灰色の均衡
Ⅰ. 戦火の残滓:神を否定する鉄の意志
場所:防衛省科学研究所附属病院・中央制御室。
状況:リクトとシホが、因果律の完全崩壊した凄惨な戦場を辛うじて脱出した直後。
室内には、過負荷によって一瞬にして焼き切れたスーパーコンピュータのメイン基板から立ち昇る、咽せ返るような重金属の焦げた異臭と、白く煤けた不気味な煙が低くどんよりと漂っていた。
非常用電源へと切り替わった赤い警告灯が、一定の不穏な周期で明滅を繰り返し、壁面に二人の影を奇怪に伸び縮みさせる、静まり返った不気味な空間。その中心で、外務局外事3課の絶対的な指揮官・千姫は、戦場での血が微かに滲んだ高周波ブレードを、無造作に、しかし一分の隙すらもない洗練された暗殺術の動作で、静かに鞘へと収めた。
彼女は、メイン端末の前にまるで精巧な彫像のように微動だにせず立ち尽くす秋吉博子の背中に向けて、一切の人間的な温度を排した、鋼のように冷徹な声を容赦なく投げかけた。
「……すべての事後計算は終わりましたか、秋吉分析官。それとも、まだその網膜に映り込んでいる『偽りの神』の数式とやらに、未練でも残されているのですか」
秋吉はすぐには振り返らなかった。彼女の拡大した瞳孔には、メインモニターの端に唯一バグのように生き残って表示されたままの、狂気の演算式が、網膜に物理的な熱傷として焼き付いたかのように、不気味な燐光を放って冷たく反射している。
「『陸(6)× 拾弐(12) ≒ ∞(無限大)』……。千姫さん、あなたたち外事3課は、最初から全てを知っていたんでしょう。これが単なる一兵器の最大出力値や、高エネルギーの変換効率などといった、定量化できるレベルの数字ではないことを。……これこそが、この三次元世界の物理的崩壊を告げる『終わりの始まり』であることをね」
「我々外事3課に課せられた絶対的な任務は、常に我が国の国益を著しく損なう、あるいは世界の存立そのものを直接的に脅かす、あらゆる『外部要因』の超法規的排除です」
千姫は一歩、また一歩と、血と硝煙に汚れた軍靴の音を無機質に響かせながら秋吉の傍らへと歩み寄り、共に点滅するモニターを静かに見上げた。その横顔には、死線を超えてきた者特有の恐怖も驚きもない。そこにあるのはただ、国家の、ひいては人類の絶対的な既存秩序を守り抜こうとする者の、峻烈で容赦のない殺気だけだった。
「だが、今回我々が命懸けで排除すべきだったのは、思想を持ったテロリストでも、敵対国家の優秀な工作員でも、あるいは制御を失って暴走した自立型アンドロイドでもありませんでした。この悍ましい数式が世界に干渉し、確定させてしまう『最悪の結果』そのものだったのです」
Ⅱ. OSの書き換え:禁断の数式「6×12」
秋吉が、肺の奥底から搾り出すような、微かに震える声で言葉を繋ぐ。
「……6つの感覚。通常の視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚……そしてそこに、時空の歪みを感知する超感覚的な第六感を加えた、人間という生物の認識における限界閾値。それに掛け合わされる、12の次元、あるいはこの宇宙を多層的に構築する12の絶対的因果律。……それらを完全に掛け合わせるということは、人間という矮小な観測者が認識できる世界の枠組みそのものを、強制的に、そして不可逆的に『無限(∞)』にまで拡張するということ。……これは単なる数学的数式なんかじゃない。私たちが生きているこの三次元世界という名のオペレーティングシステム(OS)の根幹を、ルート権限を強奪して根本から書き換えるための、禁断のコマンドラインだったのよ」
「その通りです」
千姫の眼差しは、一切の光を反射しない抜き身の刃そのものだった。彼女の鍛え上げられた精神には、女性的な迷いや感傷、情動の入り込む隙間など一ミクロンも存在しない。
「この数値が『≒ ∞』に到達し、世界の因果として完全に確定した瞬間、この脆い宇宙を繋ぎ止めている因果律の糸は、その膨大な情報量に耐えきれずに内部から崩壊する。過去と未来は等価値に混濁して境界を失い、個人の意志という個体識別子は、全能という名の果てしない演算の海に飲み込まれて完全に消失する。……リクトという少年は、ノア・メディカルによって生体兵器として調整されたと聞いていましたが、そのオリジナルの設計思想は、おそらく根本から違っていた。彼は、この不安定で壊れやすい現実世界を繋ぎ止めるための、文字通りの『人柱』。あるいは、情報の重圧によって世界が外側へと弾け飛ばないようにするための、超古代文明によって予め設計されていた、生きた『安全弁』だったと考えられます」
秋吉は、自身の知性がもたらした絶望に似た戦慄に、激しく身を震わせた。
「だが、その超古代文明ですら、その肥大化した力を最終的には制御できずに暴走し、滅び去った。彼らは滅亡の間際、後に続く我々のような観測者たちに対して“決してこの領域には手を出すな”という、血を吐くような絶望的な警告の意を込めて、あの忌まわしい数式『陸x拾弐≒ ∞』を遺したのだ……私はこれまでのデータからそう推測しています。そして、雷門玄斎はその数式が内包する絶望的な危険性にいち早く気づき、深く恐怖した。だが、その息子である雷門玄一は、その恐怖そのものに対して、狂気的な科学者としての欢喜を見出してしまった。ノア・メディカルも、海の向こうのプロメテウス財団も……すべては、禁断の扉を強引に開こうとした雷門玄一という底知れない怪物の手の平の上で、都合よく踊らされた操り人形に過ぎなかったのよ」
Ⅲ. 避雷針の正体:外事3課の「灰色」の正義
「だから、あなたたち外事3課は、あれほど死に物狂いでリクト君の身柄を追っていたのね」
秋吉は、自らの抑えきれなかったあくなき知的好奇心が招いてしまったこの凄惨な惨劇を呪うように、自嘲気味に力なく笑った。
「彼を兵器として都合よく利用するためではない。その世界を支える『安全弁』そのものが内部から完全に壊れて、世界全体を道連れに無理心中を始めないよう……常にその少年の眉間に冷たい銃口を向け、引き金に指をかけておくために。……あなたたちは、世界を守る守護者などではなく、最初から彼の死刑執行人としてそこに立っていたのね」
「我々外事3課がその身を賭して守るのは、おめでたい詩人が語るような美しい平和でもなければ、正義の劇的な勝利でもありません。何も事件が起きない、退屈で、限定的な、連続性のある『日常という現実』です」
千姫は冷淡に背を向け、制御室の出口へと歩み出した。その等間隔の足取りには、いかなる迷いも感傷の微振も存在しない。
「リクトが『人』であることを完全にやめ、数式という高次元の概念そのものに変貌しようとしたとき、私は国家の最高意思に従い、迷わず彼を射殺するはずでした。……ですが」
千姫は、リクトが一瞬の奇跡の中でシホをしっかりと抱きかかえ、そのまま光の彼方へと消えていった暗い廊下の先を、一瞬だけ、その鋭い双眸で凝視した。
「彼は、手に入れた無限の演算能力を『世界の再構築』という傲慢な神の遊戯に消費するのではなく、『ただ一人の女を守り抜く』という、極めて個人的で、矮小で、しかしダイヤモンドよりも強固な純度を持った一瞬の因果に収束させた。……数式という冷徹な論理が、人間の意志という不確定要素に完全な敗北を喫した、観測史上極めて稀な瞬間です」
「……私は、その凄絶な過程を、ただ足元を震わせながら見届けることしかできなかった」
秋吉がようやく、重い腰を上げて千姫の背中に向き直る。その疲れ切った顔には、割り当てられた狂気の役割を終えたことへの安堵と、一人の科学者として「論理で理解できない奇跡」を目の前で見せつけられたことへの、決定的な敗北感が複雑に混じり合っていた。
「……強要された役割だったとはいえ、彼をあそこまで狂気の淵へと追い詰めた一端は、私の抑えきれなかった好奇心にある。内調の席に戻ったとしても、私は一生、この『6×12』という数字が持つ呪いのような重みに押し潰されながら生きることになるわ」
Ⅳ. 虚構の日常:忘却という名の慈悲
「安心してください」
千姫は歩みを止め、しかし決して振り返ることはなく冷淡に告げた。その漆黒の重厚なコートを纏った背中は、この世のあらゆる汚濁と闇を引き受ける、強固な「灰色の防壁」そのものだった。
「あなたが個人的な罪と思うことも、あの少年の放った一瞬の奇跡的な輝きも、我々外事3課が、その組織の存在意義にかけて、すべて最初から『なかったこと』に処理します。……明日になれば、この防衛省の病院で起きた未曾有の惨劇は、『建物の老朽化による原因不明の基幹システムエラーと、それに伴って発生した小規模な化学火災』として、メディアを通じて公的に処理されます」
千姫の声は、もはや秋吉という一介の個人に向けられたものではなく、国家という名の巨大な統治機構そのものがスピーカーを通じて喋っているかのように、冷々とした響きを持って室内に残響した。
「秋吉博子さん。あなたは極めて有能な情報分析官として、再びこの偽りの、しかし平穏で退屈な日常の席に戻ってください。……あなたの壊れやすい記憶の中にだけ存在する真実など、この国の強固な安定にとっては、ただの些細な計算誤差に過ぎないのですから」
「……千姫さん。最後に、一つだけ教えて。……リクト君は、これからどうなるの? 彼はこれですべての呪縛から解き放たれて、本当の意味で自由になれたの?」
千姫は完全に足を止め、数秒間の張り詰めた沈黙の後、やはり一度も振り返ることはなく静かに答えた。
「……彼は依然として、この世界の脆弱な均衡をたった一瞬で崩壊させかねない、最悪の『不確定要素』です。故に、我々外事3課の監視は、この先も永遠に続きます。……もし、彼が再びその手で、人間であることを自ら捨てて『無限』の力へと手を伸ばそうとすれば……その時、私のブレードと銃口は、今度こそ、一瞬たりとも躊躇することはありません」
それだけを冷酷に言い残して、千姫の姿は制御室の外の深い闇へと溶けるように、音もなく静かに消え去った。
完全に静まり返った中央制御室で、秋吉は最後にもう一度だけ、不気味に点滅を続ける壊れたモニターを見上げた。
そこには、かつて世界を終焉の淵へと導きかけたはずの禁断の数式が、今はただの、全ての意味を喪失した子供の落書きのように、虚しく無機質に明滅しているだけだった。
「……ふふ。……私の人生に、また一つ、解けない憂鬱な宿題が増えてしまったわね」
秋吉博子は、自分の制御できずに震え続ける指先を隠すように、白衣のポケットの奥深くへと両手を突っ込み、深く、重い、長い溜息をついた。
その微かな溜息さえも、機械的な空調のノイズにかき消され、やがてやってくる「何も起きなかったはずの明日」の濁流へと、跡形もなく飲み込まれていった。
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