特殊斥候が持ち帰ったもの(前)
「明主の道は、能に任じて用ふ」
ーー韓非子ーー
賢明な君主の道は、能力に応じて仕事を与えることだ。
しかし真実は、時に備えを超えてくる。
ミア様が父上に連絡してから五日後の夜、使者が来た。
……ミア姉様。
俺がその呼び方を最初に口にしたのは、交渉の場だった。
あの時は条件として、渋々飲んだ。
しかし今、この5日の間で、俺はその呼び方の重さを少し考えていた。
ミア様は、俺のために動いている。
それは証拠もなく、理屈もなく、ただ確かだと思っていた感覚だった。
しかし、今や確かな事実として目の前にある。
侯爵家の情報網を動かし、父上を動かし、この局面を作り出した。
ならば…
俺はミア様と顔を合わせた時に、意を決して言った。
「……今日から、ちゃんとそう呼ぶ。ミア姉様。」
ミア様が、止まった。
…1秒、…2秒、…。
「……へえ?」
「条件として呼んだわけじゃなく、今日から俺が決めた。それだけだ。余計なことは言わないでいただきたい。」
ミア様が、ゆっくりと顔を上げた。
その目が、潤んでいた。
「……うん。わかった。ありがとう、ルーク!!」
声が、いつもより低かった。
笑顔だったが、それはいつもの明るい笑顔とは違う。
もっと深いところから出てくる、静かな笑顔だった。
俺は何も言わなかった。
ただ頷いて、集会室に向かった。
それから、俺はミア姉様と呼ぶことにした。
そしてミア姉様は、それ以降、俺に対してわずかに言葉遣いが変わった。
以前の砕けた話し方から、少しだけ丁寧な言葉に。
姉としての距離感、というものを、この令嬢なりに選んだのかもしれなかった。
使者は一人の老人だった。
年齢は70に近いか…白髪を整えて撫でつけ、黒い執事服を着こなしていた。
動きに無駄がない。
集会室の扉を開けて入ってくる、その一連の所作が──静かすぎた。
足音が、ない。
「ハイルベルク侯爵様より、使者として参りました。
フリッツと申します。以後、お見知りおきを
老人…フリッツが、深々と礼をした。
執事の礼だった。形が完璧だった。
俺とトーマスとミア姉様の3人が座っていた。
「ミア様、ご無沙汰しております。旦那様より宜しくとのことでございます。」
「フリッツ。父様は元気?」
「はい。お嬢様のご活躍を聞き、大変お喜びでございます。」
フリッツがミア姉様に向ける目は、穏やかだった。
長年仕えてきた者の、静かな親しみがあった。
しかし、俺はその老人の目の、別の部分を見ていた。
部屋の入口から出口まで、一度だけ視線が走った。
それだけで、室内の全てを把握した目だった。
老人、と思わせる何かが、そこには意図的に抑えられている気がした。
俺は何も言わなかった。
フリッツが机の上に封書を置いた。
「侯爵様からの報告にございます。学院北門周辺と商人街の不審者につきまして、7日間で洗い出してきた内容をまとめてございます。ご確認いただけますでしょうか…」
俺は封書を開いた。
最初の1行を読んだ。次の1行を読んだ。
3行目で、手が止まった…
…まさか。
「……トーマス。これを読んでくれ」
トーマスが封書を受け取った。読み始めた。
3行目で、トーマスも止まった…
「……殿下。これは…」
「最後まで読め…」
ミア姉様が俺を見た。
「ルーク、顔色が……」
「問題ありません。俺も読みます…」
俺は最後まで読んだ。
読み終えて、封書を閉じた。
フリッツが静かに言った。
「侯爵様は、これが事実であることを確認の上、お送りしております。三系統の別ルートから、同じ情報が得られております。誤りはないと存じます。」
「ミア姉様も読んでいただけますか?」
ミア姉様が封書を受け取った。読み始めた。
しばらくして、ミア姉様の手が止まった。
「……え?!」
ミア姉様が顔を上げた。
初めて見る表情だった。驚き、困惑、そしてかすかな恐れ。
「……これ、本当ですか?」
フリッツが静かに頷いた。「はい、お嬢様…」
報告書の内容は、以下のようなものだった。
北門周辺と商人街の不審者たちは、反王族軍の情報収集員だった。
そして彼らの動きを追った結果、もう一つの事実が判明した。
「サレナが接触していた相手、商人風の人間と、後に軍人体格の人間。この2名は、同じ組織の連絡員でございました。サレナは、反王族軍の学院内部における間者だったということにございます」
フリッツが淡々と続ける。
執事の口調で…
しかし内容は、剣の刃だった。
トーマスが静かに言った。
「……やはり」
俺はその言葉を頭の中で転がした。
感じていた引っかかり…
サレナが夜の西門で立っていた。
商人と接触し、書状を渡した。
接触相手が後に軍人体格の人物に変わった。
…全部が、繋がった。
「サレナは今どこにいますか?」
トーマスが答えた。
「昨夜の時点では寮にいます。まだ泳がせています」
「このまま泳がせます。動かさないでください。但し、今後の行動を全て記録しておいて下さい。サレナを通じて相手に誤情報を渡せる可能性があります。」
「承知いたしました。」
フリッツが静かに頷いた。
フリッツが続けた。
「それから、もう一点ございます。この反王族軍を金銭的に支援し、指揮系統の上位に位置する人物が確認されました。」
室内が静まった。
「……誰ですか」
ミア姉様が低い声で聞いた。
フリッツが静かに言った…
「第二王子アルフレート殿下にございます。」
「接触記録、書簡の形跡、および複数の証言から、ほぼ確実に断定されます」
俺は、その言葉を聞いた。
もう一度、頭の中で繰り返した。
第二王子。アルフレート兄上…
ミア姉様が静かに言った。
「……本当なんですか、フリッツ…」
「はい、お嬢様。侯爵様が直々に確認されました。」
「反王族軍を指揮しているのが……」
ミア姉様が言いかけて、止まった。
俺が代わりに言った。
「第二王子。」
「アルフレート・フォン・ヴァルトハウゼン兄上だ…」
室内が、完全に静まった。
その時だった。




