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『ブレイク・ネクサス』改訂版  作者: 嵗(sai)
第二部:ネクサス・ロジック

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第二十五章:壁際のエスケープと鉄の擁護者たち

25.1. 絶望のカウントダウン:一秒半の永遠


Ⅰ. 摩擦と共鳴の旋律


東名高速道路、御殿場インターチェンジ付近の深い闇に包まれた下り線。漆黒の夜の帳を強制的に切り裂くはずのヘッドライトの鋭い光の束が、今やシホにとっては自らの死を冷酷に先導する不気味な先導灯へと成り下がっていた。


時速160km。秒速に換算して約44.4メートルという、生身の人間にとっては立ち入るだけで肉体が引き裂かれかねない極限の速度域において、西野シホの愛車である直列四気筒の怪物バイク『X991』は、その真の所有者である彼女の自由な意志を完全に拒絶し、プロメテウス財団の手中にその制御を握られていた。


「……あ……ああっ……動いて、お願いだから……ッ!」


シホの両腕は、アルミセパレートのハンドルバーから直接伝わってくる異様な高周波の金属微振動によって、またたく間にその固有の感覚を奪われ、冷たく麻痺し始めていた。追跡者の漆黒のセダンから容赦なく放たれた特殊指向性電磁波兵器(DEW)の不可視のエネルギーは、バイクの心臓部である電子制御ユニット(ECU)の論理回路を単に焼き切るのではなく、車体全体の金属骨格に特定の共鳴レゾナンスを引き起こすことで、物理的な操舵システムそのものを特定の角度で完全に「固定」してしまっていたのだ。


エンジンの放つ咆哮は、もはや正常な内燃機関のそれではなく、金属同士が激しく削り合って悲鳴を上げる断末魔の叫びであった。キィィィィィィィィン――という、鼓膜の奥を直接ナイフで突き刺すような不快極まる共振音が、X991の強固なツインスパーフレームを木端微塵に破壊せんばかりに激しく揺さぶる。


そして、シホの固定された視線の先には、決して逃れることのできない最悪の「終焉」が、冷酷な巨大の壁としてそびえ立っていた。路肩の側にどこまでも続く、分厚いコンクリート製の頑強な防音壁。それは過去数十年間にわたり、数え切れないほどの大型車の排気ガスと激しい雨風に晒され、薄黒く煤け、生身の人間に対する無機質な殺意をその表面に剥き出しにしている。


(相棒のALICEのデータサポートもない……バイクの全制御も奴らに奪われた……嘘でしょ、本当に私はこのまま、この冷たくて暗いコンクリートの壁に正面から突っ込んで、跡形もなく終わっちゃうの……!?)


ヘルメットの内部を覆っていたHUDヘッドアップディスプレイは、通信をパージされた瞬間から冷たく消灯したままである。いつもなら、現在の絶望的な状況からのミリ単位での緊急回避確率や、肉体の生存率を高めるための最適ラインを機械的かつ冷徹に指示してくれる、あの生意気で、しかし誰よりも頼もしかった相棒の合成音声は、もう二度と彼女の耳元には届かない。


周囲にあるのは、鼓膜を狂わせる激しいハイウェイの風切音と、自分自身の脆い肺が、肺胞の隅々まで必死に酸素を求めて激しく喘ぎ、酸素を貪る情けない生体音だけであった。


シホは、この時速160kmの極限の世界の中で、人生で初めて「完全なる電脳の孤独」が持つ本当の恐怖の意味を骨の髄まで理解した。


Ⅱ. 鉄の嘲笑と力学的死刑宣告


すぐ真横をぴったりと並走する黒いセダンの後部座席の窓からは、男が凶悪なエネルギー兵器のアームを強固に構えたまま、すでに自分たちの完全な勝利を100%確信した冷酷な嘲笑をその顔に浮かべていた。右側にそびえ立つ死の防音壁と、暴走するバイク、そして左側から圧迫してくる巨大なセダン。その三者が夜のアスファルトの上に形成する狭い死の檻の中で、男の濁った怒号が、激しい風圧の壁を強引に切り裂いてシホの耳元へと届く。


「無駄な諦めはよせ、嬢ちゃん! その無駄な足掻きは自分の貴重な寿命を秒単位で縮めるだけだ! 抱えているそのブツを今すぐこちらへ放り投げな! そうすれば、この磁気パルスの遠隔出力を止めて、せめて最後くらいは少しはマシな畳の上での死に方を選ばせてやるよ!」


コンクリートの壁までの横方向の物理的距離は、もはや二十メートルを完全に切っている。


このままのラインで激突するまでの猶予時間は、わずか約1.5秒。


非情なる客観的な力学データが、シホに対して残酷な絶対的事実を突きつけていた。


時速160kmのまま質量数百キロの鉄塊と共にコンクリート壁に正面から激突した場合、その瞬間に発生する凄まじい衝撃力インパルスは、シホの生身の体重の数百倍という天文学的な数値に達する。脳や内臓の義体化によるサイボーグ的な強化パーツを一切持たない純粋な生身の人間である彼女の肉体は、古典的な慣性の法則にそのまま従う形で、粉砕されたバイクの鋭利な金属破片と共にコンクリートの表面へと無残に押し潰され、塗り潰されるだろう。それは現代のいかなる救急医療をもってしても生存確率0%と言わざるを得ない、純粋な物理法則による絶対的な死刑宣告であった。


だが、その一秒半という、永遠の長さにも匹敵する極限の刹那の時間の中で、シホの脳細胞は生存への執念によって爆発的なオーバードライブの活性化を見せていた。


(……嫌。絶対に……こんなところで、あいつらの思い通りに死ぬなんて真っ平御免よ!)


彼女の脳裏を今この瞬間に駆け抜けたのは、人間が死の直前に見ると言われている軟弱な走馬灯などでは決してなかった。


それは、ほんの数十分前、あの地下のドライブインで自分に対して震える手で血塗られた資料を託したときの、八代編集長のあの覚悟に満ちた瞳。


十二年間という気の遠くなるような歳月、地獄のような深い孤独と财団の追跡の中で、彼が自らの命と引き換えにしてまで守り続けてきた「アビス・ラの真実」の圧倒的な重み。


そして、その世界の命運を左右する真実の重みが今、自分のライダースーツのジャケットの内側で、確かな物理的質量を持って彼女の激しい心臓の鼓動にぴったりと寄り添っているのだ。


(この八代編集長の遺した資料だけは……! この重みだけは、あんな……人を人とも思わないようなプロメテウスのヤクザ連中に、何があっても絶対に渡してやるもんですか!)


Ⅲ. 覚醒するサバイバル本能


シホは、自らの遺伝子の奥底に眠る、究極の野生的サバイバル反射神経を力ずくで呼び覚ました。


それは、高度なAIが電子演算によって算出したスマートな最適解でもなければ、軍事プログラムによって訓練された洗練された戦闘機動でもない。


かつて硝煙たなびく海外の危険な戦場カメラマンとして、あるいは治安の崩壊したスラムの暗い路地裏で命がけの特ダネを泥臭く追い回し、幾度となく本物の死地をその身一つで潜り抜けてきた三流記者・西野シホが、社会の底辺で泥水を啜りながら培ってきた「絶対的な絶境における野生のサバイバル本能」そのものであった。


彼女は、ハッキングされて鉄の塊と化したハンドルバーを自らの腕力で力ずくで押さえつけるという無駄な抵抗を、この瞬間に完全に放棄した。


代わりに、全身の強張っていた筋肉をあえて一瞬で完全に弛緩させ、バイクのフレーム全体を襲っている異常な電磁共振の振動そのものを、サーフィンで乗りこなすべき一つの「波」として自らの体幹で捉え直す。


論理と計算が完全に死に絶えたというのであれば、こちらは純粋な狂気と執念で応じるまでだ。


(ALICE……そこで黙って見てなさい。これが、あんたがいつもシステムとして「極めて非効率的だ」って鼻で笑って切り捨ててきた、生身の人間……そしてしぶとい記者の本当の底力よ!)


シホの瞳の奥から、先ほどまで彼女の心を支配していた恐怖の色が綺麗さっぱりと消え去った。


代わりにそこに宿ったのは、魂の底から燃え盛るような凄まじい執念と、一歩も退かない研ぎ澄まされた鋭い殺気。


彼女の指先は、すでに制御不能になって油圧の固まったフロントブレーキのレバーではなく、リアタイヤのダイナミックな挙動を物理的・アナログに制御するための金属ステップへと、吸い付くように素早く移動していた。


高度なAIの予測も、現代的なシステムの補助も、もはやこの時速160kmの閉ざされた世界には一切存在しない。


残されたのは、世界の中でただ一人、漆黒の風の中に剥き出しで放り出された、西野シホという一人の女の剥き出しの「意地」だけ。


冷たいコンクリートの壁が、彼女のヘルメットの鼻先を激しく掠め去るまで、あとコンマ数秒。


シホの魂は、物理法則という名の絶対的な絶望の壁を強引に跳ね除けるため、人類の限界を超えたかつてない高みへとその脳内クロックアップを開始していた。


________________________________________


25.2. 人間離れした脱出:質量と意思の相剋


Ⅰ. 情報を捨て、重力を選ぶ


コンクリートの壁面への致命的な激突まで、残りわずか0.8秒。


眼前に迫る死の壁はもはや彼女の視界の100%を完全に占拠し、無機質で圧倒的な圧迫感をもってシホの細い精神を物理的に押し潰そうとしていた。


だが、極限の恐怖の感情が脳内で完全に沸点を越えたその瞬間、シホの指先は嘘のようにピタリと震えを止め、冷徹なまでの正確な動作で自らの顎のストラップの金属ロックを強引に引き抜いた。


ヘルメット。それは現在のライダーにとって単なる頭部の防具ではない。その内部のシェルには、PBパーソナルブレインの超小型レシーバーが精密に埋め込まれており、彼女と相棒のALICEを、あるいはこの現代世界のあらゆる膨大な情報ネットワークを網羅して繋ぐための唯一の絶対的な生命線であった。これを自らの手で脱ぎ捨てるということは、高度な電脳の光を完全に永遠に失い、情報の保護が一切ない完全なる「生身の原始的な孤独」へと自ら堕ちていくことをダイレクトに意味していた。


だが、今の絶体絶命のシホに必要なのは、生ぬるい未来の「電脳計算」などではなく、目の前の現実の戦況を強引に変えるための物質的な「物理的衝撃」のエネルギーであった。


シホはヘルメットの強固なロックを完全に解除し、剥き出しになった頭部へとダイレクトに叩きつける時速160kmの猛烈な暴風の圧力に奥歯をガチガチと鳴らして耐えながら、そのヘルメットを自らの両手で鷲掴みにした。そして、すぐ真横をぴったりと並走する漆黒のセダン――その運転席側のサイドウィンドウのガラスめがけて、自らの全身のバネと筋肉のすべてを限界まで使い、渾身の力を込めて前方へと振り投げたのだ。


ガシャアアアアアン!!


強化プラスチックと最新の複合炭素素材で構成された重いヘルメットが、時速160kmという凄まじい相対運動速度のエネルギーをそのまま乗せて、セダンの運転席ガラスにピンポイントで激突した。いくら防弾仕様に準じた強化ガラスといえども、至近距離からのその質量の直撃には耐えきれず、蜘蛛の巣状に派手に砕け散り、車内のシートへと散弾のような鋭利なガラス破片が一斉に降り注ぐ。予期せぬ一撃に運転席のプロの工作員が思わず短く悲鳴を上げ、握られたハンドルがわずかに右側へと揺らいだ。その一瞬の動揺により、アームから放たれていた磁気パルスの正確な放射角度が、シホのバイクからほんの一瞬だけ左側へと逸れた。


Ⅱ. 運動エネルギーの代償


「……今よ、動けぇぇぇッ!」


シホは、バイクを縛っていた磁気拘束の檻がほんのコンマ数秒だけ緩んだその絶妙な瞬間を絶対に見逃さなかった。


彼女は固定されたハンドルバーから両手を完全に離し、死に向かって今なお猛烈な加速を続けるX991のシートの座面を、自らの両足の力で強く蹴りつけた。


時速160kmの慣性の法則に対して真っ向から抗う、文字通りの命を懸けた空中跳躍。


彼女の細い肉体が車体から完全に離脱したその直後、無人となって制御の糸を完全に失ったX991は、まるで手負いの猛獣の断末魔のような金属音を周囲に轟かせながら、目の前のコンクリート壁へと斜めから大速度で激突した。


ドォォォォォン!!


ハイウェイの空間を激しく震わせる凄まじい爆音と共に、彼女がこれまで苦楽を共にしてきた大切な愛車は、一瞬にして無数の鋭利な金属の礫となって木端微塵に粉砕された。アスファルトの暗闇に激しい火花をバチバチと散らしながら、一トン近い重量を持つ鉄とアルミの塊が、時速160km分の凄まじい物理的破壊エネルギーをコンクリートの壁面へとダイレクトに叩きつける。空中へと放り出されたシホのすぐ背後の空間を、大破したエンジンの真っ赤に熱せられた残骸が、まるで黒い彗星のような軌跡を描いて猛烈な速度で通り過ぎていった。


一方、バイクから跳躍したシホの身体は、冷たいアスファルトの路面の上へと容赦なく叩きつけられ、そのまま激しく投げ出されていた。


時速160km。秒速44メートル。


いかなる訓練を受けた人間の肉体であっても到底耐えうる領域を遥かに超えた超速度のまま、彼女の身体は路面の上を摩擦の力で猛烈に滑走していった。


着用していた厚手のライダースーツの各部に仕込まれた特殊樹脂製のプロテクターが、アスファルトとの凄まじい摩擦熱によって瞬時に百度を超える高温に達し、焦げたゴムとプラスチックの強烈な匂いを深夜の大気中へと大量に撒き散らす。運動エネルギーがすべて熱エネルギーへと強制変換され、プロテクターの強化樹脂が路面をガリガリと削りながら、ドロドロに溶けていく。


シホの身体は何度も激しく回転し、跳ね、地面に容赦なく叩きつけられながらも、自らの腹部にある、あの最も重要な資料の入ったジャケットの内ポケットだけは、両腕の力を決して緩めることなく死守し続けた。


(痛い……全身が信じられないくらい熱くて、引き裂かれそう……っ! でも、絶対に離さない……これだけは、私の命に換えても!)


脳内アドレナリンの異常分泌により、時間の流れが極限まで細かく引き延ばされていく。アスファルトのざらついた無数の粒子が、彼女の剥き出しの頬の皮膚を容赦なく掠め去っていく生々しい感触。オレンジ色の火花の中に激しく散っていくバイクの金属破片の、まるで宝石のような美しい輝き。


肺の中からすべての酸素が物理的な衝撃で完全に搾り出され、脳への血流が下がってシホの視界は次第に真っ白に白濁していった。


やがて、彼女の長い滑走は、路肩に設置された頑丈な金属製ガードレールの根本付近で、自らの背中への暴力的な打撃衝撃と共に、ようやくその終わりの瞬間を迎えた。


Ⅲ. 絶望の銃口、静寂の包囲


シホは冷たい路面の上に仰向けに倒れ込んだまま、激しい心臓の動悸の中で、焦点を結ばない瞳で夜空の虚空をただじっと見上げていた。


全身の全神経が同時に引き裂かれるような激しい激痛に包まれており、ライダースーツの内側では、彼女の肋骨の一本一本が呼吸のたびに軋んだ悲鳴を上げている。衝撃を受けた肺が強烈に酸素を求めて痙攣を起こし、喉の奥からは鉄の錆びたような生々しい血の味がじわりと広がってきた。


だが、彼女の驚異的な意識の糸だけは、この最悪の衝撃の中でも決して千切れることなく、かろうじて繋ぎ止められていた。


震える右手を痛む体に鞭打って動かし、ジャケットの内ポケットを恐る恐る探る。そして、指先に確かに触れたあの硬い紙の感触――八代編集長が最期に遺したアビス・ラの「真実の資料」が奇跡的に無傷であることを確認すると、彼女は血に汚れた唇の端で、力なく、しかし確かに満足げに微笑んだ。


キィィィィィィィッ!


路面に響き渡る無慈悲なタイヤの激しいスキール音。ヘルメットの直撃によるフロントガラスの割れから素早く体勢を立て直した漆黒のセダンが、ガードレールの横に倒れるシホのすぐ真横の位置へと静かに停車した。


バタン、というセダンの重厚なドアが左右に開く重い金属音。


車内から這い出てきた三人の大柄な男たちが、もはや一般社会の仮面を隠そうともしない剥き出しの凶悪な殺気をその全身から纏いながら、それぞれの手にした自動拳銃を構えて、地面に倒れるシホの身体を冷酷に包囲していく。


ナトリウム灯の鈍いオレンジ色の光を浴びた男たちのリーダー格が、自らの鼻先から流れる赤い血を手の甲で手荒く拭いながら、まるで地面に這いつくばる虫ケラでも蔑むかのような冷たい瞳で、シホの姿を見下ろした。


「……ほう。大した根性だ、嬢ちゃん。あの速度のバイクからノーヘルメットの状態で飛び降りて、五体満足でまだ生きて呼吸をしていやがるとはな。……だが、そんなガキのしぶとい命がけのお遊びも、これで完全に終わりだ。嬢ちゃん、その最期のしぶとさに免じて、苦しまずに一瞬で楽に死なせてやる。……さあ、そのジャケットの中にあるブツを、大人しくこちらの手に寄越しな」


カチリ、という深夜のハイウェイに響く乾いた金属音。


男の一人が、一切の容赦なく、冷たい銃口の先端をシホの額の皮膚へとダイレクトに突きつけた。


現在のシホは全身を襲う激しい激痛のあまり、自らの指先一本すら動かすことができない。


相棒の情報の光は消え去り、大切な愛車は無残な鉄屑となり、自らの肉体はボロボロに傷つき果てた。


見上げた夜空の果てには、人間の営みをただ冷たく見下ろす無感動な月。


そして、シホの目の前には、命を奪うための真っ黒な銃口。


絶体絶命という生温い言葉すら生温い、完全なる死の深淵。


それでも、彼女の血に塗れた瞳の奥には、まだプロメテウスの力に決して屈しない、一人の誇り高き記者の最後の意地がギラギラと鈍く宿り続けていた。


________________________________________


25.3. 千姫チームの介入:鉄の擁護者たち


Ⅰ. 漆黒の雷鳴と、溶解する現実


西野シホが自らの額に突きつけられた冷たい銃口の確かな金属の感触を覚え、意識の最深部でこれ以上のすべての無駄な抵抗を放棄し、静かに最期の目を閉じようとした――まさにその刹那の瞬間であった。


天の彼方から彼らの頭上へと突如降り注いできたのは、神の救いの手などという生温い言葉で表現できるようなものでは決してなかった。それは、現代の人類が築き上げた既存のすべての航空力学を根底から激しく嘲笑うかのような、常軌を逸した不気味な金属の咆哮と、周囲の空間全体の酸素を一瞬で焼き切るような苛烈なジェット噴射の爆音であった。


ゴオオオオオオオオッ!!


「なっ……!? なんだ、この音は……!?」


シホの額に銃口を向けて引き金に指をかけていた男の言葉が、上空から叩きつけられた猛烈な衝撃波の圧力によって一瞬で綺麗に掻き消される。


真夜中の東名高速道路。ナトリウム灯が作り出すオレンジ色の単調な世界を完全に塗り潰すかのように、漆黒のステルス戦闘機を極限のサイズまで小型化・有機化させたかのような、異形のフォルムを持つ隠密飛行ユニットが、高架のすぐ上空の超低空を猛烈な速度で一閃した。


そして、その機体が彼らの頭上を通過したまさにその瞬間、目に見えぬ「死の細線」が空中を走った。


それは、現代の最新兵器である高出力の指向性マイクロ波(HPM)、あるいは極細の熱線レーザー。


彼らが何が起きたのかを脳内で認識するよりも早く、唯一の足であった追跡車両の黒いセダンの四輪すべてのホイールとゴムタイヤが、まるで内側から爆発するかのような異常な超高熱によって一瞬で焼き切られ、ドロドロに溶解した。重厚だった特殊ラジアルゴムは一瞬にして炭素の液体へと変わり、セダンの重い金属車体は激しい火花を周囲に飛び散らせながら、そのままカックンとアスファルトの路面へと無残に沈み込んだ。


「クソッ、一体何が起きやがった!? 政府軍の空襲か!? それとも別の組織の仕業か!?」


突然の事態にプロメテウスの追跡者たちが激しく混乱し、獲物である生身のシホから自らの銃口と視線を外し、驚愕の表情で漆黒の空を見上げる。


その異形の飛行ユニットは、空間の慣性法則を完全に無視したかのような超人的な急減速を空中で見せ、大破したセダンの直前、わずか数メートルのアスファルトの上に、周囲の砂塵と砂埃を猛烈に巻き上げながら静かに着地した。エンジン排気口から放たれる圧倒的な熱の塊が、周囲の大気を陽炎のように不気味にゆらゆらと揺らしている。


機体の側面に滑らかに設けられた小型のハッチが、精緻な油圧システムのアクチュエーター音と共に、静かに開放された。


そこから、地球の重力そのものに逆らうかのような、極めて滑らかで洗練された所作をもって、一人の人影が深夜のハイウェイの路面の上へと静かに降り立った。


Ⅱ. 「壱零零零」の紋章


機体内から路面へと降り立ったのは、陸上自衛隊の特殊コマンド用密閉型アーマースーツ――通称「鬼神」のフレームをベースにしながら、国家の極秘資金によってさらなる未知のカスタマイズを各部に施した、漆黒の強化装甲アーマーを全身に纏う戦闘員であった。


その角張った強固な肩部装甲の表面には、夜闇の深い闇の中でも鈍く不気味な光を放つ、白い桜の国家紋章と、古風な筆体でデザインされた「壱零零零」(1000)の秘密エンブレムが、誇らしげに刻まれていた。


彼こそが、内閣直轄・千姫チームの誇る先陣であり、コードネーム「白虎」と呼ばれる男であった。


彼は降り立ってから一言の言葉も発さず、ただその場に静かに直立して存在するだけで、周囲の空間温度を数度一瞬で下げるかのような、圧倒的かつ絶対的な本物の殺気を周囲の全員に向けて放っていた。


そして、着地した飛行ユニットの機体内部に設置された、外部拡声用の高音質スピーカーから、およそ本物の女性の喉を通したとは思えないほどに低く、鋼のように冷徹な絶対的威厳を纏った「男」の合成音声が、ハイウェイの全空間に響き渡った。


千姫(飛行ユニット内部より):「周囲の全人員に警告する。これ以上の不法な戦闘行為、および日本の民間人に対する一方的な殺傷行動を、今この瞬間を以て即時停止せよ。……この東名高速のエリアは現在、日本の国家安全保障組織、および内閣府直轄の特別管理区域として暫定的に置かれた。……この命令に直ちに従わぬ者は、すべて国家に対する明白な反逆者と見なし、我がチームの権限を以て即刻この場で物理排除する」


プロメテウスの追跡者たちは、世界を股にかけるプロの傭兵としての意地と、これまでに受けてきた過酷な戦闘訓練によって、自らの脳内の一瞬のパニックを強引に抑え込み、瞬時に目の前の敵に対する冷徹な戦闘態勢へと移行した。彼らは銃口を地面のシホから完全に外し、目の前の漆黒の巨大な機体と、そこに佇む白虎の胸元へと一斉に向け直す。


「どこのお上のイヌだか知らねえが、いいところで御立派な横槍を入れやがって! 公安の秘密部隊か、それとも防衛省の飼い犬か!? 貴様らがどこの所属だろうが今の俺たちには一切関係ねえ。……ここは財団が先に目をつけた俺たちの獲場だ。邪魔をするっていうなら、その黒いアーマーごとまとめて鉄屑に変えてやるよ!」


男たちのリーダー格が、血走った目をさらに大きく見開きながら狂ったように叫ぶ。だが、飛行ユニットのスピーカーから響く千姫の返答の声には、彼らの脅しに対する動揺の一片も、怒りの感情すらも最初から存在していなかった。そこにあるのは、ただ目の前の対象を「無機質な処分資材」か、あるいは「排除すべき単なる障害物」としてのみ冷酷に認識する、絶対的な高みからの審判の宣告であった。


Ⅲ. 0.03秒の予言


千姫(飛行ユニット内部より):「……私を単なる犬と呼ぶか。どこまでも野卑で、知性の欠片もない言葉だ。……念のためにあなたたちの所属をシステムから問うてみたが、それに正しく答えるだけの最低限の知性すらも持ち合わせてはいないようだな」


「ふん、御高説はあの世で聞きやがれ! 今すぐそこから消えろと言っているんだ!」


千姫(飛行ユニット内部より):「……残念ながら、現在のあなたたちの戦術演算レベルと、その手に持つ旧時代の装備性能では、私たちの組織が規定する最低戦闘基準を大きく下回る。……白虎。これ以上の言葉による交渉は完全に決裂した。……これより戦闘を開始。終了までの予測時間は、おそらく0.03秒で完了するでしょう」


その千姫の冷徹な言葉のアナウンスが終わるか終わらないかの、まさに極微の瞬間のことであった。漆黒の装甲に身を包んだ白虎の右腕が、常人の目には残像すら残さない速度で動いた。


彼は機体の側面の陰で、まるで一本の岩のように微動だにせず構えていたその静止の姿勢から、自らの腰のウェポンラックに差していた「純粋な実体のない光の刃」のような、超高速の高周波振動ブレードの柄を、音もなく一瞬で引き抜いたのだ。


周囲の空気が、キィンと細く激しく震える。


それは、西野シホがこれまでの全人生において戦場や裏社会で目撃してきた、いかなる泥臭い「暴力」の概念とも、根本的な次元から決定的に異なる、あまりにも美しく圧倒的な未来の戦闘のテクノロジーであった。


千姫チーム。


八代編集長が自らの命が尽きる最期の間際に、その掠れた声で口にした、この破滅に向かう国の最後の秩序を裏から守るための「最後の絶対的な防衛線」。


シホは冷たい路面の上に力なく倒れ込んだまま、ただ呆然とした表情で、自らの目の前で今から始まろうとしている圧倒的な光景をその瞳で見つめ続けていた。


彼女が自らの生身の命を限界まで懸けて守り抜いた、この世界の物理法則を根底から狂わせる禁忌の「真実の資料」。


それを今、自らの目の前で確実に回収しに来たのは、同じくこの世界の一般的な法律や法則の外側の深淵に生きる、冷徹なる鉄の擁護者たちであった。


千姫:「白虎、対象の資料を最優先で安全確保せよ。……周辺の邪魔なプロメテウスの塵共は、一瞬で綺麗に掃除しろ」


静かな、そして誰の反論も許さない絶対的な破壊の命令が、夜の空間に下される。


東名高速道路の深夜の静寂は、今、極限のテクノロジーによる破壊という名の、圧倒的な「国家の審判」によって完全に塗り替えられようとしていた。


[EOF]


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