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『ブレイク・ネクサス』改訂版  作者: 嵗(sai)
断章:オルタナティブ・プロトコル

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断絶の対話

Ⅰ. 月光の檻:かつての共犯者


場所:防衛省科学研究所附属病院・屋上庭園。


時刻:未曾有の「新宿事変」から一週間が経過した、凍てつくような深夜。


冬の気配を孕んだ夜空には、一切の色彩を欠いた冷徹な月が孤高に浮かんでいた。その青白い月光は、激しい戦闘の爪痕を急造の突貫補修作業によって強引に塗り潰した無機質なコンクリートの床を、まるで死に装束のように白々と照らし出している。


シホの数メートル先、錆びついたフェンス際に立つ秋吉博子は、かつて外務局外事3課の過酷な監視下で白衣を纏い、狂気的な速度でキーボードを叩き続けていた頃よりも、一回りも二回りも痩せ細って見えた。


彼女の現在の肩書きは、表向きには「内閣情報調査局(内調)情報分析官」。だが、その細い肩に背負わされた国家機密の重さは、一介の官僚が抱えきれる許容量を遥かに超えている。夜風に激しく晒された彼女の瞳に宿っているのは、未知の知性を暴いたことによる高揚などではなく、底の見えない、深く濁った疲弊の色彩だけだった。


「……本気で、あれを記事にするつもり? 西野さん」


秋吉が、冷たい風に乱れた髪を細い指先で抑えながら、力なく問いかけてきた。その声は、かつて地下隔離区画で指揮を執っていた時の絶対的な鋭さを完全に失い、夜の闇の深淵へと吸い込まれてしまいそうなほどに細く、脆い。


「書くのが、私の仕事ですから」


シホは、コートのポケットの中で、自身の唯一の武器であるボイスレコーダーを、壊れ物を扱うかのようにぎゅっと握りしめる。


「アメリカの秘密研究所で行われていた非道極まる人体実験、この病院の地下での非人道的な監禁……そして、リクト君を制御不能な『化物』に変えようとした、あなたの犯した罪を。……いいえ、あなたのような頭脳を利用し、使い捨てようとした内調や外事3課の組織的な罪を、私は全て白日の下に晒します」


秋吉はその言葉を聞くと、諦念の混じった自嘲気味な笑みで、薄い口角を痛々しく歪めた。


「罪、ね。……世界の『外側』にいるあなたから見れば、確かにそう見えるでしょうね。……でも、一つだけ明確に訂正させて。私はリクト君のあの変貌について、主導的な手は下していない。……いいえ、正確には『下せなかった』のよ。あのニューロ・コンピューティング・ユニット(NCU)の暴走も、高次元精神『ALICE』との融合も、全ては彼の――リクト君自身の意志が選択し、招き寄せた必然。私がしたことと言えば、外事3課の千姫さんに冷たい銃口を突きつけられ、怯えながら、彼女たちの要求通りに画面にデータを打ち込み続けた……ただの『入力装置』に過ぎないわ」


Ⅱ. データの呪縛:分析官の言い訳


「……強要されていた、と? 今更そんな風に、全ての責任を組織に転嫁するつもりですか」


「事実を言っているのよ。私は元々、内閣調査室で純粋に情報をスクリーニングし、精査するだけの一分析官だった。辞表を提出し、平穏な隠居生活に入るその瞬間に、千姫さんに首根っこを掴まれてこの血生臭い場所に引きずり込まれたの。あの冷徹な人の命令を正面から拒絶できる人間が、この国に一人でもいると思う?」


秋吉は苦虫を噛み潰したような顔を隠そうともせず、自身の不運を呪うように、早口で言い訳を並べ始める。だが、その言葉の端々に、拒絶しきれない異常な熱が、じわりと混じり始めた。


「……もっとも、私の目の前に並べられたあの乱雑で、混沌としていて、宇宙の物理法則そのものを根底から書き換えかねない極上のデータ群を前にして……情報分析官としての業深い血が、一滴も騒がなかったと言えば、それは完全な嘘になるけれどね」


それを聞いたシホは、本能的な恐怖を覚えて思わず一歩後退った。秋吉の疲弊しきった瞳の奥に、一瞬だけ、かつて地下室で見せた狂信的な科学者の輝きが、確かに閃いたのを見たからだ。


(……この人は、秋吉さんにとって、あの悍ましいデータは馬の前に吊るされたニンジンと同じなんだ。善悪の倫理以前に、世界の未知を解き明かしたいという純粋な欲求が、人間としての倫理を完全に凌駕している。……やっぱり、この人は本質的に危険な側の人間だ)


「コホン……。少し話が逸れたわね」


シホの拒絶を孕んだ視線に気づいたのか、秋吉は不自然に咳払いをし、その青白い頬を微かに赤らめて、無理やり話題を切り替えた。


「外務局外事3課……千姫さんたちが血眼になって追っていたのは、リクト君という単体の『生体兵器』じゃない。彼らが命懸けで死守しようとしていたのは、この国の、ひいてはこの世界全体の安定した『現実』そのものなのよ」


Ⅲ. 避雷針の論理:恐怖の正体


秋吉は視線をシホから露骨に逸らし、遠く、偽りの再建の灯りがポツポツと点り始めた新宿の広大な夜景を見つめた。


「誤解しないで。彼らはリクト君を、他国との戦場に投入する攻撃兵器として都合よく利用しようとした訳じゃない。むしろ、その真逆よ。あの『陸拾弐 ≒ $ \infty $』という神の数式が現実世界の物理空間を激しく侵食し、因果律そのものを書き換え始めた時……世界がその絶大な重圧に耐えきれずに内部崩壊するのを防ぐための『避雷針』として、彼を特定の隔離区画に閉じ込めた。そして最悪の場合、世界のOSが完全にクラッシュする前に、彼というソースコードそのものを『消去』しようとしていた。……彼らは、リクト君の力を誰よりも恐れていたのよ。利用するなんて、そんな傲慢なことは端から考えていなかった。ただ、……怖くてたまらなかったのよ、世界の終わりが」


シホは言葉を失った。あの激しい新宿の夜、千姫たちが放った執拗で容赦のない攻撃の数々。世界を引き裂く重粒子砲の轟音や、大気を焦がす高高周波ブレードの凄絶な閃光。


それらは全て、リクトという都合のいい駒を国家間で奪い合う争奪戦などではなく、世界というシステムから生じてしまった「致命的なバグ」を力ずくで排除し、我々の平穏を維持するための、必死で、泥臭い、人類側の清掃作業だったというのか。


「けれど、リクト君はその全てを……自分が世界全体から拒絶されているという残酷な事実を完全に理解した上で、自分を『兵器』でも『避雷針』でもなく、最期に一人の『人間』として定義し直した。……西野さん、あなたの存在が、彼のアンカーとしてあったからよ」


秋吉が再び踵を返し、射抜くような鋭い視線をシホへと真っ直ぐに向けた。


「西野さん、あなたが今書こうとしているのは、国家権力という『巨悪と戦う正義の記者の物語』? それとも『孤独な少年の救済の記録』? ……もし前者だというなら、今すぐその安物のレコーダーを床に叩きつけて砕き、捨てなさい。外事3課は、戸籍も予算も、公的な記録すら存在しない本物の幽霊組織。彼らにとって、自分たちの存在を社会に証明しようとする人間を社会的に、あるいは物理的にこの世から消すことなど、呼吸をするより容易いことだわ」


Ⅳ. 罰としての日常:ノイズの終焉


「……私への、直接的な脅しのつもりですか」


「いいえ、ただの忠告よ。私はこれから、正式に内調の情報分析官の席に戻る。この事件に関わった全ての電子データや通信ログを、国家の敵による『悪質な誤情報』や『集団幻覚』として完全に処理するために。自分が間近で目撃したあの凄惨な罪を、自らの手で『最初からなかったこと』に冷徹に書き換えていく……。それこそが、システムに魂を売った私に課せられた、一生消えない罰なのよ。……忘れないで、リクト君は今、極めて不安定な境界線上に留まっている。彼がいつ、その強大な力で世界そのものを否定し始めるか誰にも分からない。外事3課は今この瞬間も、指をトリガーにかけたまま、暗闇の奥底から彼を監視し続けているわ」


秋吉は冷淡に踵を返し、シホのすぐ横を通り過ぎる瞬間に、氷のように冷たい吐息と共に、耳元で小さく囁いた。


「それでもなお、あなたが何かを書くというのなら……ペンやキーボードではなく、あなたの心にだけ深く刻みなさい。あの化物が、最後に『人間』として心から笑ったのは、あなたの前だけだったという事実をね」


秋吉の漆黒のスーツの背中は、病院の薄暗い廊下へと、吸い込まれるように完全に消え去っていった。


後に残されたのは、凍てつくような冷たい夜風の風切り音と、シホの手の中にある一台のボイスレコーダーだけだった。


シホは、かじかむ震える指先で、おそるおそる再生ボタンを押し込んだ。


しかし。


小さなスピーカーから流れてきたのは、自らの必死な告発の声でも、秋吉の冷徹な独白でもなかった。


そこには、最初からその空間に誰も存在しなかったかのように、ただ、砂嵐のようなザァァという静かなデジタルノイズだけが、延々と記録されていた。


「……あはは。……流石ね、秋吉さん。完璧だわ」


シホは乾いた、諦念の混じった笑いを夜の闇に漏らし、無意味となったボイスレコーダーをコートのポケットへと乱暴に突っ込んだ。


彼女は静かに夜空を見上げた。厚い雲の切れ間から、鋭く覗く冷たい月。


リクトが、世界のどこか、肉眼では決して観測できない狭間の世界で……この同じ、冷たくも美しい月を見上げていることを心から願いながら、彼女はかつて凄惨な戦場だったその場所を、静かに後にした。


[EOF]


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