学院に残る者と、帰らない斥候たち(前)
「知者は易きに慮り、愚者は難きに苦む」
ーー韓非子ーー
知恵ある者は事が容易なうちに備える。愚者は難しくなってから苦しむ。静かな日常の裏で、何かが動いている。
11月の第1週、シオン兄上に遠征の命令が降りた。
王国北東、国境付近での示威行動。正規軍との合同遠征。
シオン兄上の配下と、他派閥の上位生徒が参加する。
対象は四年生以上の実戦経験者が中心だった。
出発前夜、シオン兄上が俺を呼んだ。
部屋に入ると、いつものように書類を見ていた。
振り返らず、机の上の紙を指差した。
「三年生以下は残れ。学院の業務は止めるな。トーマスに従え」
それだけだった。
俺は頷いた。「承知しました。」
シオン兄上の視線が、一瞬だけこちらに向いた。
温度のない目が、俺を見た。
それから書類に戻った。
……俺は、残る。
遠征軍の出発を、学院の正門前で見送った。
四年生から十年生まで、シオン兄上の配下と他派閥の上位層。
総勢80名以上が、朝霧の中を北へ向かって動いた。
シオン兄上は先頭に立っていた。
一度も振り返らなかった。
列が見えなくなった後、俺の横にトーマスが立った。
「残留組は、殿下を含め12名です。三年生9名、私、それから側近2名を加えた体制になります」
「業務の優先順位は」
「現在抱えている依頼が三件あります。一件目は他派閥との調停案件。二件目は商人街の情報収集依頼。三件目は、鉄環会から来た相談事です。」
「順番に潰していく。今日から始めよう」
トーマスが頷いた。
「承知しました」
残留の日々は、静かだった。
派手な動きはない。遠征軍の留守を守り、学院内の業務をひとつずつこなす。
それだけの毎日だ。
しかしその中に、俺なりの仕事があった。
一件目の調停案件は、三日で決着した。
白鷺派と暁明社の間で起きた情報漏洩の疑義。
双方の言い分を聞き、記録を突き合わせ、漏洩がないことを証明した。
ラウルが両派の人間関係を辿り、俺が結論を出した。
二件目の情報収集依頼は、ヴィクターが動いた。
フォン・クラーゼンの情報網を使い、依頼主の求める情報を五日で揃えた。
三件目の鉄環会の相談は俺が直接、フォン・ハウザーと話した。
内容は、学院外の商人との取引トラブル。
俺はミア様の知識と、ラウルの財務省系の人脈を使って解決策を示した。
フォン・ハウザーが帰り際に言った。
「……第5王子は、本当に7歳か?」
「七歳だ。」
「嘘くさい…」
「よく言われる。」
三件目が終わったのは、遠征軍が出発して十二日目の夕方だった。
俺はその夜、ノートに書いた。
「依頼三件、完了。学院は静かだ。しかし、サレナの件が、まだ動いていない。目を離すな」
ペンを置いた瞬間、扉がノックされた。
「……ルーク、いる? 大事なことかもしれない」
ミア様の声だった。
いつもと違う。声のトーンが、低かった。
「入って下さい。」
扉が開いた。ミア様が入ってきた。
笑顔ではなかった。
「……使用人から報告が来た。学院の北門のそばで、今夜また見知らぬ男が立っていたって…昨日も一昨日も、同じ場所に同じ時間帯に立ってたって言ってた」
「顔は?」
「変えてる。帽子と外套で。でも体格は同じらしい…」
俺は少し考えた。
「トーマスを呼んでくれ。今夜、動く」




