特殊斥候が持ち帰ったもの(後
「明主は群臣の言を聴くに、必ず其の形名を以て責む」
ーー韓非子ーー
賢明な君主は臣下の言葉を聞く時、必ずその言葉と事実が一致しているか確かめる。真実は、語られた言葉の裏にある。
フリッツが、不意に動いた。
音がしなかった。
気づいた時には、老人の体が扉の横の壁に張りついていた。
右手が壁の陰を掴んでいた。
次の瞬間、引きずり出すように男を引き抜いた。
床に人が倒れた。
集会室の壁の陰に潜んでいた男。
隠れていた男が、息をのんで床に叩きつけられていた。
俺とトーマスとミア姉様が、一瞬動けなかった。
フリッツは倒れた男を見下ろしていた。
その表情は、穏やかなままだった。
執事の顔のまま…
しかし目だけが、全く違った。
「……間者でございます。」
フリッツが静かに言った。
「いつからいたか、は存じません。ただ、ここ十分の会話は聞かれていた可能性がございます。」
男が身を起こそうとした。
フリッツの足が、音もなく男の背に乗った。
それだけで男は動けなくなった。
男の右手が動いた。
懐に向かう動きだった…
俺には、その意図がわかった。
「止めろ!!」
俺が声を上げたのと、フリッツが男の右手を掴んだのは、ほぼ同時だった。
男の手から、小さな刃が落ちた。
間者の自決用に使われる、短い刃だった。
フリッツが刃を踏んだ。男の手を固定した。
その動きの一連が、あまりにも静かで、あまりにも速かった。
男が床で力なくなった。
気を失ったのか、諦めたのか…
フリッツがゆっくりと立ち上がった。
着崩れ一つなかった。
執事服の襟を、静かに正した。
「申し訳ございません。室内の確認が不十分でございました。この者は、私が預からせていただきます。」
トーマスが、かすかに声を震わせながら言った。
「……その者を、どうされるおつもりですか?」
フリッツが、トーマスを見た。
その目が、一瞬だけ変わった。
「知らない方が、よろしい事もございます…」
穏やかな声だった。
執事の声だった。
しかしその言葉の奥に、何もない空白があった。
怒りでも、憎しみでも、脅しでもない。
ただの、事実として言われた言葉だった。
トーマスが、それ以上何も言えなかった。
俺も、何も言わなかった。
フリッツが間者の男を、まるで荷物を扱うように静かに抱えた。
それから深々と礼をした。
完璧な執事の礼だった。
「続報は改めて侯爵様よりお届けいたします。本日は以上にございます。失礼致します。」
扉が開いて、閉まった。
廊下に足音はなかった。
いなくなっていた…
集会室に、俺とトーマスとミア姉様の三人が残った。
しばらく、誰も何も言わなかった。
トーマスが、低く言った。
「……殿下。今のは、何者ですか…」
「執事だ。ミア姉様の父上の…」
「……執事。」
「そうだ…」
トーマスがしばらく黙った。
「……そうですか。」
それ以上、トーマスは聞かなかった。
聞かない方がいいと、判断したのだろう。
ミア姉様が静かに言った。
「……ルーク。」
「なんですか?」
「……フリッツ、怖かった?」
俺は少し考えた。
「怖い、とは少し違います。ただ……」
俺はノートを開いた。
「ミア姉様の父上の周りには、俺の知らないものが、まだたくさんありそうです。」
ミア姉様が、少し複雑な顔をした。
それから静かに言った。
「……父様は、ああいう人なの。私も全部は知らない。でも、ルークの味方であることは確かです。それは私が保証します。」
俺は頷いた。
「わかりました。信じます、ミア姉様。」
ミア姉様が、そっと目を伏せた。
「反王族軍の規模と、学院への動きは?」
俺はトーマスに言った。
「フリッツが来る前に届いていた報告書に、何か書いてあったか?」
「はい。封書の後半に記述がありました。王都郊外の廃村に拠点が確認されています。先発隊、およそ300人。これが最初に学院へ向かってくる部隊です。」
「しかしその後ろに、第一部隊と見られる本格的な軍勢が続いています。規模はおよそ1000。先発隊の三倍以上です。」
「更にその後方に本隊の存在が示唆されていますが、規模の確認が取れていません。但し第一部隊の数倍、という見立てが出ています…」
俺は黙って聞いた。
「到達の時間軸は?」
トーマスが続けた。
「先発隊が2日後の夜。第一部隊が4日後の夕刻。
本隊の到達はそれ以降と推定されますが、正確な時間はまだわかりません。」
「シオン兄上の遠征軍の帰還は?」
「最短で5日後。状況によっては6日後になる可能性があります。」
室内が、静まった。
─ 先発隊、2日後の夜。
─ 第一部隊、4日後の夕刻。
─ シオン兄上の帰還、5日から6日後。
つまり、シオン兄上が戻る前に、少なくとも先発隊と第一部隊の両方が来る。
俺は頭の中で計算した。
先発隊300は、奇襲か偵察の性格が強い。
第一部隊1000は、学院を本格的に封じにくる規模だ。
本隊はさらにその数倍。
相手は、本気だ…
ミア姉様がそっと言った。
「……つまり、今が一番危ないわけですね。」
「そうです。ミア姉様」
「シオン兄上への連絡を急いで下さい。」
「今すぐ送ります。」
トーマスが動いた。
俺はノートを開いた。
サレナ間者と確定 泳がせる。
反王族軍の編成
先発隊300、第一部隊1000、本隊は第一部隊の数倍と推定。
到達時間
先発隊、2日後夜。第一部隊、4日後夕刻。本隊はその後。
シオン兄上の帰還
5〜6日後。
つまり、2日以内に先発隊が来る。
黒幕
第2王子アルフレート。十九歳。
フリッツ
ハイルベルク侯爵の執事。
それ以上は、今は書かない…
ペンを置いた。
シオン兄上への連絡は、その夜のうちに送った。
返答は翌朝届いた。短い文だった。
「動くな。情報を集めろ。俺が戻るまで待て」
俺はその文を3度読んだ。
動くな。
それがシオン兄上の判断だ。
正しい。しかし、「学院を最初の標的にしている」という言葉は、まだ頭から離れなかった。
「トーマス。シオン兄上の指示に従います。但し、学院の警戒は上げてください。目立たない形で… 」
「北門と西門を重点的に見ておいてください。サレナの監視も継続です。気づかせないように…」
「承知しました。」
ミア姉様に向いた。
「続報の速度を上げてもらえますか?」
「父様に連絡します。毎日届けてもらえるように頼みます」
「頼みます。それから……」
「はい?」
「……ちゃんと寝てください。ミア姉様。」
ミア姉様が少し驚いた顔をした。
それから、静かに笑った。
「ルークこそ、ね。7歳が夜中まで起きていたらいけませんよ。」
「わかりました。」
「約束ですよ…」
「約束します。」
ミア姉様が部屋を出ていった。
なぜ、アルフレート兄上が…
その問いだけが、夜の中に残っていた。




