山に火が上がる夜 火計
「火攻は外より発し、水攻は内より発す」
ーー孫子ーー
火による攻撃は外から仕掛け、水による攻撃は内から仕掛ける。火は、最も古く、最も確かな兵器だ。
先発隊が降伏した翌日の昼。
物見から報告が来た。
「反王族軍の本隊より、確認の物見が学院方面に送られました。学院の正門に反王族軍の旗が立っているのを確認し、帰還しています。」
俺は報告を聞いた。
旗は、先発隊降伏後の夜明け前に立てておいた。
反王族軍の旗を、先発隊の荷物の中から見つけたものだ。
学院の正門に、大きく掲げておいた。
物見はそれを見て、「学院は制圧済み」と判断したはずだ。
「本隊の動きは?」
「現在、学院の北西、五里ほどの山麓に野営の準備を始めている模様です。明日の朝には、学院へ向かうものと思われます。」
俺は頷いた。
ーー読み通りだ。
「学院は落ちた」と思っている軍は、焦らない。
急ぐ必要がないから、一晩野営して英気を養う。
そしてその野営地は、山の麓だ。
風が、北から吹いていた。
フリッツが来たのは、その夕方だった。
執事服のまま、音もなく集会室に現れた。
ミア姉様が呼んでいた。
「殿下から、ご用件を伺っております。」
フリッツが静かに礼をした。
俺は言った。
「本隊が野営している山麓に、村人を装った使者を送ってほしい。酒と肉の差し入れを持って…。村が反王族軍に心を寄せているように見せかけて、陣営に入り込む。そして深夜、野営地の周囲の枯れ草と林に火をつける。風向きを考えると、北西からの風が火を南東、つまり野営地の中心に向かって運ぶはずだ…」
フリッツが俺を見た。
穏やかな目だった。しかし、その目の奥で何かが動いた。
「……酒と肉の差し入れ、でございますか?」
「そうです。少量の睡眠薬を混ぜておいてください。致死性のものは使わない。ただし深く眠る程度のものを。火が上がった時に、逃げる反応が遅れる程度で十分です。」
フリッツが静かに頷いた。
「承知いたしました。差し入れ役の者は、侯爵様の者を数名使います。それに加え、学院の教職員の方々に扮装をお願いできますでしょうか。村人らしく見せるには、人数と顔つきの多様性が必要ですので…」
「教職員への話は私からします。但し、詳細は伝えません。村人に扮して差し入れを届けるだけ、と伝えます。」
「賢明なご判断かと存じます…」
ミア姉様が静かに言った。
「フリッツ、危険はありませんか、あなたの部下に…」
フリッツが、ミア姉様を見た。
その目が、少し和らいだ。
「お嬢様のご心配、ありがとうございます。ただ、このような仕事は、私どもにとって……通常のことでございます。」
ミア姉様が少し黙った。それから頷いた。
「……わかりました、気をつけて…」
その夜、俺は学院の物見台から北西の山を見ていた。
村人に扮したフリッツの部下たちと、学院の教職員六名が、夕方のうちに山麓の野営地へ向かった。
酒樽を三つ、肉の塊を荷車に積んで。
笑顔で、何も知らない村人として…
野営地から、歓声が上がるのが遠く聞こえた気がした。
反王族軍の兵たちが、差し入れを喜んでいる声だった。
そして深夜…
山の北西の方向から、橙色の光が上がった。
最初は小さかった…
しかし北からの風が、それを押した。
炎が、林の枯れ葉を伝って広がった。
速かった。乾いた秋の山は、よく燃えた…
橙色の光が、山全体を染め始めた。
俺の横で、トーマスが息を飲んだ。
「……殿下。」
炎が広がった。
野営地の中心に向かって、火の壁が動いた。
叫び声が遠く聞こえた。しかし、反応は遅かった。
睡眠薬の効果か、あるいは突然の事態への混乱か。
逃げる方向を間違えた者が、炎の中に飲み込まれていく気配があった。
ミア姉様が、物見台の端で俺の横に立っていた。
その顔は見なかった。見る必要がなかった。
「ルーク…」
ミア姉様が静かに言った。
「……これも、戦争ですか。」
俺は答えた。
「そうです。ミア姉様、」
ミア姉様は何も言わなかった。
ただ、俺の横に立ち続けた。
炎は1時間以上燃え続けた。
夜明け前、フリッツが戻ってきた。
着崩れは一切なかった。執事服のまま。
「報告いたします。野営地の兵の大半が、火に巻かれました。逃亡した者は推定で二割前後…。オスカー殿下ご本人は、野営地の中心部にはおられなかったようです。旗印の天幕が本隊の中心から離れた場所にあり、そちらからの逃亡と見られます。」
「逃げた方向は?」
「北西です。近隣の別の勢力圏に向かっていると推定されます。」
俺は頷いた。
「わかりました。フリッツ、お疲れ様でした。それから….ありがとうございました。」
フリッツが深く礼をした。
「勿体ないお言葉にございます…」
夜明けの空が、東の方から白くなり始めていた。
シオン兄上が戻るまで、あと1日。




