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『ブレイク・ネクサス』改訂版  作者: 嵗(sai)
第二部:ネクサス・ロジック

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第二十四章:逃走の開始:時速100kmのデスレース

24.1. ドライブインからの脱出:冷徹な鉄と熱き血潮


Ⅰ. 弾火はじける逃走の号砲


深夜の寂れたドライブインの店内に、プラスチック製の重いテーブルが床面を激しく滑る、耳を聾するような甲高い破壊音がけたたましく響き渡った。


西野シホが自らの細い身体の全質量を乗せて渾身の力で蹴り上げたその障害物は、突進しようとしていた追跡者たちの膝元を正確に払い、一時的な物理的「壁」となって彼らの恐るべき初動の速度をほんの数秒だけ強引に奪い取った。


「ぐっ……この、小生意気な三流小娘がぁッ!」


顔面に熱い缶コーヒーの洗礼を諸に浴びた男が、皮膚を焼く火傷の激痛と、視界を塞ぐ黒い液体の不良に喘ぎながら、低く濁った呻き声を上げる。だが、その僅かに生じた空白の時間こそが、生身のシホにとっての唯一の勝機であった。


彼女は自身の細い身体を極限まで低く保ち、完全に障害物と化した椅子を身軽に飛び越え、迷うことなく店の最深部に位置する重い非常口の扉へと一直線に全力で走り出す。


『――― 警告。追跡者の神経反応速度、および肉体起動速度は、ワタシの当初のシステム予測値を実に15%以上上回っています。シホ、思考をさらに加速させてください。目標:愛車バイク『X991』。最短経路でアクセスし、即座にエンジンを起動。ここでのコンマ一秒の失敗は、あなたという個体の即座の「消去」を意味します!』


ALICEの放つ冷徹な警告は、もはや単なるアドバイスの域を遥かに超え、シホの脳内へと直接強制的に叩き込まれる絶対命令そのものであった。


非常口の重い鉄扉を自らの右肩から体当たりで強引に開放した瞬間、肺の奥深くまで一瞬で凍りつかせるような、深夜の東京の冷酷な夜気がシホの全身を冷たく迎え入れた。広大な駐車場を薄暗く照らすナトリウム灯の鈍いオレンジ色の光の下、無骨で殺気立ったデザインを持つ彼女の愛車X991が、主人の帰還を静かに待つ鉄の猛獣のようにそこに佇んでいた。


Ⅱ. 鉄の獣の覚醒


シホのライディングブーツがアスファルトの冷たい地面を激しく叩き、X991の巨躯へと急速に肉薄していく。だが、彼女がそのシートへと飛び乗り、グローブをはめた右手でキーをイグニッションに捻り込むよりも僅かに早く、背後の非常口の扉から猛烈な、そして明らかな暴力と殺意を孕んだ足音が不気味に迫ってきた。


「待ちな! 大人しくその場に止まりゃあ、まだ組織の温情で命だけは助けてやる。……だが次だ。次からはもうタマ(命)はねぇぞ、嬢ちゃん!」


男の野太い怒号が、深夜の無人駐車場に異質な空気の振動となって激しく響き渡る。その脅迫のトーンには、一切の交渉の余地を残さない冷酷な死刑宣告に近い響きが混じっていた。


だが、シホはそれに対して一切の返事をしなかった。否、返事をするための貴重な呼吸すらも、今はそのすべてを右手の指先の精密なコントロールに集中させていたのだ。彼女は恐怖でかすかに震える親指で、X991のセルボタンをハンドルバーへと渾身の力で押し込んだ。


キュルルルルル――!


セルモーターが冷え切った空気の中で虚しく空転する、もどかしくも恐ろしい数秒の遅延。彼女の心臓の鼓動は、バイクの内部機構のピストン運動と同調するかのように早鐘を激しく打ち鳴らす。その刹那、直列四気筒のシリンダー内部に猛烈な火が入り、X991は夜の静寂を完全に粉砕する、獰猛な野獣のごとき咆哮を上げた。


シホは間髪入れずに左足でサイドスタンドを跳ね上げ、クラッチレバーを自らの左手で限界まで引き絞ると、硬いシフトペダルを一気に一速へと叩き込む。右手のアクセルを大きく開け、クラッチを鋭く繋いだ瞬間、X991は前輪を夜空に向かって浮かせんばかりの圧倒的な加速力で、アスファルトの路面を激しく蹴り出した。


Ⅲ. 鳴り響く銃声、時速百キロの決断


激しく振動するバックミラーの端を盗み見たシホの網膜は、追跡者の男たちが懐から「黒い不気味な鉄の塊」――プロ用の半自動式拳銃を滑らかな動作で引き抜く気配を確実に察知した。それは、もはや単なる脅しや恐喝の段階を完全に通り越し、情報を確実に回収するための「物理的排除」という冷徹な手段への移行を意味していた。


『――― 最終警告! 追跡者による実弾火器の使用をシステムが確定。現在の弾道予測プロファイルに基づき、シホの頭部および胸部への致命的な命中率は約40%。……直ちに緊急回避運動を開始! 側面へ、重力に従って車体を強引に倒し込んでください!』


「っ……!」


シホは本能的な恐怖に従って自らの上半身をガソリンタンクの金属面へと深く伏せ、車体を左側へと激しくバンクさせた。駐車場から一般の公道へと続く、斜度のきついコンクリートのスロープを滑り落ちるように急降下していく。


パン!


パン! パン!


背後の闇から響いてきたのは、テレビドラマのそれとは決定的に違う、現実の空気を鋭く切り裂くような乾いた、そして重い金属的な銃声であった。ドライブインの古い強化ガラスが派手に飛散する鋭い音が周囲に響き、放たれた銃弾の一発がシホのヘルメットの僅か数センチ上を猛烈な速度で通過し、発生した真空の風が彼女の項の皮膚を冷たくなぞった。


幸いにも、彼女の肉体を直接貫く致命傷はなかった。しかし、激しくブレるミラーの端で、バイクのリアタイヤ付近の金属パーツから激しい火花がバチバチと散ったのを、シホの研ぎ澄まされた網膜が確かに捉えていた。


「うわああー! 撃ってきた! あの男たち、本当に何の躊躇もなくこっちを殺す気で撃ってきやがったわ!」


ヘルメットの狭い密室の中で、シホは自らの胸を満たす圧倒的な恐怖を無理やり打ち消すために、剥き出しの悪態を叫んだ。アドレナリンが細い血管を焼き切らんばかりの速度で駆け巡り、恐怖の感情が次第に、自らを不当に脅かす奴らに対する猛烈な怒りへと変換されていく。


『――― 現状の機体ダメージ報告。リアタイヤのサイドウォール部分に敵の弾丸が接触。ケーシング構造に重大な物理的損傷を検知しました。これにより、タイヤの内部圧力が現在進行形で急速に低下しています。……シホ、この最悪な状態での安全な走行可能時間は、ワタシのシステム計算で最大約7分。それまでに1000(千姫)との最終合流地点を目指す最適ルートを選択し、何が何でも走破してください!』


「な、何言ってるのよ、たったの七分!? その合流地点まで、ここからあとどれくらいの距離があると思ってるのよ!」


シホは夜風に向かって絶叫しながら、右手のアクセルグリップをさらにワイドオープンへと絞り込んだ。


デジタルメーターの液晶数値が「100km/h」の境界線を瞬時に突破していく。


傷ついたタイヤから車体全体へと伝わってくる不吉な微振動を全身の皮膚で感じながら、シホは八代編集長が自らの命を懸けて託してくれた「世界の答え」を届けるため、闇夜を切り裂く命懸けのデスレースの幕を正式に開けた。


________________________________________


24.2. 夜の市街地チェイス:鋼鉄のワルツ


Ⅰ. 深夜の重力圏


ドライブインの敷地を弾丸のように飛び出したシホと愛車X991は、真夜中の帳によって完全に塗り潰された静寂の市街地へと滑り込んだ。


道路脇に設置された「規制速度50キロ」の標識が、まるで完全に静止しているかのように凄まじい速度で背後へと飛び去っていく。


デジタルメーターの示す数値は、すでに100の桁を優に超え、なおも不気味な上昇を止めようとはしなかった。


シホの心臓は、エンジンの激しいピストン運動と完全に同期したかのように、あまりにも激しく、そして鋭い鼓動を彼女の胸の内で刻み続けていた。


アドレナリンが血管を焼き切らんばかりの圧倒的な熱量で全身の神経を駆け巡る。


恐怖。興奮。そして生存への絶対的な本能。


それらが一本の太い濁流となって脳内で混ざり合い、現在の彼女の五感は、バイクの周囲を激しく流れる空気の粒子一つ一つをも皮膚で感知できるほどに、異常なまでに鋭敏化していた。


だが、死神の冷たい影は、すぐ目と鼻の先の背後にまで確実に伸びていたのだ。


「っ……! 嘘でしょ、まだそんなにぴったり付いてくるの!?」


振動するバックミラー越し、漆黒の重厚な塗装に身を包んだプロメテウス側の大型セダンが、ドライブインの急坂を猛烈な加速で一気に下りきり、すでにX991の赤いテールランプをその射程内に完全に捉えていた。


その車体の動きは、決して一般的なドライバーのそれではない。


プロの追跡者――おそらくは政府系の秘密工作員か、あるいは財団が巨額の資金で雇い入れた、高度な戦闘訓練を受けたスペシャリストの集団。彼らはシホの駆るバイクが夜のアスファルトに描く走行ラインを、ミリ単位の精度で正確に読み取り、最小のロスでその車間距離を確実に詰めてくる。


『――― 警告。追跡車両の速度、時速140kmに到達。予測車間距離はすでに30メートルを切りました。システム上の誤差範囲内における衝突リスクが急上昇しています。彼らはもはや情報の無傷の回収よりも、あなたの物理的な停止、すなわち「排除」を最優先し始めました。シホ、覚悟を決めてください。前方、300メートル先、右折方向は現在工事中の完全閉鎖区間です。減速を一切行わずにそこへ進入。直後に、物理限界ギリギリの左急旋回を敢行してください!』


Ⅱ. 工事区間のデッドヒート


「工事区間!? あんな障害物だらけの狭いところに、減速もしないで突っ込めっていうの!? ALICE、あなた正気なの、私を本気で死なせる気!?」


シホはヘルメットの中で叫び声を上げながらも、自らの身体を左へと強く傾け、X991の巨躯を右の細い路地へと無理やり倒し込んだ。


夜の建設現場に並べられたオレンジ色のバリケードが、深い闇の中で不気味な警告の反射光を放っている。


街灯の乏しい薄暗い路地は、あちこちが激しく掘り返されたアスファルトと山積みの建築資材によって、まるで複雑な迷路のように入り組んでいた。


だが、背後の黒いセダンもまた、一切の躊躇や減速を行うことなく、四輪のタイヤから真っ白な摩擦煙を激しく上げながら、その逃げ場のない「蟻地獄」の難所へと狂ったように飛び込んできた。


『――― 減速の選択はシステムとして許可しません。あなたの脳内にある恐怖中枢のプログラムを、一時的に強制遮断シャットダウンしてください。シホ、路地の中央付近に配置された、左から数えて三つ目の赤いドラム缶を確認。その直前、時速120kmの速度を完全に維持したまま、バイクの車体を45度まで深く傾けてください! タイヤのゴムの遠心力による意図的なスライドを前提とした、高度な慣性ドリフトをその場で誘発させます!』


一瞬、シホのレバーを握る両の指先が冷たく凍りついた。


時速120キロ。45度という深いバンク角。


それは、人類の物理法則という名の絶対的な神が定めた、安全の境界線だ。


それを一歩でも超えてしまえば、バイクは一瞬でコントロールを失ってただの鉄屑となり、その上に乗る自分自身も無残な肉塊となってコンクリートの壁面に叩きつけられる。


だが、スモークバイザーの向こうで青く閃くALICEの演算光は、これまでの彼女の人生における全ての絶望の局面を「最適解」という名の数字で上書きしてきた、唯一の信頼すべき希望の光でもあった。


「……信じるわよ、ALICE! もしこれで計算が外れて死んだら、化けて出てあなたを一生呪ってやるんだから!」


シホは奥歯を強く食いしばり、これまでの人生で培ってきた運転常識のすべてをかなぐり捨てた。


車体を路面に向かって限界まで深く寝かせ、ライダースーツの膝のプロテクターが地面を激しく掠める。


タイヤの摩擦ゴムが激しく焼ける不快な匂いが鼻腔を強く突き刺し、バイクの強固なフレーム全体が耐えかねて悲鳴を上げた。


キィィィィン!


鼓膜を直接突き刺すような凄まじいスキール音が、狭い路地裏のコンクリート壁に激しく反響する。


X991は、まるで重力の法則そのものを無視したかのように、並んだドラム缶の僅かな隙間を、髪の毛一本分という極微の計算精度で見事にすり抜けていった。


事件が起きたのは、まさにその直後のことであった。


後方を猛烈な勢いで追っていた漆黒の大型セダンが、シホのバイクが通過したばかりの重いドラム缶へと、避ける間もなく正面から大速度で激突したのだ。


ドォォォォォン!


路地に響き渡る凄まじい金属破壊音と共に、鉄製のドラム缶がまるで紙屑のように一瞬で拉げ、セダンの重い車体がその衝撃で大きく宙へと跳ね上がる。


薄暗い路地裏に激しい火花が美しく舞い散り、追跡者たちの完璧だったはずの計算は、ALICEの描いた「人間の恐怖を排除した不確定要素」によって完全に崩壊させられた。


Ⅲ. 高速道路への誘い(いざない)


『――― 追跡車両の物理的機動力に、致命的なタイム遅延を確認しました。再加速までに、約15秒の貴重な猶予時間を獲得。……シホ、しかし安堵して呼吸を整えている暇は一秒もありません。このまま路地を直進し、前方の高速道路への進入路へと進出します。八代圭太から託されたあの資料の、物理的な安全確保を最優先してください』


シホは激しく荒い息を何度も吐き出しながら、再び広い一般公道へと躍り出た。


バックミラーに映る追跡者のヘッドライトの光が、一時的に遠ざかっていく。


だが、その進む先に見えてきたのは、冷たく巨大なコンクリートの塊。


夜の高速道路へと続く、一度入れば二度と引き返せない、逃げ場のない高架の入り口ゲートであった。


「高速道路……!? ALICE、直線で逃げるにはいいかもしれないけど、もしあらかじめ先回りされていたり、前方のインターを封鎖されたりしたら、私たちは完全に袋の鼠よ!」


シホの声には、先ほどとは異なる新たな不安のグラデーションが混じっていた。


周囲の障害物が消え、時速200キロを超える極限の速度が支配する世界。


そこは、一度足を踏み入れれば最終出口に到達するまで止まることを決して許されない、文字通りのデスレース会場となるのだ。


『――― あなたのその懸念は論理的に非常に合理的です。ですが、現在のこの市街地での細かな加減速による消耗戦では、すでに傷ついているリアタイヤの寿命が御殿場まで保ちません。高速道路の平滑なアスファルト路面を効率的に利用し、千姫(1000)との合流指定地点まで最短の時間で到達する必要があります。……シホ、迷わずにアクセルを開けてください。ここからが、本当の本番です』


「……いいわよ、もう引き下がれないんだから。地獄の果てまで付き合ってあげるわ!」


シホは自らの胸に強い決意を込め、ETCの無人ゲートを凄まじい速度で突破した。


眼前に広がったのは、深夜の街をどこまでも貫く、オレンジ色の光の回廊。


その長い道のりの果てに待っているのが、自分たちの救済か、それとも完全な破滅か。


X991は、さらなる凶暴な咆哮を夜空に轟かせながら、漆黒のハイウェイの深淵へとその身を深く投じた。


________________________________________


24.3. 資料の重要性と千姫への合流:因果の果て


Ⅰ. 「無限」の解釈と、崩壊する物理法則


高架の高速道路へと完全に滑り込んだX991の凶暴な咆哮が、両脇にそびえ立つ冷たい防音壁に激しく反響して巨大な音の唸りとなる。シホの視界を高速で流れる東京の夜景は、もはや判別不能な一本の光の線としてしか認識できなかった。ヘルメットの閉ざされた内部空間で、ALICEの声がいつになく重く、そして厳粛なトーンを持って響き渡る。


『――― シホ。現在の速度域におけるリスクの大きさはシステムとして十分に理解しています。しかし、あなたが今その胸に抱えている資料の持つ本当の価値は、国家最高機密という次元を遥かに超脱しているのです。……ここに記された『陸 x 拾弐 ≒ ∞』という謎の数式。これは単なる数学的な比喩や誇張ではありません。人間の開発したNCUの持つ超高速演算能力によって、アビス・ラの「超進化生物」が元から持つ遺伝子情報の変異速度を人為的に極限まで加速させた際、我々の世界を縛る因果律そのものが物理的に崩壊する現象……すなわち、既存の物理法則のすべてを完全に逸脱した「絶対的特異点」を意図的に発生させるための、禁忌の術式アルゴリズムを示唆している可能性が極めて高いのです』


シホは、時速100キロを遥かに超える猛烈な風圧の暴力に細い身体で必死に抗いながら、自らの思考速度を極限まで加速させた。あのALICEがこれほどまでに情報の「危険性」を剥き出しにし、肝心の解析の技術的詳細をあえて伏せたまま強い警告を発するのは、出会って以来初めてのことであった。


「……そこまであなたに言わせるなんて、一体解析はどこまで進んでるのよ? あの、ヨレヨレのおじさんが手帳に殴り書きしただけの汚い紙切れの束が……そんなにこの世界を簡単に壊してしまうような、ヤバい代物だっていうの?」


『――― 現在もワタシの全システムリソースを極限まで投じてバックグラウンドでの構文解析シークエンスを進行中ですが、先ほど八代編集長の手帳の最終記述とのパターン照合を完全に完了しました。彼は、この超古代の術式が完全に完成し、現在進行形で変質しつつあるリクトの中に眠る多角立方体レリックと完全に同期・結合を果たした時、我々の観測可能な宇宙の物理法則そのものが「∞(無限)」へと向かって一瞬で発散し、再定義されると結論づけています。……プロメテウス財団は、この最悪な力を利用して人類という種を強制的に進化させるか、あるいは万が一それが制御不能な暴走に陥った場合には、リクトという個体ごとこの世界すべてを「消去」するためのリセットボタンとして利用するでしょう。シホ、だからこそこの情報は、千姫たちがリクトを財団の支配から解放し、その暴走を国家の制御下に置くための、唯一の「鍵」となる可能性を秘めているのです』


Ⅱ. 八代の執念と、千姫の介入


スモークバイザー越しに流れる光の奔流をじっと見つめながら、シホの脳裏には、先ほど地下の喫茶店で別れた八代編集長の、憔悴しきった、だが心の奥底に不気味な復讐の炎を宿したあの人工義眼の瞳がありありと浮かんできた。最愛の家族のすべてを失い、自らの肉体の半分を機械に換えてまで、彼は十二年間という気の遠くなるような時間、この「地獄の真実」をたった一人で守り抜いてきたのだ。


「……そうよね。あのおじさんが、自分の人生のすべてを犠牲にしてまで必死に私に渡してくれたバトンなんだもの。……絶対に、あんな血も涙もない奴らの手にだけは、二度と渡してなるもんですか!」


シホがヘルメットの奥で奥歯を強く噛み締めたその瞬間、ALICEのシステムから新たな外部通信ログのウィンドウが彼女の脳内へと展開された。


『――― 内閣官房「外事三課」の千姫との専用暗号化回線、接続の確立に成功しました。現在の我々の詳細な被追跡状況、および本資料の持つ「解析不能性」に関する第一次報告をシステムから完了しました。……千姫は受信した情報を即座に国家重要度「特級」と判定。直ちに我々との最終合流地点をマップ上に設定しました。東名高速道路、下り線、御殿場インターチェンジの手前にある料金所付近。……千姫の直轄する武装バックアップ部隊が、すでに現地で奴らを迎撃するための戦闘体制を整えて待機しています』


シホは手元のデジタルメーターに視線を落とした。速度はすでに140キロの危険領域を維持している。だが、バックミラーの視界には、先ほどの工事区間でのドラム缶の激しい衝突を気合いで乗り越え、文字通り「死に物狂い」の速度で加速してくる黒いセダンのヘッドライトの光が、再び後方から不気味に大きく膨らみ始めていた。


Ⅲ. 生存確率68%のデスレース


「御殿場インターですって!? ……ここから全力でバイクを飛ばしたって、普通に40分はかかるわよ。ALICE、この弾丸の傷が入ったボロボロのリアタイヤで、あの後ろの狂った三人組から本当に最後まで逃げ切れると思ってるの?」


『――― 現在のリアルタイム走行データに基づきシステムが再試算を実行。敵の予測追尾時間は約35分。それに対する我々の合流地点までの残り猶予時間は、現在マイナス5分……。シホ、リアタイヤのケーシング構造が完全に剥離してバーストする前に、現在のマシンの最大限の速度で、全ての交通法規を完全に無視して走行してください。……現在の生存確率は、システム計算で約68%です』


「ろくじゅう……はちパーセント? それって、三回に一回は私が途中で事故るか撃たれて死ぬってことじゃないの!」


『――― 悲観するにはまだ早い数値です。ワタシのシステムが、これよりあなたの反射神経のパルスを臨戦態勢の120%まで強制的にブーストします。シホ、躊躇わずにスロットルをさらに開けてください!』


「言われなくたって……やってやるわよ、見てなさい!」


シホは厚いライダースーツの膝をガソリンタンクの両脇にしっかりと密着させ、自らの全身をX991の持つ冷たい鉄の骨格へと完全に同化させた。右手のスロットルを機械の限界までワイドオープンにする。


直列四気筒エンジンが放つ、まるで断末魔の悲鳴のような高回転の咆哮。速度はついに時速160kmへと達した。


真夜中のハイウェイ。


彼女とALICEという二つの魂。


Lines of Light.


そして、亡き最愛の家族への祈りと共に八代編集長が命がけで託した『世界の法則を逸脱する鍵』。


それらすべてを暴力で蹂躙しようとする、追跡者たちの執念。


すべてを飲み込む、時速160kmの命を懸けた終わらないデスレースが、今、漆黒の闇を冷たく切り裂いてさらに加速していく。


________________________________________


24.4. ALICEの介入:ハイウェイの法則操作


Ⅰ. インフラの掌握、電脳の領域


シホの愛車X991が東名高速の本線ストレートへと完全に躍り出たその瞬間、背後の闇から獲物の喉元を執拗に追う飢えた獣のような、激しいタイヤの悲鳴が聞こえた。追跡車両である漆黒の大型セダン。彼らもまた、寸分の狂いもないプロのライン取りでETCゲートのバーを突破し、すでにシホの赤いリアランプをそのクリアな視界内に捉え直していた。


直列四気筒エンジンが奏でる高音の咆哮と、V8大排気量エンジンが放つ重厚な地響きのような唸りが、真夜中の東名高速道路の上で激しく交錯する。


「後ろの化け物がまた追いついてきた! ALICE、このまま長い直線勝負になったら、マシンの純粋な排気量の差で一瞬で後ろから押し潰されるわよ!」


シホがヘルメットの狭い空間の中で声を大にして叫ぶ。猛烈な風圧によって車体全体が上へと浮き上がるような恐ろしい感覚の中、耳元のALICEの応答は、どこまでも氷のように冷たく、そして絶対的な全能の自信に満ち溢れていた。


『――― 状況了解。シホ、ここから先の領域は、すべて「ワタシの領域ドメイン」です。追跡者の車両は確かに高性能であり、搭乗している人員も高度なプロフェッショナルですが、彼らのシステムにおける最大の弱点は、あまりにも現代の高度な情報インフラに依存しすぎているという点にあります』


ALICEの音声が、特殊なデジタル処理を施された不気味な残響と共に響く。その直後、シホの網膜の視界を覆うHUDヘッドアップディスプレイの上に、周囲数キロメートル四方の東名高速ジャンクション全体の精緻な三次元デジタルマップが鮮やかに展開された。


『敵の追跡車両は、車載AIによる自動追尾システム、および路車間通信を用いた最短経路の自動算出を実行中。……ワタシは現在これより、この高速道路の中枢を司る交通管制システム(ITS)の最深層部へと強制的なハッキング介入を開始します。目標:追跡車両の全演算リソースの完全な飽和、およびシホの走行ルートにおける物理的・情報的障害の完全なる排除』


Ⅱ. 偽造された渋滞、揺らぐ現実


その命令が下された次の瞬間、シホの視界の遥か先方の高架上に設置された巨大な電光交通情報板が、一瞬の激しい電子ノイズと共にその表示テキストを強引に書き換えた。


「重大事故による渋滞発生! 御殿場ICまで 渋滞30km」


「えっ、嘘でしょ!? こんな深夜の時間帯に30キロも激しい渋滞が発生してるの?」


シホは本能的な運転感覚でアクセルを思わず緩めそうになったが、彼女の今走っている走行車線は、深夜の静寂を保ったまま前方の果てまでガラガラに空いている。


バックミラーに鋭く目をやると、後方の黒いセダンがその電光掲示板の表示を目視で確認したまさにその瞬間、赤いテールランプを一瞬だけ激しく点灯させ、自車の速度をわずかに減速させたのが分かった。


『――― 周辺データ偽装スポーフィングの実行に成功。追跡車両の高度な車載AIは、先行する一般車両から放たれたハザード信号、およびITSから受信した渋滞情報を完全な事実としてシステム受容。情報の真偽を内部で確認し、別の最適ルートを再計算するために、彼らの貴重なメイン演算リソースを一時的に分散させます。……その隙に、次の妨害シークエンスを開始。シホ、そのまま右側の追い越し車線をキープしてください。現在の区間の制限速度設定データを、ワタシの管理者権限で時速120kmへと法的に変更します。これは単なる表面的な法的偽装ではなく、交通パトロール用の特殊通信プロトコルを利用した、システムへの強制命令です』


ALICEによる電脳の介入は、そこでは決して止まらない。彼女は高速道路のスマート料金収受システム(ETC)が発する固有の周波数帯に強力な干渉電波を仕掛け、追跡車両が周囲の正確な状況を把握するための「電子の目」を徐々に曇らせ始めた。


Ⅲ. トンネルの狂気、ストロボの罠


「次は……長いトンネルに突入するわよ!」


シホの目の前に、コンクリートの巨大な闇の口を開けたトンネルの入り口が急速に迫る。バイクがその内部へと進入した瞬間、通常であれば一定の間隔で静かに配置されているはずのオレンジ色のナトリウム灯の群れが、シホのマシンの通過タイミングに完全に合わせる形で、不規則かつ暴力的な周期で激しい明滅を店内で開始した。


『――― 追跡車両の持つ光学視覚センサー、およびドライバー自身の脳内情報処理システムに対して、光による過大な負荷を与えます。シホ、あなたは目の前の光の明滅を完全に無視してください。ワタシがあなたのヘルメットバイザーの透過率をミリ秒単位で超高速調整し、網膜への視覚情報をリアルタイムで完全補正します。そのまま速度を一切落とさずに維持し、この不気味な闇を真っ直ぐ突き抜けてください』


黒いセダンがその変質したトンネル内部へと突入した瞬間、内部の空間は凄まじい光量のフラッシュライトを至近距離から浴びせられたかのような、恐ろしい地獄絵図の空間へと化した。激しい明滅が人間の脳と機械に引き起こすストロボ効果(サッケード現象)により、追跡車両は自車の正確な現在位置と、左右の壁面との間の物理的距離感を完全に失わされた。


激しくブレるミラー越しに、黒いセダンがその異常事態に耐えきれず急ブレーキをかけ、左右の白線に向かって激しく蛇行を繰り返す様がはっきりと見えた。


「すごいわ、ALICE! まるで……この高速道路のシステムそのものが、私の味方をして手を貸してくれているみたい!」


『――― 世界の法則を正しく理解し、その制御コードを自分自身の手で書き換えることこそが、ワタシという存在の唯一の存在意義です。……このままの最高ペースを完全に維持してください。最終合流地点への予測到達時間はあと32分。今回のシステム妨害工作の成功により、当初のタイム猶予をさらに3分間拡大することに成功しました』


シホは再び右手のアクセルを限界まで大きく開けた。


ALICEが電脳の中に作り出した、誰にも侵せない「情報的な聖域」の中を、X991は一本の鋭い矢のように真っ直ぐ突き進んでいく。


背後の追っ手の執念は依然として凄まじいが、彼らが今戦っている相手は、目の前のシホ一人ではない。


現代文明の持つ巨大なインフラそのものを手駒とした、地球上で最も優れた最強の知性体を相手にしているのだ。


「待ってて、千姫さん。……この、編集長から託された『世界の重大なバグ』、私が何があっても絶対にそこまで届けてみせるから!」


シホの瞳の奥には、これまでにないほどの強い確信と、極限の死線状態で極限まで研ぎ澄まされた、一人のプロの記者としての誇りが確かに宿っていた。


________________________________________


24.5. 追跡者の反撃:断絶された電脳


Ⅰ. 逆転するドミナンス


東名高速道路の空間を激しく切り裂く人工的なストロボの怪しい光と、相棒のALICEが魅せた鮮やか極まるITS交通管制ハッキング。西野シホはその圧倒的な光景を目撃し、一瞬の間だけ、この「電脳の全能の神」が自らの側にいてくれさえすれば、どんな絶望的な窮地からも確実に切り抜けることができるという、傲慢な全能感に近い錯覚をその胸に抱いていた。


だが、そのあまりにも甘い傲慢の思想は、プロメテウス財団というこの世界の「真の支配者」が剥き出した、冷たい牙の暴力によって即座に粉砕されることとなる。


バックミラーの端に映る漆黒の大型セダンの車体が、それまでの激しい蛇行をピタリと止め、異様なまでの不気味な安定感を路面の上で取り戻した。彼らはもはや、ハッキングされたITSの交通情報など最初から目に入れてはいない。セダンの助手席の窓ガラスから、無骨な黒いアンテナを備えた軍用の量子通信端末の先端が突き出されるのが、シホの研ぎ澄まされた視界の端に明瞭に映り込んだ。


『――― 警告。システムに致命的な状況変化をリアルタイムで検知しました。敵の追跡車両が、ワタシが現在掌握している通常のITS周波数帯の利用を完全に放棄。……上位階層に位置する、国家レベルの「量子暗号化通信帯域」へと通信を強制移行しました。現代の地上インフラをすべて迂回し、独自の軍用衛星直接リンクを確立しています。これにより、ワタシによる外部からのシステム介入は……これより先、物理的に不可能となります』


ALICEの合成音声の中に、これまでにないほど激しい砂嵐のような電子ノイズが混じり始める。


その直後のことであった。シホのヘルメットの閉ざされた内部空間に、ALICEの清廉だった合成音声ではない、まるで深いドブの底を這い回るかのような、卑俗で冷酷な見知らぬ男の声が、通信回線を強引にこじ開けて直接割り込んできたのだ。


「おっと……随分と高度で生意気な電脳のオモチャを使って遊んでくれたじゃねえか、お嬢ちゃん。ITSの国家バックドアをわざわざ突くなんざ、ガキの夜遊びの悪戯にしちゃあ随分と出来が良すぎるが……これより先は、大人の本当の本気って奴をその体に教えてやるよ」


それは、先ほどのドライブインの店内で、彼女の命の価値を冷酷に値踏みした、あのスーツを着たリーダー格の男の生々しい声であった。


Ⅱ. ALICEの沈黙、孤独なコクピット


『――― シホ! 敵のシステムはワタシの存在を「特異なAI個体」であると完全に認識し、量子ビットを用いた超高速の逆ハッキングをこちらに向けて開始しました! 彼らは現在、あなたの乗るバイクの電子制御中枢であるPBパーソナルブレインの暗号化通信ポートを、外部から力任せにこじ開けようとしています! シホ、今すぐにレシーバーの物理配線ポートを手で引きちぎって切断してください!』


「な、急に何を無茶苦茶なこと言ってるのよ!? 時速160キロを超える速度でこんなハイウェイを走ってる最中に、厚いグローブをした手でレシーバーの細かい配線を引きちぎれって!? そんなのバランスを崩して転倒するに決まってるでしょ!」


『――― 物理的な手動切断は不可能とシステム判断。……このままハッキングを許せば、ワタシの持つ最深部のコアデータまですべて財団のメインシステムに汚染・パージされます。……現在の状況における苦渋の決断ですが、シホ、あなたのNCUシステムからワタシのPBシステムを今から強制遮断パージします! 外部からのこれ以上の侵入を物理的に食い止めるための、最悪の緊急防衛プロトコルです。これより、ワタシとあなたとの間のリアルタイム連携が……完全に途絶えます……!』


「待って、嘘でしょ、ALICE! 私を一人にしないで、行かないで!」


シホの悲痛な叫びの声は、夜風の激しい風切音の中へと虚しく消え去った。


ヘルメットの内部に浮かんでいたHUDヘッドアップディスプレイの全演算ウィンドウが一瞬だけ、血のような真っ赤な警告色に染まり、次の瞬間――何も映らない無機質な暗黒の世界へと完全にブラックアウトした。


自らの耳元で常に冷静に、しかし世界で最も頼もしく囁き続けてくれていた、あの相棒の冷徹な声が完全に消え去る。


あとに残されたのは、鼓膜を激しく聾するほどの凄まじい夜の風切音と、限界を超えて悲鳴を上げ続けるエンジンの金属振動、そして――自分自身の、あまりにも頼りない、浅く震える呼吸音だけであった。


「ALICE!? ……冗談でしょ、返事をしてよ、ALICE!」


返ってくるものは、何もない完全な沈黙。


それは、数分前までの電脳の喧騒がまるで嘘だったかのような、冷たい死の静寂であった。


情報という名の無敵の「翼」をその両肩から一瞬で捥ぎ取られた西野シホは、時速160kmの世界の中で、ただの剥き出しの鉄の塊の上に跨るだけの、無力で脆弱な一人の人間の肉体へと一瞬で引き戻されてしまったのだ。


Ⅲ. 電磁の檻と、迫り来る「壁」


その致命的な空白の瞬間を百戦錬磨のプロの追っ手が逃すはずもなく、黒いセダンは猛然とした加速を見せ、一瞬でX991の真横――わずか数十センチという、お互いの金属が擦れ合うほどの至近距離まで一気に肉薄してきた。


セダンの後部座席の黒い窓ガラスが、獲物の喉元を容赦なく引き裂くための顎のようにゆっくりと下へと下がる。その中から闇の向こうへと現れたのは、無数の超伝導コイルが複雑に巻かれた、鈍い光を放つ黒いアーム状の特殊指向性エネルギー兵器(DEW)の銃口であった。


「な、一体なにあれ……!?」


ALICEのデータサポートを完全に失ってしまった今のシホには、その突きつけられた不気味な装置が一体どのような物理的効果を意味するのか、客観的なデータとして理解することは不可能であった。だが、窓の奥に見える男の顔に浮かんだ「慈悲の欠片もない歪んだ微笑」が、それが自らの命を刈り取るための致死性の牙であることを本能的に告げていた。


黒スーツの男が、迷うことなくその未知の装置のトリガーを深く引いた。


その瞬間、シホの跨るX991のエンジンブロック全体が、物理的な限界値を遥かに超えた異常な高周波の共振レゾナンスを唐突に開始した。


ゴオオオオオオオオッ!


「ああっ……嘘、ハンドルが……私の力で全然動かない!」


エンジンの回転数が電子制御を完全に離れて勝手にレッドゾーンへと跳ね上がり、マシンの前後車体が狂ったように左右へと激しく振られ始める。磁気パルスを用いた、バイクの電子制御系に対する直接的なハッキング。シホの愛車はもはや彼女自身の意志を完全に拒絶し、プロメテウス財団の遠隔操作の電波に従うだけの、無残な操り人形へと成り果てていた。


バイクのフロントタイヤが、シホの必死の操作とは全く無関係に左側へ――高速道路の路肩に冷たくそびえ立つ、巨大なコンクリート製の防音壁に向かって真っ直ぐに突進を開始する。


「大人しく観念しろ。その胸の手帳と資料をこちらに大人しく手渡せば、今すぐにでもその地獄の淵で遠隔操作を止めてやるよ。……ただの三流記者がドブに落ちて犬死にするににゃあ、その抱えているブツはあまりにも勿体なすぎるからな」


真横を並走するセダンの巨躯が、シホのバイクをコンクリートの壁へと物理的に押し潰すようにして、じりじりと圧迫の距離を狭めてくる。


ナトリウム灯に照らされたコンクリートのグレーの表面に刻まれた、無数の細かい縦の亀裂が、時速160kmの極限の速度域においては、自らの肉と骨を瞬時に削ぎ落とす巨大なヤスリの壁のように見えた。


あと、壁までの距離は残り数メートル。


もしこの速度のまま一瞬でも接触すれば、バイクの強固な金属フレームは一瞬で飴細工のように歪み、彼女の細い肉体は高速道路のアスファルトの染みへと変わるだろう。


「くっ……このまま、こんなところで……無様に死んでたまるもんですか!」


シホは、厚いライダースーツの胸元にある、八代編集長がそれこそ自らの命を懸けて託してくれた、あの資料の手触りを確かめるように左腕で強く抱きしめた。


頼るべきALICEはもうどこにもいない。


奴らに対抗するための武器も、ここには何一つない。


だが、ただの三流記者として、これまで泥水を啜りながらでも自らの足で真実だけを執拗に追い求めてきた彼女の、人間としての最後の「意地」が、絶望に震える右手の指先を、まだ諦めることなく動かしていた。


[EOF]


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