雨の灯りと、盤上の見えない駒
その夜、雨が降っていた。
第七棟の一室で、シオン兄上は窓の前に立っていた。
雨粒が窓ガラスを伝って流れていた。
その向こうに、学院の灯りが点々と見えた。
その灯りの一つが、ルークの部屋のものだった。
シオン兄上は、その灯りをただ見ていた。
何も言わなかった。
動かなかった。
温度のない目が、雨の向こうのルークの部屋を見ていた。
その目の奥に、何があるのか…
怒りではない。
悲しみでもない。
誰かを待つ目でも、誰かを試す目でもなかった…
ただ…
見ていた。
他の何も見ず、ただその灯りだけを見ていた。
雨は降り続けた。灯りは消えなかった。
側近が一度、様子を見に来た。
扉を開けて、シオン兄上の背中を見た。
何も言わずに、静かに扉を閉めた。
シオン兄上が今夜ここに立っているのが何度目かを、側近は数えていなかった。
数える意味を、見つけられなかったから…
雨は、夜が明けても降り続けた。
シオン兄上は、夜が明けるまでその場を動かなかった。
その目に何があるのか。
答えを知る者は、この場にいない…
─────────
同じ夜、俺はノートを開いていた。
今回の整理。
北の討伐、四段の仕掛けで投降させた。
損害ゼロに近い。
蒼穹会の傘下入り、エルンストの不在を機に、37名を取り込んだ。
66,000枚の納金、完済した。
数字の上では、全て達成した。
しかし、ペンが止まった。
エルンストの落馬が、まだ引っかかっていた。
タイミング、場所、目撃者のなさ、管理人の不在…
全部が、都合良すぎた。
誰かが動いていた…
俺の知らないところで…
誰だ…
ミア様の情報収集能力は、俺の想定を超えている。
エドの目の奥には、まだ読めていないものがある。
シオン兄上が何を見ているのか、俺にはわからない…
この盤上には、俺の知らない動きがある…
それは俺を助ける動きか。
それとも俺を使う動きか。
あるいは、その両方か…
俺はノートの次のページに一行書いた。
「盤上には、俺の知らない駒がある」
書いた後、しばらくその一行を見た。
証拠はない。
問う理由も今はない。
しかし、覚えておく。
いつか必ず確かめる。
雨の音が窓を叩いていた。
今夜、この学院のどこかで誰かが起きていて、何かを考えているかもしれない。
あるいは俺の知らない場所で、俺に関係する何かが静かに動いているかもしれない。
それが今の、この盤上の状態だ。
廊下で足音がした。
軽い足音だった。俺には、誰かすぐわかった。
今日は、ちゃんとノックだった。
「ルーク、起きてる? お菓子もらったんだけど、一緒に食べない?」
俺は少し考えた。
「……入って」
扉が開いた。ミア様が、焼き菓子の包みを両手で抱えて立っていた。
満面の笑顔だった。
「やった!! ルーク、今日もお仕事お疲れ様! えらかったね〜!!」
俺は何も言わなかった。
ただノートを閉じて、椅子を一つ引いた。
ミア様が入ってきて、向かいに座った。
包みを開けて、俺の前に菓子を並べ始めた。
笑顔だった。いつもの笑顔だった。
「ルーク、どれが好き? これ甘いよ、これはちょっと苦い、こっちはナッツが入ってる」
「……どれでも」
「じゃあこれ! 一番おいしいから!」
ミア様が菓子を俺の前に置いた。
嬉しそうだった。本当に、ただ嬉しそうだった。
俺はその菓子を口に入れながら、その笑顔の奥にある目を少しだけ見た。
読めていない。
まだ、読めていない…
しかしこの令嬢が、俺のために動いているということだけは…
なぜか、確かだと思っていた。
理由は、わからない。
証拠も、ない。
ただ、確かだと思った。
「ルーク、おいしい?」
「……おいしい」
ミア様がぱっと輝いた。「よかった!!」
雨の音が、窓の外に続いていた。
盤上は、まだ動いている。
俺はまだ、盤の全体が見えていない。
しかし今夜は、それでいい。




