兵法の極意
暗闇が…、変わった。
温度が変わり、空気が変わった。韓非子がいた時の、穏やかな重さではない。もっと…鋭い。研ぎ澄まされた何かが、この空気の中にある…
俺が辺りを見回す。
1人の男がいた。
年齢がわからない。若くもなく、老いてもいない。ただ…、静かだった。微動だにしない。ただそこに立っているだけで、空気が変わる。その目が、俺を見ていた。
感情がない目だった。怒りも喜びも悲しみも…何もない。ただ、見ている。値踏みするでもなく、試すでもなく、ただ…正確に、見ている。
「孫武である…」と男が言う。
俺の胸が、飛び跳ねた。
「斉の国に生まれ、呉の王・闔閭に仕えた。兵法書を著し、戦場で使い、試した。それが私だ…」
淡々としていた。自慢でもなく、謙遜でもない。ただ、事実を述べる口調だった。
「……孫武殿」
「知っているか?」
「知っています!」と俺が言う。「知っている、というより、前の俺にとっては、バイブルでした!」
孫武が「バイブル?」と繰り返す。
「俺には、前世の記憶があります」と俺が言う。「別の世界で生きていた記憶が…。その世界では、孫武殿の孫子は戦いだけではなく、未来では経営、組織づくり、運営、交渉、あらゆる場面で使われていました。ビジネス、と呼ばれる商いの世界でも。政治の世界でも…人を率いるあらゆる場面で使われています…」
孫武が黙る。その目が初めて、わずかに変わった。
「前世、か…」と孫武が言う。「珍しいな、いや不思議であるな…」
「はい。だから、憧れていました。孫武殿に…いつか会えたらと思っていました」
「憧れ、とは?」
「俺の前世での師匠のような存在でした!」と俺が言う。「あなたに会ったことはないですが、その残していただいた言葉や文献で、多くを学ばせていただいた」
孫武が少し黙る。
「今回の戦い、北伐でも様々なとこで引用させていただきました」
「引用自体は構わない…」と孫武が言う。
「では、考えてみてくれ。どの世界でも同じことが言える。言葉というものは、実際に使って初めて意味を持つ。読んだだけでは、それはただの知識である。知識と智慧は、全く別のものだ…」
「……おっしゃる通りです」
「北伐で使えたか?」
「使えた、俺は思っています」
「『思っている』、では足りないな…」と孫武が言う。冷たくない。ただ、正確であった。「軍事においては、曖昧さは命取りになる。使えたか、使えなかったか。結果を正確に把握することが、次の改善に繋がるからだ…」
「……使えました」と俺が言う。
「何を使った…」
「敵の横っ腹を突く陣形です。伸びた敵軍を分断しました…」
「それだけか?」
「連弩を谷の上に配置して、追撃部隊を殲滅しました…」
「それは兵器の運用だ…」と孫武が言う。「それは兵法ではない。順を追って説明しよう…」
俺が「是非、お願いします」と言う。
「兵法とは、戦わずして勝つことだ。これが最も高い次元の戦い方だ。なぜそうなのか、考えてみてくれ。戦えば必ず消耗する。兵が死に、物資が尽き、民が疲弊する。どれほど勝っても、代償が伴う。しかし戦わずして相手を屈服させれば、消耗がない。これが兵法の本質だ。」
「お前は戦ったか?」
「戦いました…」
「ならばまだ、兵法の入り口にも立っていない。しかし、それでいい…」と孫武が言う。「まず戦い方を学び、次に戦わずに済む方法を学ぶ。その順番は間違っていない…」
俺が黙る…
孫武が「まぁ歩け…」と言う。
俺が歩き始める。孫武が隣に並ぶ。韓非子のように前を歩かない。隣だった。
「戦わずして勝つ、とはどういうことですか」
「敵が動く前に…、 動けなくしてしまうことだ」と孫武が言う。
「今回、もう少し準備がしっかり出来ていて、連弩を倍以上持っていたら…、その威力を見せつけて脅しに使えたら…、戦わず、お前の仲間も傷付かなかった…」と…
「9国会議を開くつもりか? まぁどこの国も飛び抜けておらず、力不足であるからな…」
「はい…、どこも抜けておりませんし、それぞれが抜けておりません。」
「それだ」と孫武が言う。
「会議が、兵法ですか?」
「戦わずして3年間の休戦を取り付ける。敵国が動く前に…、動けない状況を作る。これを兵法と言わずして何と言う」
俺が「……なるほど」と言う。
「しかし…」と孫武が言う。
「しかし?」と俺が繰り返す。
「お前はその会議で負けるかもしれないぞ…」
俺が止まる…
「なぜですか?」
「お前は11歳だ」と孫武が言う。「会議の場には、30年生きてきた者がいる。言葉で人を動かしてきた者がいる。財力で場を支配してきた者がいる。お前は何を持っていく?」
「正しさを持っていきます?」
「ダメだな…、正しさは武器には、ならない」と孫武が言う。即座に。「戦場に正しさを持っていく者は死ぬ。会議に正しさだけを持っていく者も負けるだろうな、戦争なのならば…」
「では、何を持っていけばいいですか?」
「情報だ…」と孫武が言う。「なぜ情報が必要なのか、理由がある…。人は恐れているものを守ろうとし、欲しがっているものを求めて動く。その動きを事前に知っていれば…、相手が動く前に対処できる。9国それぞれが何を恐れ、何を欲しがっているか。それを把握した上で会議に臨め。それが謀を伐つということだ…」
「一つ、聞いていいですか?」と俺が言う。
「何であるか?」
「俺の前世での仕事は、コンサルタントでした。経営や組織づくりを支援する仕事です。そこで培ったことを、この世界でも武器にしたいと思っています」
孫武が少し黙る。
「経営の世界での話を、軍や国に応用しようとしているのか?」
「はい…」
「一つ、根本的に考え方を改めてもらう必要がある」と孫武が言う。
「経営の世界は、陣地取りだ。しかし軍や国は…、殺し合いだ。その違いを、まず理解しなければならない…」
「どう違いますか?」
「経営の世界では、負けた相手は、敵も含めて使える」と孫武が言う。
「競合他社の優秀な人材を引き抜くことも、買収して傘下に収めることもできる。しかし戦や戦争、戦いでは人が死ぬ…。死んだ者は二度と戻らない。そこが根本的に違うのだ…」
俺が「……そうですね」と言う。
「三国志の世界を知っているか?」と孫武が言う。
「知っています…」
「関羽という将を知っているか。武勇にも優れ、知性も持ち合わせた者だ。あれほどの将は、なかなか出ない。しかし死んだ。死ねば代替えが効かない。代替えの効かないものを失えば、将は理性を失いがちになる…」
「劉備がそうでした…」と俺が言う。
「そうだ」と孫武が言う…
「関羽を失った劉備は、理性を失い呉に攻め込んだ。結果、夷陵の戦いで大敗した。一人の将を失ったことが、国の命運を大きく傾けた。これが戦争と経営の違いだ。経営では感情で動いても修正が効く。しかし戦争では、感情で動いた瞬間に多くの死が待っている…」
俺が「……肝に銘じます」と言う。
「もう一つある…」と孫武が言う。
「何ですか?」
「勝ち過ぎは慢心を呼ぶ、お前は気をつけても仲間に…」と孫武が言う。
「北伐で黎明義軍は勝った。しかし、勝ち続けた組織は、負けた時に脆い。黎明義軍が負けを知った時、仲間を失った時、脆くなるのか、脆くならないのか。それはまだわからないがな…」
「……俺にも、わかりません」
「わからなくていいが、わからなくて済むなら良いが…」と孫武が言う。「しかし考えておけ…、お前の周りで受け入れられない者もいるだろう…。そしてもう一つ、世代交代の時が最も危うい…、それはどの様な形で迎えるからわからないがな…」
「世代交代…」
「組織は必ず世代が変わる」と孫武が言う。「その際に、組織力の脆さと危うさが最も出る。創業者が去り、次の世代が引き継ぐ時。その移行期をどう乗り越えるかが、組織の真の強さを測る試金石になる。黎明義軍もいずれ、その時が来る。国も同じだ。お前の父もいずれ死ぬ…今から考えておくべきだ」
俺が「……はい」と言う。
「彼れを知り己れを知れば、百戦して殆うからず」と孫武が言う。「お前は己を知っているか?」
「……まだ、完全には」
「正直であるな…」と孫武が言う。
少しほんの少し、目が変わった。「完全に己を知っている者は、いない…。しかし知ろうとする者と、知ろうとしない者では、戦場で全く違う結果になるぞ…」
「俺は何を知るべきですか?」
「お前の強みだな…」と孫武が言う。「お前は何が強い?」
「頭が動きます…」
「それだけか?」
「人を動かせます…」
孫武が少し黙る。その目が── 何かを考えている。
「一つ、聞かせてくれ…」と孫武が言う。
「お前はそれを利益で動かしたか? それとも別の何かで動かしたか?」
「……別の何かです。金や地位ではなかったと思います」
「そこに、一つのことわりがある」と孫武が言う。「人は利では動くが、義では死ねる。利益で動かせる者は状況が変われば裏切る。しかし義のために動く者は、死ぬ瞬間まで裏切らない。お前の軍は義で動いていた…」
俺が「……そうかもしれません」と言う。
「もう一つある」と孫武が言う。「水は低きに流れ、人は徳に集まる。力で押さえた者には従うが、徳のある者には自ら集まる。お前が名前を覚え、約束を守ったことは、徳だ…。徳があるから集まった。会議の場でも同じだ。財力でも軍力でもなく、徳が場を動かす」
「しかし徳だけでは足りない、そんな場面もあるはずです…」
「その通りだな…」と孫武が言う。「だから次の理がある。将の一念が千の命を動かす。上に立つ者の覚悟が、組織を動かす本質だ。お前がどれだけ覚悟を持って会議に臨むか。その一念が、場の空気を変える…」
俺が「…覚悟を見せろということですか?」と言う。
「見せるのではない」と孫武が言う。「持つのだ。見せようとした瞬間に。人は見透かす…本物の覚悟は、黙っていても伝わるものだ…」
孫武が、また続ける。
「そして最後の理だ…」
「はい…」
「勝ちを求める者は勝てる。しかし正しさを求める者は、長く勝てる…」と孫武が言う。
「短期の勝利と長期の勝利は違う。会議で一時的に有利な条件を取っても、相手に不義を感じさせれば、いずれ崩れる。正しさを軸に動け。それが長く続く国を作る唯一の道だ」
「……これが、極意になりうるものですか?」と俺が言う。
孫武が「そうかもしれない…」と言う。珍しく、断定しなかった。「私にも断言はできない。しかし、この4つの理を軸に動く者は、長く滅びない。それだけは言える…」
俺が「……ありがとうございます」と言う。
「礼はいらない」と孫武が言う。「使え。使って初めて意味を持つ。それだけだ…」
「兵法で、一つだけ教えてください…」と俺が言う。「会議で使えるものを…」
孫武が少し黙る。
「上兵は謀を伐つ」と孫武が言う。「これは孫子の中で最も重要な概念の一つだ。最上の戦いは、敵の謀略そのものを打つことだ。なぜか。謀を打てば、戦う前に勝負がつく。敵が動こうとした瞬間に、すでに詰んでいる状態を作れる。そのためには、敵が何を企てているかを事前に知る必要がある…」
「どうすれば謀を読めますか?」
「段階がある」と孫武が言う。「まず敵の目的を知れ。次に目的のために使える手段を考えろ。そしてその手段の中で、最も可能性が高いものを読め。全てが情報から始まる。会議に行く前に、9国それぞれの弱点と目的を知れ。それが分かれば、相手の謀は自ずと見えてくる…」
「エリカとヴィクターに動かします…すぐに!」
「早急に動かせ」と孫武が言う。「早さこそ、決断の速さそれがお前の兵法だ…」
孫武が、俺の前に立った。
その目がまた、ただ正確に俺を見ていた。
「最後に一つ聞く」と孫武が言う。
「はい」
「お前は、勝ちたいか?」
俺が「……はい」と言う。
「何のために…」
俺が少し考える。
「民を守るために。この国を守るために…」
「それだけか?」
「俺が何者かになるために…」と俺が言う。
孫武が初めて、わずかに口角を上げた。
「それでいい」と言う。「勝つ理由がある者は、負けにくい。覚えておけ…」
孫武の姿が遠くなる。
「では。目を覚ませ」と声が聞こえる。
遠くから…「準備と会議が待っている」
暗闇が、薄くなる…
光が差してくる…
俺は、目を覚ました。




