳を橙色に染めていた。




