エピローグ:神話の残滓
Ⅰ. 失望の晩餐:塗り潰された真実
場所:都内・某伝統庭園の奥深くにひっそりと佇む孤高の茶室。
時刻:深夜、すべての光が死に絶えた刻。
周囲の深い竹林を執拗に叩き続ける、激しい雨の音が世界のすべてを支配していた。その降り頻る雨は、静寂に包まれた極限の闇をより一層深く、重く沈み込ませていく。
青黒い濃密な闇に完全にとろけ込んだ茶室の内部で、雷門玄一は、時代から完全に取り残されたかのような古びたブラウン管調のメインモニターに映し出される、一連の暗号化されたデジタルドキュメントを無表情に眺めていた。
それは、防衛省科学研究所附属病院で発生した、あの未曾有の「事象」に関する最終事後報告書であった。
数千億円という国家規模の巨額投資と、十年の歳月、そして無数の人命を容赦なく費やした超国家的プロジェクト『プロジェクト・ネクサス』の結末が、「地下配管の老朽化に伴う突発的なメタンガス爆発事故」という、あまりにも無機質で凡庸な数行の虚偽によって、綺麗に片付けられてしまったことを示す公的な隠蔽記録。
雷門は、名匠の手によって焼かれた一品物の茶碗をデスクへと無造作に置き、深く、地球の底の裂け目から這い上がってくるかのような、重苦しい溜息をついた。その冷え切った呼気の奥には、自らの壮大な計画を国家に潰されたことに対する浅薄な怒りなどではなく、さらに深く、暗く澱んだ、絶対的な「失望」の色彩が濃厚に沈殿している。
「……結局、最終的にはこれか。外務局の、保身しか頭にない老いぼれ共の打つ手は、いつの時代も、どの物理次元においても全く変わり映えがせん。人類の覚醒を促す『真実』という名の劇薬を社会から乱暴に隠蔽し、既存の秩序という名の、何の味もしない薄汚いスープで世界を限界まで薄めてしまう。彼らのような家畜には、進化という言葉が内包する真の重みが、永久に理解できんらしい」
彼は、不自然に長く伸びた青白い指先で、モニターの木製の縁をカチリと軽く弾いた。
画面が電気的な激しいノイズと共に一瞬で暗転し、リクトが最果てにおいて到達した、世界の因果律をルート権限で書き換えるはずだった禁断の演算式「陸(6) × 拾弐(12) ≒ ∞(無限大)」の残像が、彼の網膜の裏側からゆっくりと、虚しく消え去っていく。
「リクト……。君という神に選ばれた稀有な個体が、あの『無限』の演算能力を、『ただ一人の無価値な女を救う』という、矮小で、動物的で、あまりにも低俗な個体愛着のためにすべて使い果たし、燃え尽きたことについても……私は失望を禁じ得ないよ。君は、宇宙で唯一無二の絶対神になるための資格を、自らの手で溝に投げ捨てたのだ。……人間という名の、不自由で不完全な肉体の器にしがみつくためにね」
雷門玄一にとって、あの一夜の凄絶な戦闘は、古い世界の理を全て焼き尽くし、新世界の秩序を定礎する輝かしい産声になるはずのものだった。しかし、蓋を開けてみれば、国家権力による超法規的な迅速の火消し作業と、最高傑作であった少年のあまりにも人間臭い感傷による足踏みによって、あっけなく幕を閉じた。彼にとって、それは反吐が出るほど凡庸で、吐き気を催すほどに「人間臭い」、ひどく退屈な幕切れに過ぎなかったのだ。
Ⅱ. 次なるネクサス:アステカの残酷なる論理
玄一は、膝の上に静かに置かれていた扇子を強く握りしめ、ゆっくりと、その長身の腰を上げた。もはや、この使い古され、汚された実験場に未練など一ビットも残されていない。
彼は漆黒の懐から、奇妙な幾何学紋様と血を思わせる朱色の線が緻密に描かれた、一枚の不気味な紙片を取り出した。それは古の呪術的な護符とも、最先端の量子回路を走る超伝導の設計図とも取れる、人知の枠組みを完全に超越した異様な意匠を纏っている。彼はそれを、自らの背後に広がる深い闇の深淵へと、惜しげもなく無造作に放り投げた。
茶室の外に広がる伝統庭園の池には、雨脚をさらに強めた無数の重い雫が、幾重にも重なり合う複雑な波紋を無慈悲に刻み続けていた。それは、この脆弱な世界が、未だに極めて不安定な均衡――いつ割れてもおかしくない薄氷の上に成り立っている脆い現実に過ぎないことを、冷酷に嘲笑うかのように示唆している。
「『陸(6)』と『拾弐(12)』……。仏教的で閉鎖的な、最初から救済や調和を前提とした甘やかな数式では、やはりこの完全に停滞しきった世界を根底から打ち破るには、決定的に、圧倒的に足りなかったか」
彼は、竹林の激しいざわめきを孕んだ闇の向こう側を見つめ、薄い口角を僅かに不気味に吊り上げた。その深い瞳の奥底には、すでに「次」に行われるべき、より破壊的で残酷な大規模実験へと向けられた、絶対零度の冷徹な知性がぎらぎらと宿っている。
「ならば次は……アステカの残酷なる論理をそのまま借りよう。調和による救済も、退屈な平穏も最初から存在しない、互いの肉体を貪り食らい合い、天を引き裂き、生贄の流血によってのみ太陽を無理やり運行させる、絶対的な対立の理が必要だ」
闇の中へと吸い込まれるように消えていく彼の背中から、低く掠れた独り言が、呪詛の塊のように漏れ出した。
「次は、ケツァルコアトルとテスカトリポカの神話でいこう。創造を司る白き神の光と、破壊と混沌を司る黒き鏡の影。終わることのない、永劫の血塗られた闘争……。その無慈悲な犠牲と闘争こそが、次なるネクサスを起動させるための、最も相応しい舞台装置だ。……リクト、君が己のすべてを賭けて守りたかったというその不自由な平穏を、次なる神話の炎がどのように残酷に焼き尽くしていくか、現世の底で精々楽しみにしているがいい」
雷門玄一の冷たい軍靴の足音が、濡れそぼった石畳の奥へと虚しく吸い込まれ、完全に消えていく。
一人の少年が、自らの意志で「人間」として泥を這う生き方を選び取ったその影で、さらに巨大で、神話的な破滅の絶対的種子が、再びこの呪われた世界に向けて深く撒かれようとしていた。
Ⅲ. 物理法則の崩壊:見えない炎
彼がその場を去り、完全な静寂が訪れた数秒後のことだった。
完全な密閉空間であり、空調によって管理されていたはずの茶室の温度が、近代の統計力学のあらゆる法則を完全に無視して、急激に、かつ爆発的な上昇を始めただ。
冷え切っていた室内の空気は、瞬時に人間の肌を激しく焼き焦がすほどの異常な熱量を帯び、たっぷりと湿り気を帯びていたはずの畳からは、内部の水分が一瞬で沸騰して噴き出すかのような、ぶすぶすと不気味で厭な沸騰音が低く漏れ出す。
木製の机の上に放置されていた、世界最高峰のスペックを持つ最新鋭のタブレット端末が、突如として高周波の奇怪な異音を室内に響かせた。内部のシリコン回路が許容量を遥かに超えてドロドロに融解し、液晶画面の細い隙間から、まるでそれ自体が独自の意志を持つ生き物のように蠢く、悍ましい黒い煙が立ち昇る。
床に散乱していた、今回の「病院の事件のあらまし」を詳細に記した最重要機密書類の束は、目に見えない次元の劫火に直接炙られるかのように、紙の端からじわじわと炭化し、見る間にどす黒く変色していった。
そのすべてを拒絶する黒い炭化の波は、書類の山の間にいつの間にか紛れ込んでいた、一枚の古い、激しく色褪せた写真の表面にも容赦なく及んでいく。
そこには、すべての運命が狂い出す前の平和な日常の中で、カメラに向かって無邪気に、心からの笑顔を浮かべていた一人の「少女」の姿が写っていた。
熱に激しく焼かれる写真は、その少女の胸元の位置から、ゆっくりと、しかし確実な執念深さをもって、灰の黒へと無慈悲に侵食されていく。
少女の、その世界を照らすようだった輝かしい笑顔の輪郭が完全に闇の底へと呑み込まれ、消滅した瞬間、無人となった茶室には、焼け焦げた紙と回路の凄絶な死臭と、逃げ場のない狂気的な熱気だけが、遺物のように残された。
それこそは、雷門玄一が次に仕掛ける、神話的闘争という名の「真の地獄」の幕開けを告げる、静かな産声に他ならなかった。
(『ブレイク・ネクサス』 第二部:完)
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