学院に残る者と、帰らない斥候たち(後)
「能は情に任せず、事は功に断ず」
ーー韓非子ーー
能力は感情に任せてはならない。物事は功績によって判断せよ。しかし、動かねばならない時がある。
30分後、俺とトーマスとミア様が集会室に集まった。
「状況を整理する」
俺はノートを開いた。
「現在の把握事項…学院北側の商人街で正体不明の行商人が増えていた。旧蒼穹会のサレナが外部の人間と接触し、書状を渡していた。接触相手は最初は商人風の人間、後に軍人の体格を持つ人間へと変わっていた。そして今夜、ミア様の使用人が北門そばで不審な人物を三日連続で確認した…これは全部、繋がっている可能性が高い…」
トーマスが静かに言った。
「サレナを、今確認しますか」
「まだ動かすな。サレナは泳がせる。但し、今夜の不審者とサレナの動きが連動しているかどうかを確認したい。エドに頼めるか、今夜だけ北門を見張ってもらえるか?」
「私がお願いしてきます。」
ミア様が立ち上がりかけた。
「待ってくれ。ミア様にも別の仕事を頼みたい」
ミア様が座り直した。
「状況をもう少し正確に知りたい。学院外部の斥候を使って、北門周辺と商人街の動きを洗い出したい。但し、俺たちが普段使う業者では心もとない。もっと信頼できる人間を当たる必要がある…」
トーマスが続けた。
「学院外の斥候業者を確認します。信頼できると判断されれば、十名を派遣する形で依頼できます。」
「頼む。明日の朝一番で動いてくれ!」
翌日、トーマスが学院外の斥候業者に依頼を出した。
10名。それぞれ別のルートで北門周辺と商人街の不審者を追う。
依頼内容は「正体不明の人物の追跡と身元確認」
同日の夜、エドから短い報告が来た。
「北門の男、今夜も来た。30分ほど立っていた後、学院の南側へ回った。俺も回ったが、見失った。足が速い。素人ではない…」
「素人ではない、か…」
俺は報告書をトーマスに渡した。
「斥候の第1回報告はいつ来る?」
「派遣から四日後を予定しています。各自が独自に動いているため、最初の報告は簡易なものになります。」
「わかった、待つ。」
四日が経った。
報告は来なかった。
五日目。
まだ来なかった。
六日目。
トーマスが斥候業者の事務所に確認に行った。
帰ってきたトーマスの顔を見て、俺は何かを察した。
「業者の事務所が、閉まっていました」
室内が静かになった。
「……閉まっていた、とは?」
「扉に錠が下りていました。隣の商人に聞いたところ、三日前から誰も出入りしていないと…業者の店主とも連絡が取れません。」
俺はその言葉を、頭の中に入れた。
10名の斥候。全員帰還しない…
業者ごと消えた。
これは、誰かが意図してやっていることだ…
しかもその誰かは、斥候を追跡し、業者まで潰せる力を持っている。
「最優先で動く。他の全業務は後回しだ…ミア様に来てもらえるか?」
「今すぐ呼びます…」
トーマスが出ていった。
俺はノートに書いた。
「サレナ。行商人。北門の男。消えた斥候。全部、同じ根から来ている。その根は…どこまで伸びているのか…」
ミア様が来た。今日も笑顔ではなかった。
扉を開けた瞬間、俺の顔を見て、すぐに察した。
「……何か、わかった?」
「斥候が全員消えた。業者も消えた。ミア様に、力を借りたいことがある…」
ミア様が椅子を引いて座った。
いつもの笑顔の令嬢ではなかった。
近衛最高位・ハイルベルク侯爵令嬢の顔だった。
「……お父様の情報網のこと、ですよね…」
「そうだ。頼めますか?」
ミア様がしばらく黙った。
それからトーマスを見た。
「トーマス様。人を使うのは、タダじゃないんです。たとえ相手が誰であっても、たとえ王家に仇なす者への対処であっても…情報は等価交換です。うちの家はそういう家です。父様が動くなら、条件があります…」
トーマスが少し固まった。
ミア様の言葉の質が、いつもと全く違った。
「……条件を聞かせてください。」
ミア様が指を二本立てた。
「一つ目。父様から出される要求を、のむこと…内容は父様が決めます。今ここでは言えません。但し父様からの指示が来たとき、それをこなすと今約束してほしい。そうすれば情報だけじゃなく、細部まで調べてきます。うちの特殊斥候は、学院の斥候業者とは比べ物にならないので…」
トーマスが俺を見た。俺はミア様を見た。
「二つ目は?」
ミア様が、一瞬だけ止まった。
それから、指を一本折って、俺だけを見た。
「……ルークに、私のことを『ミア姉様』と呼んでもらうこと。固定で…」
室内の空気が、止まった。
トーマスが固まった。俺も固まった…
ミア様は真顔だった。
しかしその目の奥の奥に、小さな炎があった。
あの日…、軍編成の集会で、俺が補給役のミア様に向けて言った一言…
「では頼みます。…ミア姉様。」
あの言葉が、この令嬢の頭の中で何をしたのか…
正確には読めなかった。
しかし相当なことが起きていたのは、この表情でわかった。
どうやらミア様の頭の中では、あの日から毎日のようにあの呼び方が再生されていたらしかった…。
幸福と満足と「ルーク推し」への炎が、静かに燃え続けていたらしかった…
そしてその炎が今夜、交渉という形で表に出てきた…
「……本気で言っているのですか…」
「本気です」
俺はトーマスを見た。トーマスが目を逸らした。
「条件一の要求の範囲を、何か示せないですか?」
「学院の平和と王国の安定に反しない範囲、とだけ。それ以上は父様次第です…」
「……二つ目の条件に…、選択肢はあるんですか…」
「ありません」
トーマスがそっと言った。
「殿下……」
「わかっている…」
14歳の令嬢が、静かにこちらを見ていた。
目は揺れていなかった。
「……のみます。両方…」
ミア様の顔が、一瞬だけ明るくなった。
しかしすぐに引き締めた。
「では、改めてお願いします。ルーク殿下。」
俺は深く息を吸った。
「……お願いします。ミア……姉様……。」
ミア様が、ふわっと崩れた。
「ーーーーっ、わかった!! 絶対動かせる!! 任せて!!」
満面の笑顔だった。さっきまでの冷静さが完全に消えた。
目が輝いていた。頬が赤かった。
トーマスが小声で俺に言った。
「……殿下、今のは何でしたか…」
「投資だ…」
「いや、あれは……」
「トーマス……」
「はい…」
「あまり考えるな…」
トーマスが静かに口を閉じた。
ミア様が部屋を出ていく間際、振り返って言った。
「ルーク、ありがとう! 父様には今夜連絡する! すぐ動いてもらえるから!それまでにできること、何でも言って!!」
扉が閉まった。廊下から、軽い足音が遠ざかった。
トーマスが静かに言った。
「……あの方は、普段から…ああなんですか…」
「普段はもう少し天然だ。今日は本気を出していた…」
「どちらが本物であられるのですか…」
「……両方だ。」
トーマスがしばらく黙った。
「……玄狼衆の三年生というのは、少々、個性的な方々が揃っているんですね…」
「慣れる。いや慣れてくれ…」




