表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『ブレイク・ネクサス』改訂版  作者: 嵗(sai)
エピローグ:ネクサス・ネクスト

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/36

虚構の定礎

Ⅰ. 沈黙の聖域:外務局の深層


場所:外務局・局長執筆室。


時刻:深夜、あるいは黎明の境界。


そこは、日本の政治中枢たる永田町の喧騒に極めて近い場所にありながら、公式の地図上にも、省庁の職員名簿上にも、実質的な機能や存在が一切記載されていない、完全なる情報の空白地帯――「存在しない部屋」だった。


重厚なマホガニーのデスクを隔て、外務局外事3課の指揮官・千姫は、衣服の寸分の乱れもない不動の直立姿勢で佇んでいた。その鋭い双眸が冷徹に捉えているのは、数多の歴史の不都合な闇を冷酷に葬り去ってきた、老いた局長がゆっくりと万年筆を置き、一通の赤い帯が巻かれた国家最高機密報告書に目を落とす、静謐にして重苦しい姿だった。


部屋を支配するのは、壁に掛けられたアンティークの振り子時計が重々しく刻む一定のリズムと、微かに漂う高級なアロマキャンドルの甘く退廃的な香り。だが、その静かな表層の背後には、この国の命運そのものを冷酷にコントロールする「検閲」という名の、底冷えする国家意志が渦巻いている。


「……防衛省科学研究所附属病院。公式の政府記録では、昨日午前二時四十五分、地下配管の老朽化によるメタンガスの異常充満、およびそれに伴う小規模な爆発火災事故が発生。現場周辺は二次災害防止のため即座に全面封鎖。幸いにして死傷者は一名もなし。研究データの一部が物理的に損壊し消失したものの、分散型バックアップにより九割方がすでに完全復旧済み。……これで、無知なる世間に対する『真実』の定礎に相違ないか、千姫」


局長の声は、幾星霜もの巨大な嘘と隠蔽を重ねてきた者が持つ、枯れ葉が激しく擦れ合うような、カラカラに乾燥した独特の響きを持っていた。


「はい。現場の物理的・電子的・精神的な完全洗浄クリーニングは、我が外事3課の特殊工作班によりすべて完了しています。防衛省上層部、および内閣情報調査局(内調)との秘密裏の口裏合わせも、局長の御手配通りに滞りなく。内調の秋吉博子分析官については、引き続きSランクの最重要監視対象としますが、彼女自身が本件における『加害者』としての側面をあまりにも強く持つ以上、自己保身のために外部へ口を割るリスクは極めて低いと判断します」


千姫の報告は、まるで超高性能な精密機械が冷徹にログを出力していくかのように事務的で、一切の情緒や感傷を排除していた。彼女の中に宿る「男」としての強靭な精神は、己が成し遂げた超法規的な武功を誇ることよりも、完璧な隠蔽という名の規律が寸分の狂いもなく完遂されたことへの調和を重んじていた。


Ⅱ. 崩壊する巨塔:ノアの解体と新しき戸籍


「ノア・メディカル、およびその資金源であるプロメテウス財団。かつてはアンタッチャブルな聖域と呼ばれた彼らも、現在アメリカ連邦当局による、容赦のない炽烈な強制捜査を受けているそうだな」


「はい。局長からCIAのライン経由でワシントンの司法省に流された、精緻極まる『匿名』の内部告発情報が、彼らにとって致命的な決定打となったようです。ノア・メディカルは数日中に全資産を凍結された上、組織の完全解体へと追い込まれるでしょう。プロメテウス財団のアメリカ支部も、主要ポストの過半数がすでに身柄を拘束され、実質的な壊滅状態にある、との現地報告を受けています」


局長は、満足げに、あるいは世界の動きがあまりにも想定通りであることに酷く退屈そうに、鼻の奥で小さくフンと鳴らした。


「ならば、問題の最大級の『不確定要素イレギュラー』……あの神の座を自ら蹴り飛ばした、不敵な少年の亡霊はどうなった」


「リクト被験体は、西野シホという名の民間記者と共に、現在、都内某所に我が課が用意した外部から完全に遮断されたセーフハウスに潜伏中です。本日午前零時付で、政府の戸籍管理システムの基幹サーバーに直接介入し、精巧な偽造戸籍を挿入しました。“西野シホの両親が死別した、地方に住む遠縁のいとこ”。……それこそが、彼が今後この不自由な三次元世界で生きていくための、新しく静かな殻となります。彼に組み込まれたニューロ・コンピューティング・ユニット(NCU)の最大演算能力『陸(6)× 拾弐(12) ≒ ∞(インフィニティ)』は、現在、完全な休眠状態、あるいは指向性を完全に失った無害なホワイトノイズへと移行したと推測されます」


Ⅲ. 禁断の数式:六根と十二因果


「完全な休眠、か……」


局長は、分厚い眼鏡をゆっくりと外して、深く刻まれた眉間の皺を細い指先で強く揉んだ。その眼鏡の奥にある眼光は、単なる一介の官僚の域を遥かに超越しており、奈落の深淵を覗き込んでいる神学者か哲学者のそれと同じ深い光を湛えていた。


「その数式が、何かの拍子に再び目覚めるようなことがあれば、我々人類が数千年の果てしない時をかけて強固に守り抜いてきた『現実という名の境界線』は容易く、熱せられた飴細工のようにドロドロに崩壊する。六根……人間の矮小な感覚器官が捉える六つの迷い。そして十二因果……過去から未来へと連綿と繋がっていく十二の苦難の輪廻。それを掛け合わせ、この世界の絶対的な因果律そのものを演算の下位概念として支配下に置くなど、人間という種が絶対に手を出すべきではない禁忌の領域だ。……我が外事3課が設立された真の目的は、こうした『神の領域』への傲慢な越境者――すなわち、世界を滅ぼしかねないプロメテウスの火を不当に盗もうとする者たちの、冷徹な排除にある」


「深く承知しています。対象が再びその『境界』を自ら越えようと試みるならば、私は組織のドクトリンに従い、即座に排除を実行します。たとえそれが、この世界の誰も望まぬ残酷な結果であろうとも」


千姫の返答に、迷いの微振は一分いちぶたりとも存在しなかった。


しかし、その鉄の意志で構築された強固な理性の裏側で、彼の脳裏には、あの崩落していく地下隔離区画の瓦礫の硝煙の中で、リクトがシホの細く煤けた手を強く握りしめ、「全能の神」であることを自ら捨て、「痛み」を、そして「人間としての涙」を選んで静かに笑っていたあの決定的な光景が、消去しきれない電子的なバグノイズのように一瞬だけ鮮烈によぎり、胸の奥底を静かに刺した。


Ⅳ. 無名なる誇り:シュレッダーの挽歌


「いや、当面の間は、物理的な接触を排した監視に留めろ」


局長は静かに、しかし断固とした調子で首を振った。


「彼は今、自らを世界を統治する無限の演算装置としてではなく、腹を空かせ、傷を負えば赤い血を流す、有限の寿命を持った一つの『個としての人間』として再定義している。まったく、運命とは皮肉なものだな。その彼自身の矮小で脆弱な自意識こそが、今やこの世界を完全な崩壊から守る、史上最強の安全装置セーフティとなっているわけだ。……我々国家がどれほど莫大な予算と最先端の科学技術を投じても決して制御しきれなかったあの怪物を、たった一人の、世間的には取るに足らない三流記者の無償の情愛がこの世界に繋ぎ止めているとはな」


「……世界というシステムは、時として我々の論理の外側において、あまりにも不条理な均衡を保つようです。情報分析官としての私の事前の計算式にも、そのような不確定なパラメータは存在していませんでした」


「そうかもしれん。だが、我々は常に、最悪のシナリオに備え続けねばならんのだ。千姫、我が外事3課の存在と動向は、今回もまた『最初から存在しなかった絶対的な虚構』として処理される。君たちの命懸けの凄絶な武勲を称える勲章も、歴史の公式記録も、この国には一枚たりとも存在しない。あるのは、明日も変わらずに続いていく、退屈で、卑近で、しかし極めて平穏な日本の日常だけだ。……それで構わんか、千姫」


千姫は、その残酷なまでの忘却の言葉を、国からの最高級の称賛と信頼として静かに受け取った。


彼は軍靴の音を一度だけ美しく響かせ、深く、格式高い儀礼的な一礼を目の前の老局長へと捧げた。


「それこそが、光を頑なに拒み、永遠の影を司る我々外事3課の誇りです。……それでは、失礼いたします」


千姫は足音を一切立てることなく、静かに部屋を後にした。彼女の歩みからはもはや一ミリの迷いもノイズも消え去り、国家の完璧な工作員のそれへと完全に回帰していた。


局長は独り残された絶対的な静寂の中で、極秘報告書の最後の一枚を、デスクの脇にある高性能の電動シュレッダーの投入口へと静かに差し入れた。


ガガガガ……と、機密がミクロン単位で粉々に細断されていく乾いた重苦しい音が、深夜の静寂に虚しく響き、そして静かに消えていく。


数時間後の明日、この国の大衆は何の疑念も抱かぬまま、心地よい朝日を浴びていつものように目覚めるだろう。


昨夜、世界の基幹OSが内部から完全に書き換えられ、全人類の自由意志そのものが一瞬にして消滅しかけていたことなど夢にも思わず。


そして、一人の孤独な少年が、その「無限」という名の絶対的な呪いを、ただ一人の大切な女性の笑顔を守るためだけに、「有限」という名の退屈な牢獄へと永遠に封じ込めたことすらも知らずに。


東京の夜は、どこまでも深く、そして残酷なまでに慈悲深い静寂に包まれていた。


それは、偽りと、わずかな希望の光で塗り固められた、新しい世界の静かな産声だった。


[EOF]


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ