未公開手記:『ゼロの閾値(いきち)』
Ⅰ. 覚醒の朝:塗り潰された新宿
防衛省科学研究所附属病院のベッドで西野シホが目を覚ましたとき、世界はあまりにも残酷なほど、底冷えする静寂に満ち満ちていた。
鼻腔を執拗に突く特有の消毒液の匂いと、天井の換気口から漏れ出す一定のリズムの無機質な駆動音だけが、ここが夢の世界ではなく冷徹な現実であることを、彼女の意識に辛うじて繋ぎ止めている。
窓の外に広がる、朝霧に霞む新宿のビル群。
あの日、リクトが放った「神の演算」によって全電子制御を狂わされ、一瞬にして全都市機能が完全に停止しかけ、鋼鉄の巨神たちが火花を散らして激突し合った凄惨な戦場だとは、到底信じられないほどに静まり返っている。
街は、何事もなかったかのように平然と、その巨大な呼吸を再開していたのだ。朝の通勤ラッシュに向かう電車の重苦しい金属音が遠くで地鳴りのように響き、空は白み、吐き出される排気ガスが再び街の輪郭を灰色に汚していく。
「……誰も、……何一つ、覚えていないのね」
シホは微かに震える指先で、サイドテーブルに置かれたスマートフォンを掴み取った。
指先が冷たい。SNSのタイムラインを狂ったように必死に遡るが、そこに表示されるのは昨夜の「一時的な大規模停電」を軽薄に愚痴る数件の投稿と、芸能人の不倫騒動をこれ見よがしに揶揄する匿名の叫び、溢れかえる広告のノイズだけだ。
この病院の地下深くで起きた、あの神と人が互いの世界の理を懸けて激突した血と鉄の戦闘は、特厚のコンクリートと、国家機密という名の強固な「認識の壁」の向こう側に、完全に封じ込められ、消去されていた。
Ⅱ. リクトという「不安定な均衡」:秋吉博子の仮面
シホは、病院の張り詰めた地下通路――かつて激しい戦闘の痕跡が生々しく刻まれていたはずの場所を、執拗な監視の目を盗んで密かに抜け出した。
張り裂けそうな鼓動を抑えながらたどり着いたのは、リクトが最後に「神の座」を捨て去り、彼女に向かって静かに微笑んだはずの、あの隔離区画だった。
しかし、重い扉を開けた彼女の目に飛び込んできたのは、砕け散った強化ガラスの破片も、焼け焦げた無数の光ファイバーケーブルもない、ただの部屋だった。そこには無機質な灰色の壁と、新調されたばかりのフィルターによって完全に滅菌された、冷たい空気だけが充満していた。
「彼はもう、ここにはいないわ、西野さん。……いえ、今は『西野記者』と呼ぶべきかしらね」
背後から響いたのは、聞き慣れた、しかし決定的に異質な、血の通わない響きを帯びた声だった。
驚いて振り返ると、そこには秋吉博子が佇んでいた。かつてのいかにも研究者らしい白衣の姿ではなく、内閣情報調査局(CIRO)の冷徹な紋章を胸元に秘めた、漆黒の仕立ての良いスーツにその身を包んで。
秋吉の放つ言葉には、あの地下でリクトを救おうと端末を叩き、狂奔していた際の人間的な熱情や狂気は、もはや微塵も残っていなかった。そこにあるのは、巨大なシステムの一部として機能する、冷酷なまでに事務的な冷たさだけだ。
「リクト君の状態は、私たちが当初想定していた『完成形』とは程遠いものよ。アビス・ラ細胞と金属骨格は確かに高次元で完全同化した。けれど、彼の精神――『ALICE』との高度な融合体は、常にこの三次元世界の物理法則そのものを不確定なものとして疑い続けているわ。彼は今、実存と虚無の狭間で激しく揺れ動く『不安定な振動体』のようなもの。……強力な観測者が存在し続けなければ、今すぐにでも因果の彼方へ霧散しかねない、危うい均衡の上にいるの」
秋吉は、感情を排した冷たい瞳でシホをじっと見据えた。
リクトは、シホの命を守るために、あの決定的な瞬間に「無限(∞)」の演算能力をあえて自ら放棄したのだ。その凄絶な反動として、彼はこの現世に留まるための「存在の錨」を完全に失いかけている。国家は彼を、もはや救うべき少年としてではなく、世界のOSそのものを内部から崩壊させかねない致命的な「不確定要素」として認識し、より深い暗闇の底へと幽閉したのだった。
Ⅲ. 外務局外事3課:デジタル・シュレッダー
シホは這う失意のまま編集部に戻ると、取り憑かれたようにキーボードを叩き始めた。
渡米先の秘密研究所で行われていた非道極まる人体実験の数々。内閣情報調査局の手によって国内で違法に進められていた生体兵器開発の実態。そして、リクトという一人の少年が背負わされた、あまりにも長く悲しい受難の記録。
それは、彼女が「三流ゴシップ誌」の看板を自ら投げ打ってでも、この歪んだ社会に世に問わねばならない、最初で最後の、剥き出しの「真実」だった。
しかし。
彼女が必死に一文字を画面に綴るそばから、液晶画面上の文字列は奇怪な文字化けを起こし、煙のように次々と霧散していく。狂ったように叩く保存コマンドはすべて無効化され、バックアップ用の外部サーバーは無慈悲な接続拒絶の文字を返すのみだった。
「無駄な抵抗ですよ」
背後に音もなく立っていたのは、いつ部屋に入ってきたのか、足音も気配すらも一切感じさせない男だった。
黒い重厚なコート。感情の起伏を完全に排した無機質な面持ち。外務局外事部第3課――日本の外交上の「不利益」となり得るあらゆる要素を、超法規的な手段で根こそぎ抹消する、闇の検閲官たちだ。
「西野記者。君が今書いているのは、質の悪いB級のSF小説か、あるいは現実逃避が生んだ病的な妄想の類だ。……いいかね、昨夜、この国の国内において『事件』などというものは何一つ一切起きていない。防衛省の附属病院は終始平穏そのものだった。……君が救ったと盲信している少年も、戸籍上は十年前、米国への渡航中の不慮の事故によって既に死亡している。存在しない幽霊を記事にすることは、我々の社会では不可能なのだよ」
千姫たちの姿も、もはやどこを探してもいなかった。
彼女たちが、重力を引き裂く不知火の機上で振るった高周波ブレードの凄絶な閃光も、あの凄惨な戦場に漂っていた生臭い鉄と血の匂いも、すべては「外事」という名の巨大なシュレッダーにかけられ、灰すらも残らず消滅させられたのだ。
Ⅳ. 帰還と沈黙:シホの孤独な宣戦布告
数日後、シホは誰もいない編集部のテレビニュースで、秋吉博子の姿を目にした。
彼女は「国際政治および情報戦略の第一席分析官」という仰々しい肩書きを背負い、夕方の主要ニュース番組のコメンテーターを務めていた。
彼女は何食わぬすました顔で、画面の向こう側にいる無知な視聴者に向けて、世界の均衡と平和の維持の重要性について、優雅に、そして恐ろしいほど冷徹に語りかけていた。
あの日、共に薄暗い地下室でリクトを救おうと涙を流し、一ビットの攻防に自らの命を懸けた「秋吉博士」は、もうどこにも存在しない。彼女は完全にシステムの懐へと飛び込み、世界の均衡をコントロールする「知性」として、大衆から称賛される側の世界へ回ったのだ。
シホは、自らのデスクの引き出しの最奥、暗い隙間にひっそりと隠すようにしまっておいた、一枚の古い写真を見つめた。
そこには、すべての運命が狂い出す前、渡米直前のリクトの純粋な笑顔があった。それは神の演算能力も、アビス・ラ細胞の呪いも持たない、ただの、少し恥ずかしがり屋な、どこにでもいる普通の少年の笑顔だった。
「……世界があなたを完全に忘れても。……歴史があなたを、最初から存在しなかったことに書き換えても」
シホは、自らをインターネットの網から完全に隔離した。
外部との通信手段を一切持たず、GPSすら内蔵されていない、場違いな中古屋の片隅で見つけてきた旧式の機械式タイプライターを、震える手でデスクの真ん中へと据えた。
これが、私だけの戦いだ。
この原稿が、明日の新聞の一面に載ることは決してない。ネットの広大な海に拡散されることも、バズることもない。誰の目にも触れることなく、ただの黒いインクの跡として歴史の闇に埋もれていくのかもしれない。
しかし、この厚い紙に刻み込まれた、物理的で鋭い打鍵の凹凸跡だけは、リクトという名の少年が確かにこの世界で「人」として懸命に生きようとし、そして今も、世界のどこか極限の狭間で震えながら存在し続けていることの、宇宙で唯一の「証」なのだ。
シホは、最初の一文字を指に全神経を込めて力強く叩き込んだ。
ガチャン、という鈍く重々しい金属音が、完全に静まり返った深夜の編集部に、世界に対する孤独な宣戦布告のように、激しく響き渡った。
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