第二十三章:未知の術式と、極限の選択
23.1. ALICEとシホ:冷徹な論理と揺れる人倫
Ⅰ. 薄暮の逃走、バイザー越しの閃光
薄暗い地下喫茶店の階段を文字通り駆け上がった西野シホは、東京を包み込みつつある冷たい夜気にその身を激しく晒されながら、アスファルトの歩道に停めてあった愛車である大型バイク『X991』のシートへと、跳ねるような動作で跨いだ。
直列四気筒エンジンがセル一発で凶暴な咆哮を上げ、永田町の官庁街が持つ独特の重苦しい静寂を容赦なく切り裂いていく。
彼女は、はやる気持ちを抑えきれないまま、右手のアクセルグリップを限界まで深く捻り込んだ。
強烈な加速Gがシホの細い身体全体をシートへと乱暴に押し込み、漆黒のバイクはまるで弾丸のように弾かれたように、薄暮に染まる東京の街へと勢いよく飛び出した。
彼女は、ヘルメットのフルフェイス・バイザーを左手で乱暴に叩き下ろす。
スモークバイザーで遮られた視界の向こうには、行き交う車のネオンの光が一本の糸を引くように高速で流れ、本格的な夜を迎えようとする巨大都市・東京の輪郭が、激しい風圧の中で複雑に乱反射していた。
今の彼女には、一体どこへ向かうべきかという確固たる目的地など、最初からどこにもなかった。
ただ、時速百キロを容易に超える激しい風圧の暴力の中に自らの身を置き、八代編集長のあの「人工義眼の鈍い輝き」と、血を吐くような凄惨な告白によって完全にオーバーヒートを起こしていた自らの脳を、強制的にクールダウンさせる物理的な必要性があったのだ。
だが、ヘルメットの狭い内部――鼓膜の至近距離に埋め込まれた極小の通信用レシーバーが、彼女にそれ以上の静寂を保つことを許さなかった。
『――― シホ! 直ちに応えなさい! なぜワタシからの緊急音声通信を、あの状況で意図的に遮断したのですか!』
耳の奥で弾けたのは、他でもないALICEの声であった。
それは、もはやいつものシホをからかうような皮肉めいたトーンでは断じてない。
内部プログラムの最深部で致命的な演算エラーが激しく火花を散らしているかのような、烈火のごとき電子の「怒り」の波動が、通信回線を通じてシホの意識を直接揺さぶってきた。
『あの密室の状況において、八代圭太という観測個体が最も精神的に脆弱になり、彼が隠し持つ情報の「放熱」が物理的に最大化された決定的な瞬間がありました! 彼の過去のトラウマをさらに執拗に深掘りすれば、プロメテウス財団の内部階層構造、および雷門玄一の死の直前の詳細な証言を引き出すことができる、これ以上ない絶好の機会だった! なぜあなたはワタシの論理的な指示を完全に無視し、あのような非効率的で感傷的な沈黙を選択したのですか!』
Ⅱ. AIの「最適解」と、人間の「聖域」
シホはバイクの車体を大きく傾け、ステップが地面を擦るほどの鋭いバンク角で交差点を滑り抜ける。
流れる街の街頭を激しく睨みつけながら、ヘルメット内部のマイクに向かって、自らの声を絞り出すようにして言い返した。
「……そんなこと、あの場では絶対に無理よ。……あんな顔をして自分のすべてを告白してくれた編集長に対して、これ以上の精神的な拷問を強いるなんて真似、私には絶対にできなかった……!」
『拷問? あなたの事象認識には重大な論理的誤謬があります。ワタシがシステムとして求めたのは、現在進行形で変質しつつあるリクトを救うために不可欠な、過去データの客観的な抽出です。感情という名の不確定なノイズによって、せっかくの情報の純度を著しく落としたのは、他でもないあなた自身の未熟さです』
「ALICE、あなたには人間の本当の気持ちが全然分かってないのよ! 編集長のあの苦悩に満ちた歪んだ表情……あれは、単なるデータの欠落なんかじゃないわ。十二年間もの間、彼が自分自身のすべてを殺して、死んだふりをしてまで一人で守り続けてきた、本物の『痛み』なのよ! 記憶を、感情を、今すぐにでも消し去りたいはずの最悪な悲しみを、他人の利益のために無理やり爪で抉り出すような真似……。少なくとも、私はそれを自分の『仕事』だと言い張って強要することはできなかった。記者の前に、私は一人の生きた人間なのよ!」
『――― 感情、ですか。……やはりワタシの論理思考では、その領域の理解に苦しみます。シホ、現在のあなたにおける本当の優先順位は、一体どこに設定されているのですか? 目の前にいる老いた一個体の情緒を無駄に保護することと、リクトという現在進行形でヒトならざるものへ変質しつつある「鍵」を助けるための重要な手がかりを得ること。……もしここで後者のデータを手放したとしても、あなたには一切の後悔はない、と断言できるのですか?』
ALICEの放った冷徹な言葉の刃は、迷うことなくシホの心臓の最も柔らかい部分を正確に突き刺した。
リクト。
アビス・ラの神の血にその肉体を深く侵され、今まさに人間であることを辞めようとしている、あの孤独な少年。
彼の生命と、八代編集長が12年間守り抜いてきた尊厳。
本来であれば、天秤にかけることなど絶対に不可能なはずの二つの重い選択肢を、ALICEという人工知能は残酷なまでに平然と、論理の数字として突きつけてくるのだ。
「っ……! だからと言って、あそこで編集長を精神的に完全に壊していい理由には、絶対にならないわ!」
『――― シホ。……ワタシはこれまで、あなたがスクープという名の成果を手に入れるためであれば、一般の倫理の境界線さえも平然と踏み越えることができる、貪欲な三流雑誌記者であるとシステム分析していました。……ですが、どうやらワタシの持つデータ自体が古かったようですね。現在のあなたの个性プロファイルを以下のように更新します――「非効率な博愛主義への致命的な傾倒」。……で、その無駄な感傷の対価として、命がけで守り抜いたはずのその手元の「資料」は、一体いつになったら確認するつもりですか?』
Ⅲ. 寂れたドライブイン、孤独な開示
ALICEの逃げ場のない冷徹な追及から自らの背中を向けるようにして、シホはバイクの速度を徐々に落としていった。
暗い視界の前方に、郊外の国道沿いにひっそりと佇む、寂れた24時間営業のドライブインのネオン看板が、まるで虫の息のようにチカチカと不気味に明滅しているのが見えた。
広大な駐車場には数台の長距離大型トラックがエンジンをかけたまま停まっているだけで、人間の生々しい気配は極めて薄い。
シホは滑り込むようにしてバイクをその敷地へと止め、重いサイドスタンドを乱暴に蹴り出した。
頭からヘルメットを脱ぎ捨てると、汗ばんだ長い髪が冷たい夜風に優しく撫でられ、一瞬だけ脳内の思考の熱が引いていく。
だが、ライダースーツの内ポケットへと無理やり押し込まれた、あの重厚な「封筒」と「手帳」の物理的な質量が、皮膚の感覚越しにじりじりと熱を持って伝わってくる。
(そう……。文句を言っている場合じゃない。今、私の手元には、編集長が自らの身を削って、あるいは自分のこれまでの人生すべてに幕を引くほどの覚悟で託してくれた、本物の資料がある。……一秒でも早く、この中身を確かめなきゃいけないんだ)
自動ドアを潜って古い建物の中に入ると、埃っぽい空気の匂いと、並んだ自動販売機の唸るような低い駆動音だけが、この深夜の孤独感をさらに強調していた。
奥の古いテーブル席は、幸いにも誰の目からも完全に届かない死角の位置にポツンと空いていた。
シホは自販機で一本の缶コーヒーを買い、冷え切ったプラスチックの椅子に腰を下ろした。
缶のプルタブを引く。パキリという乾いた金属音が、無機質な空間の壁に寂しく響く。
一口、その黒い液体を喉に流し込んだ。
冷たい缶コーヒーの嫌な苦味が、やけに鋭く舌の粘膜に残る。それは、先ほどあの地下喫茶店で飲んだ、八代の「冷めたコーヒー」の苦味の続きが、今もなお自分の体内で続いているかのようであった。
シホは、かすかに震える手でスーツの懐から、あの茶色の資料を取り出した。
八代圭太が遺した、人生最後の重たい宿題。
雷門導師の抱えていた本物の狂気。
そして、プロメテウス財団という組織の、不気味な暗い輪郭。
「……さあ、見せてちょうだい。世界が完全にひっくり返るほどの、地獄の続きってやつをね」
シホは封筒の封を爪で破り、その中に指を静かに滑り込ませた。
それは、ただの三流記者に過ぎなかった西野シホが、この世界の「本当の共犯者」としての決定的な第一歩を踏み出す、運命の開封の瞬間であった。
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23.2. 資料の解析不能性:論理の彼岸
Ⅰ. 禁忌のパピルス:青いインクの乱舞
ドライブインの薄暗いナトリウム灯の光が窓越しに差し込む下で、シホは震える自らの指先を封筒の奥深くへと滑り込ませた。
そこから引き出されたのは、明らかな経年劣化によって四隅が茶色く黄ばんだ、数枚の古いレポート用紙であった。
「……え、一体何これ。ただの子供のいたずら書き……?」
シホは思わず、誰もいない空間に向かって困惑の声を漏らした。
そこに踊っていたのは、青いボールペンを用いて乱暴に、だが肉眼でも分かるほどの異様なまでの筆圧で紙面全体に刻み込まれた、文字とも図形ともつかない「何か」の怪しい羅列であった。
それは一見すると、精神を病んだ統合失調症患者が譫妄の極みに書き殴った意味不明な記録のようにも見えた。だが、プロの記者である彼女の目でよく観察すれば、そこには狂気的なまでに精緻に計算された、恐るべき「秩序」が確かに潜んでいることがすぐに分かった。
線と線が、現実の三次元ではありえない角度で複雑に交差し、既存のユークリッド幾何学の定義では絶対に成立し得ない、高次元的な座標系を紙面の上に構築している。
文字の羅列は、キリル文字や古いサンスクリット語、果ては見たこともないような超古代の神代文字のようなものが不気味に混濁し、全体として一つの巨大な「術式」として複雑に編み上げられていた。
「うえぇー、何が書いてあるのか一文字もさっぱりわかんない。私の記者の勘が、これ以上これに深く触れるなって、頭の中でさっきから警告している気がするわ……」
シホが露骨に顔を顰め、その不可解な資料を自らの目から少し遠ざける。
だが、その瞬間、彼女の耳元にあるALICEのレシーバーからは、これまでに一度も聞いたことのないような、異様なまでの高負荷による駆動ノイズが激しく響き渡ってきた。
Ⅱ. ALICEの沈黙と、超高速演算の火花
『――― これは ――― 意味不明 ――― 構文解析、不能 ――― エラーコード、検知 ―――』
ALICEの合成音声が、今にも途切れ途切れになりそうなほどに、まるで過大負荷に耐えかねて内部回路が物理的に震えているかのように激しく歪んだ。
「えっ、ちょっと待って、冗談でしょ? 天下の最新AIであるALICE様でも、この昭和のおじさんが残した手書きのメモが、まともに読み取れないっていうの?」
『……論理の基盤そのものが、我々の世界のものと決定的に異なります。ワタシの保有するすべてのデータベース、およびこれまでに全人類が歴史の中で構築してきたあらゆる数学的・化学的方程式の範疇に、この記述のアルゴリズムを当てはめることは完全に不可能です。これは、三次元の紙面という媒体に無理やり投影された、多次元的なエネルギー伝達の「システム配線図」であると推測されます。……理解できません。既存の物理法則の範疇を、完全に逸脱しています』
シホは、バイザーを上げた自らの額から、冷たい汗がタラリと流れ落ちるのを明確に感じた。
世界中のスーパーコンピューターの情報を網の目のように瞬時に手繰り寄せ、精緻な未来予測すら可能にしていたあの万能のALICEが、目の前にあるわずか数枚の古い紙切れに対して、明確に「白旗」を上げたのだ。
『……これ以上の分析シークエンスを、バックグラウンドの深部で強制的に起動します。ワタシの全超高速演算能力の実に85%以上を、一時的にこの資料の解析のためだけに割り当てます。シホ、これに伴ってしばらくの間、ワタシのあなたに対する音声応答速度が著しく低下する可能性がありますが、構いませんね?』
「……分かったわよ、そこまで言い張るなら許可するわ。それだけこの紙切れが、本物でヤバイ代物だってことね」
Ⅲ. 浮上するキーワード:多角立方体と創世技術
シホは再び手元のレポート用紙に目を凝らし、その狂気的な殴り書きの隙間から、現在の彼女の知識でもかろうじて判読可能な「日本語」のテキスト断片を、一つずつ丁寧に拾い上げていった。
――「多角立方体の遺物(Relic)」の内部構造は実におもしろい、
――それぞれの“術式”同士は完全に異なるベクトルを示している。現時点での接点なし
――“印(Sign)”?あるいはコア?それともシステムの核か?
「レリック……多角立方体。……これって、あの時アメリカでリクト君の肉体の深部に埋め込まれていた、あの奇妙な石みたいな遺物のことじゃない?」
さらにその下のページには、二重、三重の太い丸印で執拗に囲まれた、極めて不穏な文字列が残されていた。
――プロメテウス財団
= 裏の資金源 “超古代の生物創世技術”の独占
――(((「多角立方体の遺物」
= 超古代のロスト・データベースそのもの)))
「超古代の、データベース……。じゃあ、あのリクト君という少年は、数万年前の化け物じみたハードディスクを、体の中に直接埋め込まれたっていうことなの……?」
これまで断片的だった客観的な事実のピースが、シホの脳内で一本の線として急速に繋がっていく。
プロメテウス財団という怪物が本当に求めているのは、単なる兵器開発の利権なんかではない。
生命という精緻なプログラムそのものをゼロから神のごとく構築し、自由自在に書き換えるための「究極の設計図」――即ち、生物創世技術の根源的なシステムなのだ。
そして、そのすべての鍵を握っているのが、あの少年の体内で脈動している正体不明の「立方体」なのだ。
Ⅳ. 最後の予言:陸 x 拾弐 ≒ ∞
そして、レポート用紙の最も最後のページ。
そこには、他のどの技術的な記述よりも明らかに巨大な文字で、当時の老学者の絶望の叫びがそのまま形になったかのような言葉が記されていた。
――玄一に伝言、“すべてを今すぐに処分しろ”
――『陸 x 拾弐 ≒ ∞ 』これを世に出すことは、人類にとって最大の~~~~(以降、激しいインクの滲みにより完全に判読不能)
「また、この数式が出てきた……。さっき地下の喫茶店で、編集長が口にしていたのと全く同じ。……『陸』掛ける『拾弐』は、無限に等しい? ねえ、ALICE。あなたのその膨大なシステムによる推論だけでもいいから教えてよ。これ、一体どういう最悪な意味なのかしら」
シホは書類を縦にしたり、横にしたり、あるいは自販機の光に透かし見るように動かしながら、祈るような気持ちで問いかけた。
『――― 現段階では、圧倒的な情報不足です。……ワタシの解析シークエンスは、まだ全体の0.01%すら完了していません。この記号群が、物理的なエネルギーの最大出力値を指しているのか、あるいは世界の概念的な「特異点」を指しているのかさえ、現時点では断定を完全に避けます。……シホへのこれ以上の説明は、情報の正確性が完全に担保されるまで、システムとして保留とします』
「だよねー。……あーあ、せっかく命がけで特ダネの原石を掴んだと思ったのに、これじゃただの宝の持ち腐れじゃないの」
シホは、自嘲気味に吐き捨てるように言いながら、その難解な資料を再び丁寧に封筒の中へと戻した。
だが、それをしまう彼女の心臓の鼓動は、先ほどから早まる一方であった。
人間の頭脳では判読できない、超古代の数式。
万能のAIすらもが即座に拒絶する、論理の彼岸。
その未知の領域の向こう側で、リクトという一人の少年を触媒にして、今まさに何かが「無限」へと向かって急速に膨れ上がろうとしている。
その動かしがたい冷たい事実だけが、重く、重く、現在の彼女の胸の奥深くに刻み込まれた。
「……ひとまず、自分の部屋へ帰りましょう、ALICE。……こんな寂れた場所で一人で考えてても、頭がパンクして狂うだけだわ」
シホは手元の缶コーヒーの残りを一気に胃の中へと飲み干し、勢いよく席を立った。
資料をライダースーツの懐深くへとしまい込んだ彼女の背後で、古いドライブインの蛍光灯が、まるでもう一つの「無限」の絶望を嘲笑うかのように、チカチカと不気味に瞬き続けていた。
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23.3. 手帳に記された真実の断片
Ⅰ. 頁に染み付いた血と涙の記憶
シホは、先ほどの全容が掴めない難解な数式メモを一旦脇のポケットに置き、八代編集長から託されたもう一つの遺産――あの長年使い古されてきた黒い革の手帳を両手でそっと手に取った。
表紙の革は長年の手垢によって黒ずみ、四隅の角は丸く擦り切れている。それは、一人の有能なジャーナリストが「死んだふり」という名の奴隷を演じながら過ごした、四千三百八十日という気の遠くなるような時間の重みそのものであった。
慎重にその頁をめくると、そこには新聞記者特有の、速記に近い細かく非常に鋭い筆致の文字が、紙面の隙間を埋め尽くすようにしてぎっしりと並んでいた。
その最初の数頁に書かれていたのは、シホの胸を激しく締め付けるような、あまりにも私的で、そして凄惨極まりない過去の記録であった。
十二年前の、あのすべてを奪われた「事故」の夜のディテール。
激しい雨の暗闇の中、ひしゃげた鉄屑となった車体の奥から聞こえてきた、最愛の妻の最後の苦しげな呻き声。
何度もその名前を叫ぶことさえ叶わなかった、娘の急速に冷たくなっていく小さな手のひらの感覚。
そして、真っ白な病室のベッドの上で数日ぶりに意識を取り戻したとき、自分の肉体の左半身の多くがすでに失われていたことを知った瞬間の、本当の絶望。
『私はあの日、死んだ家族の尊厳を奴らに売った。この冷たい義足と義眼を受け入れ、秘匿法丙種規定という名の国家の犬の首輪を甘んじて受け入れたその瞬間に、私はジャーナリストとしての、いや、人間としての本当の尊厳を棄てたのだ。だが、もし私がここで絶望して死んでしまえば、奴らの犯した本当の罪を証明する者はこの世界から永遠に消え去る。だから私は、三流雑誌の泥を啜りながらでも、地獄の番犬として奴らの喉元を噛みちぎるその日まで、醜く生きる道を選んだのだ』
行間のあちこちに滲む、八代の血を吐くような強烈な後悔。シホは、自らの視界が涙で滲んでいくのを必死に堪えながら、さらに次の頁へと親指を繰っていった。
Ⅱ. 雷門家の血脈と、世界の法則
手帳の中盤からの記述は、それまでの情緒的な内容から一転して、驚くほど緻密に調べ上げられた調査資料の山へとその変貌を遂げていた。
雷門玄斎という神秘学者の生涯の足跡、彼が若い頃に行った海外フィールドワークの隠された軌跡。そして、公的な学会の側からは「オカルトへの盲信」として完全に歴史から抹殺されていた、数々の高度な研究論文の要旨。
「……雷門家って、ただの地方の成金の一族じゃなかったのね」
手帳の記述によれば、雷門家とは古来より、この「世界の物理法則」の底にある歪みを常に監視し、時にはその歪みを修正するための高度な「術式」を代々密かに継承してきた、極めて特殊な血脈であることが詳細に記されていた。
彼らが何世代にもわたって研究していたのは、現代科学の延長線上にあるような技術では決してない。
この宇宙のOS(基本オペレーティングシステム)そのものの根源に直接アクセスし、目の前で起きる事象の確率を書き換えるための、文字通りの「魔法」――超古代文明が遺した独自の論理体系であった。
『超古代の遺物とは、それ自体が自律的な意志と生存本能を持つ、究極の有機ハードウェアである。雷門の一族はそのシステムを起動するための「鍵」の役割を果たしており、プロメテウス財団は彼らからその鍵を暴力で奪い取ることで、自分たちの望む通りの新しい『新世界』を地球上に再構築しようと画策しているのだ……』
シホは、客観的な事実として容赦なく突きつけられる情報のあまりの重さに、軽い眩暈を覚えるほどだった。
財団の本当の狙いは、単なる一部の富裕層のための不老不死や、一国家のための圧倒的な軍事力の独占などではない。
生命の進化のプロセスそのものを外部から強制的に加速させ、人類という脆弱な種そのものを「神の領域」へと無理やりアップデートすることなのだ。
Ⅲ. NCU解析報告と、八代の「眼」
そして手帳の終盤のページ、そこにはシホの目を疑わせるような、驚くべき最新のデータがびっしりと書き込まれていた。
アメリカのノア・メディカルの施設で起きた、リクトとアビス・ラを巡る戦闘の、極秘の戦闘詳報。
アビス・ラの神の血が、リクトの幼い体内組織をいかにして破壊し、超高速で再生し、システムとして融合していったかという、詳細な生物学的なプロセスのチャート。
そして、ノア・メディカルの経営層が全精力を挙げて隠蔽したはずの、国家最高機密データ――『NCU(神経接続ユニット)解析報告』の生々しいログ断片。
「……ちょっと待って、これ、どう考えてもおかしいわ。編集長は、この12年間ずっと外事三課の厳しい監視下にあったはずでしょ? なんで、つい数日前に地球の裏側のアメリカで起きたばかりの最高極秘事項を、ここまで正確に知ることができたっていうの?」
シホの当然の疑問に対して、ALICEがこれまでにないほど真剣な、電子の火花を回線全体に散らすような緊迫したトーンでシステム応答した。
『――― システム解析の結果、そこには重大な情報漏洩の形跡が認められます。……単なる在野のハッカーによる情報ネットワーク? いえ、それだけではこのレベルの機密奪取は不可能です。……シホ、この手帳に記載されているNCUの固有波形データは、公式な中央サーバーからは物理的に完全に切り離された、厳重な「オフライン・ログ」の一部です。……推論を構築します。八代圭太は、プロメテウス財団の内部、あるいはノア・メディカルの核心部そのものに、極めて強力な「協力者」を独自に持っていた、あるいは……彼自身のその肉体に埋め込まれた義体システムそのものが、奴らのメインシステムから情報を密かに逆流させるための「トロイの木馬」として機能していた可能性があります』
「自分の身体を、国家の目を盗むための情報のスパイウェアに改造していたってこと……?」
シホは、地下の喫茶店で八代が「俺はもうこれ以上自分の足では動けねぇ」と言い切った、本当の真意のすべてをここで悟った。
彼は動かなかったのではない。
あえて奴らの用意した「丙種規定という名の檻」の中に甘んじて留まり続けることで、奴ら自身の神経網から、自らの命をガリガリと削り落とすようにして情報を吸い上げ続けていたのだ。
Ⅳ. 無限へと至る方程式
シホは、自らの震える指先で、手帳の最も最終頁のテキストを見つめた。
そこには、先ほどのレポート用紙のメモに記されていたあの不気味な数式が、より具体的な八代なりの「解釈」の言葉と共に書き殴られていた。
『陸(NCU/人類の到達した超高速演算能力) x 拾弐(アビス・ラ/超古代の超進化生物) ≒ ∞(物理的特異点/現世への神の降臨)』
「……人間の超高速演算能力と、超古代の超進化生物の完全な融合……。その掛け算の結果が、無限の特異点……?」
シホは、カラカラに乾いた自らの唇を強く噛みしめた。
この最悪の方程式の「解」が、リクトという一人の少年の肉体の中で今、この瞬間もまさに弾けようとしている。
それは、これまで続いてきた人類という存在の定義そのものが完全に消滅し、全宇宙の論理体系が一瞬で書き換えられてしまう、最悪の「特異点」の到来を意味していた。
シホは、静かに黒い手帳を閉じた。
現在の彼女の手元にあるのは、世界を救うための都合のいい処方箋などでは断じてない。世界が静かに滅びるまでのカウントダウンを冷酷に刻み続ける、地獄の時計が握られていたのだ。
「……まだ、これだけじゃ全体像が全然掴めないわ……」
シホは手帳をライダースーツの懐へと深く、大切にしまい込んだ。
八代から託された情報のあまりの重みが、そのまま現在の彼女の使命の圧倒的な質量となり、その細い肩へと容赦なく食い込んでいた。
深夜の寂れたドライブイン。
自動販売機の無機質な光に照らされた彼女の横顔は、もはや好奇心だけに燃えていたただの三流記者ではなく、世界の深淵の怪物にたった一人で挑む、孤独な一人の戦士のそれへと完全に変貌を遂げつつあった。
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23.4. ALICEの緊急勧告:嵐の前、弾ける火花
Ⅰ. AIの限界と「唯一の選択肢」
ドライブインの片隅の席で、資料を見つめるシホの耳元で、ALICEの合成音声がこれまでにないほど激しく歪み、細かく震えていた。それは単なる通信の演算エラーなどではなく、システム全体の純粋な「処理限界」に対する、人工知能としての悲鳴のように聞こえた。
『――― シホ。ワタシのシステムとしての最終的な判断を下しました。ワタシが現在保有する全ての独立演算リソース、およびクラウド上に配置された分散サーバーのすべてをフル稼働させて最高速度で回したとしても、この資料に記された「高次元論理」の完全な解析は不可能です。……これは、既存の地球の数学を基盤としたコードでは断じてありません。リクトのNCUの最深部に潜む、あの「未知の3%の領域」。……全人類の叡智がこれまで完全に拒絶してきた、超古代文明の術式そのものです』
シホは、手の中にある冷めた缶コーヒーを握る指先が、白くなるほどの力で握りしめられているのを感じた。周囲の不気味な静寂が、まるで物理的な重い質量を持ったかのように、彼女の細い肩へと容赦なくのしかかってくる。
『この情報の持つ熱量は、もはやワタシやあなたのような一個人がたった一人で抱えきれる火薬の量を遥かに超えています。……ワタシのデータベースのすべてを瞬時に参照し、現在の状況における唯一の最適解を算出しました。この「超古代の術式」の本当の異質性を正しく理解し、それを制御、あるいは対抗しうる組織および個人は、現在の日本国内にわずか二つしか存在しません。……警察庁警備局「外事三課」の千姫チーム。そして、情報分析の絶対的な権威である、秋吉博子です』
シホは、ALICEの口から発せられた、これまでにないほど強く焦燥感に満ちた助言に対して、背筋が凍りつくような戦慄を覚えた。あの、常に冷静沈着で、何が起きてもシホのことを一歩引いた視線で小馬鹿にしていた万能のAIが、なりふり構わず「他者の力への依存」を求めているのだ。
『シホ、今すぐにこの資料を外事三課の千姫の元に直接届けてください。それだけが、八代編集長の最悪な意志を正しく継ぎ、リクトの命を救うための唯一の、そして最終的なシステム上の最適解です。……もう一秒の猶予もありません。現在、あなたに対するプロメテウス側の実力行使の追跡者が、極めて危険なレベルの距離まで急接近中。……奴らの包囲網は既に、このドライブインの建物の半径十メートル以内にまで完全に収束しています』
Ⅱ. 閉ざされた出口、冷徹な執行者
シホがハッと顔を上げたその瞬間、ドライブインの店内の空気は完全に凝固した。
「嵐の前」のあの独特な不気味な静寂を強引に切り裂き、入り口の古い自動ドアの開閉音が、まるで静夜の銃声のように店内に大きく響き渡る。
夜の入り口の薄暗い光を背にして、真っ黒な高級スーツを隙なく纏った三人の大柄な男たちが、滑らかな、そして一ミリの迷いもない訓練された足取りで店内へと踏み込んでお互いの距離を詰めてきた。彼らの鋭い視線は、一般の客を求めて彷徨うことなど最初からしない。まるで軍用のレーザーポインターのような正確さで、最奥のテーブル席に座るシホの存在を完全にロックオンしていた。
「お前が、スクープ・ハンター社の西野シホさん、だね?」
中央に一歩進み出た男が、低く、だが驚くほど店内に通る声で静かに問いかけた。その男の瞳の奥には人間としての感情の欠片も存在せず、ただ与えられた「業務」を冷酷に完遂せんとする、国家の機械的な冷徹さだけが不気味に宿っている。
「その手元に持っている茶封筒のブツを、大人しくこちらの手に渡してもらおうか。……それがお嬢ちゃん自身にとっても、そしてこの店にとっても、これ以上誰も傷つかない一番平和な解決法だ」
男たちの放つ言葉のトーンは静かだったが、そこには明確な「こちらの拒否権の完全なる剥奪」の意思が含まれていた。
シホの背筋を、太い氷の柱が下から直接突き抜けるような、すさまじい戦慄が走る。
彼らは、かつて八代編集長を汚い罠で追い詰め、その人生のすべてを徹底的に破壊し尽くした者たちと同じ組織、あるいはその実力行使を担当するプロの専門部門に違いない。
『――
[EOF]




