第二十二章:陸x壱弐 ≒ ∞ (プロメテウスの傷跡)
22.1. 1時間の告白と冷めたコーヒー
Ⅰ. 沈黙を切り裂く、情報の激流
薄暗い地下喫茶店の最奥、琥珀色の鈍い照明が、八代編集長の険しく、深く彫りの刻まれた顔の輪郭を不気味に浮かび上がらせていた。西野シホは、カラカラに乾いた喉を一度大きく鳴らし、胸の奥で堰を切ったように一気に話し始めた。
それは、現代社会が盲信する常識という名の薄い皮膜を根底から徹底的に覆す、呪われた旅の生々しい記録であった。
アメリカの地、ネオ・メディカル社の厳重極まる極秘研究施設で突発的に起きた、あの少年リクトの脱走劇の全貌。
血の饐えた匂いと硝煙が濃く立ち込める修羅場の戦場での、千姫率いる警察庁警備局外事三課という国家の刃との最悪な遭遇。
超古代文明の遺物「アビス・ラ」という人知を超えた多角立方体を巡り、世界の最先端を行くはずの米軍特殊部隊が一瞬にして文字通り壊滅させられたという、凄惨極まりない現実の事実。
そして、リクトのまだ幼く無垢な肉体が、その遺物から溢れ出た「神の血」を全身に浴びてしまったことで、すでにヒトという生物の枠組みを逸脱し、脳も含めたシステム全体がバイオ・ロジカル・ハードウェアへと急速に変質し始めているという、あまりにも絶望的な現在進行形の脅威――。
「……リクト君は、もう、私たちが知っているようなただの可哀想な少年じゃないんです。彼の肉体の中では、NCUの持つ冷徹な論理と、アビス・ラが内包する超古代の獰猛な生存本能が、互いの存在を激しく食い破りながら融合しようとしている。……それは、いつどこで爆発して周囲を巻き込むか分からない、最悪の核爆弾を抱えて東京の街を平然と歩いているようなものなんです」
初老の店員が、完全に感情を失った冷めた表情で、新しいコーヒーカップをテーブルへと置きに来た一瞬だけ、シホの言葉の激流は物理的に途切れた。だが、カップから立ち上る微かな湯気がすぐに空気の中に溶けて消え失せてもなお、彼女は自らの網膜に焼き付いた地獄の光景を語り続けた。
八代は、ただ黙ってその言葉を浴びていた。
テーブルの下で固く組まれた両手の指先が、時折、骨が白く浮き出るほど強く握りしめられる。彼の顔の筋肉は、極寒の地に放置されて凍りついた石像のように一ミリも動くことはなく、シホの口から吐き出される常識外れの言葉の数々を、一つ残らず自身の内側にある深い深淵へと静かに飲み込んでいった。
すべての情報を話し終えたとき、喫茶店の汚れた壁に掛けられた古びた振り子時計は、彼らが席についてからすでに一時間以上の過酷な時が経過したことを静かに告げていた。
シホは、話したことで完全に干からびた唇を動かし、すっかり冷え切ってしまったコーヒーに口をつけた。
空気中で酸化し、底へ重く沈み込んだ黒い液体の嫌な苦味が、やけに鋭く舌の粘膜に残る。それは、彼女が図らずもその背中に背負い込んでしまった「世界の裏の真実」が持つ、独特の重苦しい後味そのもののようだった。
Ⅱ. 紫煙の向こう側の「第94号」
八代は、おもむろに上着のポケットから使い古されたタバコのパックを取り出し、指先で一本を引き抜くと、百円ライターの火を近づけた。
カチリ、という安っぽい金属の摩擦音が、静まり返った店内のボックス席に異様なほどの質量を持って大きく響き渡る。
彼はそのまま天井のシミを見上げるように顔を上げ、肺の最も深い奥底まで思い切り吸い込んだ紫煙を、長い時間をかけてゆっくりと吐き出した。吐き出された煙は、薄暗い店内の蛍光灯の光に向かって、まるで生きている半透明の蛇のように複雑にのたうち回りながら、天井へと昇っていく。
「……とんでもなく、厄介なもんに手―出しやがって、この大馬鹿野郎が……」
地を這う地鳴りのような、低く掠れた声。
シホは、その八代の言葉の中に、自分の話を頭から信じてくれたという奇妙な安堵と、同時にそれ以上の根源的な恐怖がドロドロと混じり合い、熱いものが目頭に急激に込み上げてくるのを感じた。
「……私が自分から進んで手を出したわけじゃないですぅ。巻き込まれただけです。私だって、他の記者に負けないような、ちょっとした特ダネが欲しかっただけなのに……」
「お前のその、信じられないほどの『巻き込まれ体質』……今までは、この薄汚い泥沼の業界でしぶとく生き残るための、神様から与えられた天性の才能だと思って面白がっていたが、完全に俺の想定以上だ。……想定以上どころか、お前はもう、この世界の物理的な理の外側にまで片足どころか全身を突っ込みやがっているんだよ……」
「それ……絶対に私を褒めてないですよね? いくら何でもひどくないですか?」
八代はシホの精一杯の抗議を完全に鼻で無視し、灰皿を使うこともなく、すぐに二本目のタバコへと火を移した。
彼の残された瞳の奥底に、かつて自分自身が若き日に命を賭けて追い求め、そして国家という巨大な力及ばず無残に踏みにじられた「過去」の暗い残滓が、チリチリと怪しく揺らめく。
「お前が永田町の国会図書館の閉架書庫で見た、あの『超常ミステリーファイル』第94号。……お前、知っているか? まさにその号の発刊を最後に、あの雑誌はこの世の歴史から完全に消されたんだよ。……単なる販売部数の低迷による、よくある自主的な廃刊なんかじゃない。……国家の強権的な『圧力』と暴力による、組織的な存在そのものの抹殺だ」
「! ……一体、何があったんですか、その時に」
「にぃー」と、八代の唇が醜く横に裂けた。
それは、自らの無力を呪う自嘲と、今なお癒えることのない古い肉体の傷口を自ら爪で抉るような強烈な苦痛が混じり合った、歪んだ笑顔だった。
「聞きたいか? その真実を。どうしても聞きたいな、シホ。そうだろう? 経験が浅くて無知な、正義感だけが取り柄のジャーナリスト様には、これ以上ないたまらない蜜の味だろうからな? ……そうか、そうか。そこまでして、俺と同じ底なしの地獄の景色を見たいか」
八代の絞り出す言葉に宿る、冷酷な狂気にも似た異常な高揚感。
シホの生物としての生存本能が、ここへ来て脳内で過去最大級の危険警報を鳴り響かせた。この男の口から、この先にある真実の言葉を聞いてしまえば、自分はもう二度と「ただの呑気な三流記者」という安全な日常には戻れなくなる。
「……やっぱり止めます! 聞きません! 今日はお疲れ様でした、さよなら!」
シホは弾かれたように椅子を蹴り、その場から全速力で立ち上がろうとした。
だが、八代の衣服越しでも分かる分厚い手のひらが、まるで上から降ってきた鉄の枷のように、凄まじい力でシホの細い肩を完全に制止させた。
その男の眼は、もはや一ミリも笑っていなかった。
Ⅲ. 丙種規定の鎖と、共犯者の刻印
「……座れ。一度俺の前に首を突っ込んだ以上、今更逃がさんと言ったはずだ」
八代は、猫背だった背筋を不自然なほど真っ直ぐに正し、シホの瞳を正面から真っ向から見据えた。
「あの雑誌が強制的に廃刊に追い込まれた時、この俺もまた、冷たい取調室の机の上で書面にサインをさせられたんだよ。……お前が今、その身を不自由に縛られているのと同じ、あの国家の呪いの書面にな。――『情報保護秘匿法・丙種規定』。……当時のうちの優秀な編集長は、解雇された直後から完全に社会的に行方不明。一緒に泥を啜ってきた俺の先輩記者たちも、一人、また一人と不自然な事故や病気で表舞台から消し去られた。……俺だけが、この三流雑誌のドブ泥の中に自ら身を沈め、死んだふりを決め込むことで、今日まで辛うじて生き延びてきたんだ」
「ええええーっ! じゃあ、編集長も……あの外事三課の、千姫さんたちの厳重な監視下に置かれているってことですか!?」
「そうだ。俺もまた、お前と全く同じ首輪を嵌められた『飼い犬』の一匹に過ぎん」
八代は姿勢をさらに正し、まだ半分以上残っていたタバコを、灰皿の底へと抉るようにして激しく押し付けた。その無機質な動作一つに、彼が過去十数年間、誰にも明かすことができずにたった一人で抱え続けてきた、情報の持つ恐るべき重みが宿っていた。
シホもまた、その男の空気感に呑まれるようにして、自然と自らの背筋を伸ばし、硬い椅子に深く座り直した。
ほんの一時間前まで、彼らは単なる横暴な上司と、それに使われるだけの部下という関係に過ぎなかった。
しかし今、この完全に冷め切った二つのコーヒーカップが並ぶ小さなテーブルの上で、二人の間には共通の絶望と、決して逃れることのできない暗い「共犯意識」の刻印が明確に押されていた。
デジタルの網の光がどうしても届かない、アナログな古い紙の記憶の底にのみ残された、超古代文明の不気味な残響。
「……話せ、シホ。お前がその眼で直接アメリカで見てきた、あの『リクト』というガキの本当の化け物じみた姿をな。……俺がこの胸の底にずっと隠し持っている『雷門玄一』という男の狂気の深さと、一体どちらが本物か、ここでじっくりと競い合ってみようじゃねえか」
八代圭太の、人生のすべてを投げ打つような凄まじい覚悟の言葉が、地下喫茶店の淀んだ空気をビリビリと激しく震わせる。
一人の三流記者の泥臭い足と、老練な編集者の脳内に封印されていた最悪の記憶が、ついに一つの巨大な「闇」の奔流に向かって、本格的な合流を開始した。
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22.2. 八代圭太の過去と雷門玄斎の悲劇
Ⅰ. バブルの残滓と三流記者の野心
八代圭太は、手元で四本目となるタバコを深く深く吸い込み、肺の隅々の細胞にまでその有害な毒をわざと溜め込むようにしてから、長い時間をかけてゆっくりと白い煙を吐き出した。喫茶店の奥のさらに淀んだ空気の塊の中で、彼の視線は現実の壁を通り越し、数十年前の、あの狂熱と虚栄に激しく浮かされていた東京の歪んだ風景へと完全に向けられていた。
「……あの頃はな、日本全体が“イケイケどんどん”っていう得体の知れない熱病に四六時中かかっていた時代だった。俺もまだ二十代の若造でな、とにかく血の気が多くて、自分のペン一本さえあればこの世界の汚い裏側をすべて暴いてのし上がってやるっていう、身の程知らずの傲慢な野心だけが肉体を動かす唯一のガソリンだったよ」
八代の絞り出す声は、手入れもされずに放置された古い蓄音機のように低く、不快にかすれている。
「大学を出たようなエリートコースの新聞記者連中が、汚いものを見るように鼻を摘まんで避けるような、怪しげな地下のオカルト専門雑誌の編集部に、俺は自ら進んで飛び込んだ。UFOの目撃証言、偽物の心霊写真、根も葉もない都市伝説、古神道の怪しい秘儀……。世の中全体が科学の輝かしい進歩に沸き立つ一方で、大衆は心のどこかで、科学ではどうしても『説明のつかない暗い闇』を強烈に渇望していたんだ。俺は、そんな一流の連中が鼻にもかけないような情報のゴミ溜めから話題を拾い上げ、嘘か真か分からない派手なデコレーションを施しては、毎月面白おかしく紙面に書き殴っていたんだよ」
彼は自らの過去を嘲笑うように不敵に笑い、灰皿の縁に溜まった白い灰の山を、精密機械のような左手の指先で静かになぞった。
「そんな、調子に乗っていた時だった。ある裏の情報筋から、都内の外れに住む一人の奇妙な老人の噂を耳にした。名前は雷門玄斎。肩書きは高名な神秘学者、あるいは自称歴史学者。もっとも、まともな学会の世間からは『過去の古代の幻影に完全に憑かれた哀れな狂人』と冷酷に揶揄されていた男だ。だが、俺は直感したね。こりゃあ、うまくあの老人をヨイショして面白い話を喋らせれば、うちの雑誌でとびきりセンセーショナルな、伝説の連載記事が書けるぞってな」
Ⅱ. 雷門玄斎:超古代文明の預言者
八代は、当時の雷門玄斎が所有していた広大な邸宅――後にその孫であるリクトが冷酷に幽閉されることになる、あの呪われた屋敷の、今から数十年前の在りし日の姿を静かに回想した。
「実際にアポを取って会いに行ってみれば、そこは古い奇妙な書物と、どこから掘り出してきたかも分からない石板の破片に埋め尽くされた、まるで生きた人間の住む場所ではない墓場のような空間だった。だが、迎えてくれた玄斎老人の、その双眸の奥だけは、まるで底なしの深淵をこちらが覗き込むような、異常に鋭い光を放っていた。彼は、現代の主流の歴史学が『証拠がない』として完全に無視し続けている『文字が生まれる以前の超文明』……即ち、超古代文明の存在に、文字通り自らの命をガリガリと削りながら取り憑かれていたんだよ」
八代は、その老学者の高潔な情熱を心から理解しようとしたわけでは決してなかった。ただ、目の前にあるその本物の「狂気」を、自分の雑誌を売るための絶好の商品として利用したに過ぎないのだ。
「『孤高の神秘学者・雷門導師、超古代文明の驚異の遺構を語る――それは現実に存在した!』……。そんな派手な大見出しを打った俺の書いた第一回の記事は、案の定、世間のコンプレックスを抱えた一部の熱狂的なマニアやカルト信者たちの心に一気に火をつけた。雑誌の販売部数は前月比で跳ね上がり、社内の編集部は狂喜乱舞したよ。俺は次の“続きのネタ”を確実に確保するために、それから何度も、何度もあの不気味な屋敷へと通い詰め、玄斎老人の懐へと深く入り込んでいった。老人は、自らの研究を理解しない世間に疲れて孤独だったんだろうな。毎週のように顔を出す俺のことを、自分の高潔な研究の良き理解者であると、本気で信じ込み始めていたんだ」
Ⅲ. プロメテウスの影:凍りついた対面
しかし、その身勝手な物語が最悪の形で暗転したのは、連載が完全に軌道に乗り始めた数ヶ月後のことだった。
「その日、俺はいつものように新しい原稿の打合せのために、事前のアポなしで唐突に屋敷の門を訪ねた。だが、玄関を跨いだ瞬間に、屋敷の中の空気がいつもと決定的に違っていることに気づいた。いつもなら不気味なほどに静まり返っているはずの奥の応接室から、まるで氷の刃を孕んだかのような、低く冷徹な話し声が漏れ聞こえてきたんだ」
八代の表情から、わずかに残っていた大人の余裕が完全に消え去った。
「鉢合わせしてしまったんだよ。プロメテウス財団の……まあ、当時はそんな名前すら知らなかったが、その組織の『お偉いさん』とでも呼ぶしかないような、一般の人間社会からは明らかに浮き上がった異様な雰囲気を持つ連中とな。玄斎老人は、入ってきた俺の姿を見るなり、まるで自慢の息子を客に紹介するかのような晴れやかな顔で、彼らに向かってこう言ったんだ。『彼こそが儂の生涯の功績を正しく世に知らしめてくれる、現在における唯一の理解者だ』とな」
その、当時対面した黒い衣服の「お偉いさん」たちの姿を思い出すだけで、八代の指先がかすかに、だが確実に震え始める。
「財団の連中は、玄斎老人に対して、ある特定の物品の引渡しを強硬に要求していた。彼らはそれを『遺物』と呼んでいた。具体的にそれが何という名前で、この世界のどこに隠されているのかを、感情の失せた声で執拗に問い詰めていたんだ。……玄斎老人は、それの在処については確かに知っている、と答えた。だが、これは人間の手に余る、死んでもお前たちのような組織には明かせないと、頑なにその要求を拒絶し続けた」
八代は、その時の部屋中に張り詰めていた、呼吸すら困難なほどの空気感を、まるで昨日のことのように克明に語り続けた。
「財団の側は、超古代のロストテクノロジーを現代の科学で蘇らせ、全人類を次の精神ステージへ引き上げるのだと、いかにも高潔で美しい理念を淡々と説いていた。だが、玄斎老人は彼らの眼の奥にある、人間としての感情が完全に枯れ果てた『非人間的な渇き』の正体を完全に見抜いていたんだろう。……結局、その日の交渉は平行線のまま決裂し、奴らは一言の挨拶もなく、俺の横をすり抜けて立ち去った。あの時の、背中から冷たいナイフを直接突き立てられるような奴らの冷徹な視線は、今でも夢に見るほど忘れられねぇ」
Ⅳ. 惨劇の結末と三流記者の業
その日境に、玄斎老人の俺に対する態度は一変してしまった。
「数日後、俺がいつものように屋敷を訪ねると、老人は頑丈な門前で俺の顔を見るなり冷酷に追い返したんだ。『もう二度とここへは来るな、お前のような若者が巻き込まれていい相手ではない』とな。続いて、『儂の役目ももうすぐ終わりだ。儂ももうすぐ隠れる(消える)』とも小さく呟いた。……当時の浅はかな俺は心の中で思ったさ。そんなにヤバイ連中なら、最初から俺なんぞに紹介するなよ、後の祭りじゃねえか、ってな。……だが、その言葉が、俺が老人の生きた姿を見た最後になってしまった」
八代は、すっかり中身の空になったコーヒーカップの底を見つめ、その声を一段と低く、深い闇の底へと沈めていった。
「それからわずか数日後、夜中の深夜報道番組で一通の短いニュースが流れたんだ。――『昨夜未明、都内在住の自称歴史学者、雷門玄斎氏(87)が、茨城県内にある別宅の室内で惨殺されているのが発見されました』。……俺はすぐにパニックになりながら、日頃から小遣いを握らせて懇意にしていた所轄の担当刑事を裏の居酒屋に呼び出し、酒を飲ませて捜査の凄惨な詳細を聞き出したよ。現場は壁まで真っ赤に染まる血の海で、発見された玄斎の遺体には……胴体の上に、あるはずの『首』がどこを探してもなかったそうだ」
シホは、話を聞きながら思わず激しく息を呑んだ。喫茶店の周囲の喧騒が急激に遠のき、古いテレビのニュース映像の砂嵐のようなノイズが、彼女の脳裏に直接再生される。
「その最悪なニュースを聴いたあの瞬間、この俺が一体何を思ったか分かるか、シホ? ……今思い出しても恐ろしいことに、俺の汚い心の中に最初に沸き上がったのは、人間としてのまともな恐怖じゃなかった。……『これは自分にも火の粉が降りかかる、やべぇぞ』という本能的な自己防衛の危機感がわずかに三分。……そして残りの七分は、『これで、うちの雑誌でとびきり面白れぇ、出版界の伝説に残るような最悪の追悼スクープ記事が書けるぞ!』という、醜悪極まりない記者としての高揚感だったんだよ」
八代は、力なく自らの頭を左右に大きく振った。
「今思えば、つくづく俺は骨の髄まで汚い三流記者根性の塊だったよ。一人の老人の悲惨な死さえ、超古代文明の謎という壮大なパズルの、絶好のピースとしてしか見ていなかったんだからな。……だがな、シホ。俺のその『事件を面白がった汚い心』こそが、プロメテウス財団という底知れない怪物の鋭い食指を、俺自身の喉元にまで完全に引き寄せてしまったんだ。……あの忌まわしい追悼記事が出た、まさにその直後だ。俺が『丙種規定』という名の国家の鎖に繋がれ、社会の表舞台から完全に抹殺されたのはな」
地下喫茶店の薄暗い隅で、八代圭太という男の「隠された起源」が、シホの目の前で鮮血の匂いを伴って完全に暴かれた。
彼がなぜ、今日までシホのことを頑なに「三流」と呼び続け、一方で彼女を国家の闇から不器用なやり方で守ろうとしていたのか。その本当の理由が、数十年前の惨殺された老学者の、首なき死体という残酷極まる事実とともに、一本の太い線で結びついた。
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22.3. 「陸x壱弐 ≒ ∞」の残された謎
Ⅰ. 死者からの配達物
雷門玄斎が「首なき死体」という猟奇的な姿で発見され、日本中がそのあまりの異常性に激しく震えていた、事件から約一週間後。
編集長が突然消え、文字通り狂乱の極致にあった編集部の俺のデスクの上に、一通の奇妙な郵便物が届いた。
差出人の欄に書かれたその名前を見た瞬間、八代圭太の背筋には、冬の深夜の誰もいない墓場にたった一人で立たされたかのような、強烈な戦慄が走った。
そこに書かれていた名前は、『雷門玄斎』。
すでにこの世で死んだはずの男から直接届いた、ずっしりとした厚みのある茶封筒。消印のスタンプを確認すると、彼が何者かによって無残に殺害される、わずか数日前の日付になっていた。
「……あの時は、本当に両手がガタガタと震えて止まらなかったよ。周囲の目を盗んで中を改めると、そこにはページがボロボロになった、だが尋常ならざる人間の執念で全ページがびっしりと書き込まれた、分厚い一冊の研究ノートが入っていた。表紙の革には煤がこびり付き、それから……何かの古い薬品か、あるいは腐った血のような、鼻を突く独特の嫌な匂いが今でも染み付いていたんだ」
八代は、喫茶店の木製の机の上に、あたかも今この瞬間にその本物のノートがそこに実在しているかのような生々しい手つきで、精密機械の左手の指をゆっくりと這わせた。
「すぐに貪るようにして読んで驚いたぜ。そこには、彼がその生涯のすべてをかけて辿り着いた『人類から失われた歴史』の全貌が、圧倒的な狂気と緻密な論理の狭間で、ノートの余白がなくなるまでびっしりと綴られていた。正直に言って、俺のようなまともな学のない三流記者には、全体の九割がたの専門内容なんて到底理解できなかったよ。だが、ノートの最後の方……彼が何者かに殺されるわずか二ヶ月前からの記述だけは、あまりにも生々しく、ただ読んでいるだけでこちらの精神がガリガリと削り取られるような、根源的な恐怖を感じたんだ」
八代は、そのノートの文面を記憶の底の底から必死に手繰り寄せるように、重く、深く両目を閉じた。
「そこには、プロメテウス財団という組織と接触するに至った、詳細な経緯が記されていた。奴らは最初に『歴史を愛する同好の士』を自称し、学術的な共同研究と言い訳がましい美しい名分を掲げて玄斎老人に近づいた。……民間の一財団としては潤沢、という言葉では到底足りないほどの莫大な研究資金と、現代の最新科学ではその構造すら説明のつかない、超高精度の測定機器の数々を無償で提供すると持ちかけてな。孤独だった老学者は、疑いながらもしぶしぶながらも、その悪魔の誘いに同意してしまったんだよ」
Ⅱ. 遺物の目撃と、禁忌の数式
そこからの共同研究は、財団の側がどこからか持ち込んできた「ある未知のデータ」によって、老人の予想を遥かに超える加速度的な進展を見せたという。
「やがて研究は、あの日俺が屋敷の応接室の扉の向こうで立ち聞きした、例の『遺物』の具体的な存在へと辿り着いた。財団の連中は、それがこの地球のどこに眠っているのか、どういう手順を踏めば再起動できるのかを、眼の色を変えて狂ったように欲しがった。……玄斎老人は、そのノートのページに震える筆致でこう書き残していた。――『私はついに、それを見た。それに触れた。その構造を調べた』と。しかし、その歓喜の後に続く言葉は、見るも無残な、恐怖で引き裂かれたような文字で綴られていたんだ」
八代の語り口のスピードが、感情の高ぶりに応じるように微かに早くなっていく。
「『これは決して、現代の人間の世に出してはならない。もしこれを現代の未熟な科学で蘇らせてしまえば、我々人類は、かつて数万年前に超古代文明が辿ったとされる、凄惨な自滅の道を、より悲惨な形で繰り返すことになるだろう』……とな。老学者は、自分が偶然触れてしまったものの正体が、単なる古代の歴史的な宝物なんかではなく、この世界の因果律そのものを根本から破壊してしまう『神の毒』であることを、その高い知性ゆえに完全に悟ってしまったんだよ」
そして、その研究ノートの最も最後、最終ページ。
まるで自身の指から流れた血がそのまま滲んだかのような凄まじい筆致で、それまでの緻密な数理記録のすべてを嘲笑うかのように、一つの奇妙な数式が大きく殴り書きされていた。
陸 ✖ 壱弐 ≒ ∞
「『陸かける拾弐は、無限に等しい』……。一見すれば、小学校の算数すらまともにできないガキの、ただの頭の悪い落書きに見えるだろう? だが、その中央にある等号の線は、今にも紙を食い破らんばかりの凄まじい筆圧で刻まれていたんだ。陸、即ち我々が知る『六芒星(NCU:ニューラル・コンピューティング・ユニット)』。壱弐、即ちあの遺物が内包する『十二芒星』。……その二つの規格が最悪の形で重なり合い、相互接続を完了したとき、計算上の出力は物理的な無限(∞)へと跳ね上がり、この宇宙の物理法則そのものを一瞬で焼き切る特異点となる。……玄斎老人は、その最悪の数理的結論を、一人で先に見抜いていたんだ」
Ⅲ. 書けなかった真実と、絶頂の後の「破滅」
八代は、その死者から届いたノートの内容を元に、それこそ自分の記者生命を賭けた命懸けの告発記事を執筆した。
だが、その時の彼の胸の内には、ジャーナリストとしての歪んだ功名心と、一人の生きている人間としての、本能的な「躊躇」が複雑に入り混じっていた。
「記事は確かに書いた。玄斎老人の本当の名前も、プロメテウス財団という具体的な名称も、当局の鋭い目を少しでも逸らすために、当時の俺のスキルの限界まで表現を濁して変名にしたがな。しかし、彼らが研究していた超古代文明の実在、導師が自らの足で発見した前人未到の地下遺跡、そこに突如として現れた謎の『P財団』、そして共同研究という美しい名目を借りた卑劣な技術略奪。……導師はその研究成果の扱いを巡って財団の側と完全に決裂し、すべての資料を廃棄して地下に潜り、その直後に『首を狩られて消された』。……俺が持てる言葉の刃をすべて注ぎ込んで、この社会の裏側で起きている凄惨な惨劇を、世界に向かって告発したんだ」
しかし。
八代は、その記事のどこにも、あのノートの最後にあった数式だけは一切記載しなかった。
「なぜか、それだけは、どうしても記事の中に書くことができなかったんだ。……いや、本能的に躊躇われた、という表現が最も正しい。あの『陸x壱弐 ≒ ∞』という不気味な文字を、活字にして世間の不特定多数の目に放てば、その瞬間にこの世界の何かの運命が『確定』して不可逆になってしまうような、そんな根源的な恐怖が俺の指の動きを完全に止めた。三流記者としての、地べたで培った野生の直感が、そこから先だけは人間が触れてはならない神域であると、俺の脳に直接警告していたのかもしれないな」
現在の編集長は、自身の手元で何本目かもう分からなくなったタバコに再び新しい火をつけ、灰色の深い紫煙を吐き出した。
「その記事を載せた『超常ミステリーファイル』第94号は……当時のうちのような弱小雑誌としては、すさまじく売れたぜ。ははっ、どこの書店でも完売御礼だ。異例の緊急増刷をかけるって、当時の編集長が鼻息を荒くして社内で息巻いていたよ。社内では俺への賞賛の嵐が止まらず、社長室から直接、臨時の金一封まで出たほどだ。……まさに、俺の貧乏な人生における最高の絶頂期だったよ」
八代はそこでピタリと言葉を切り、手元の灰皿の底へと視線を落とした。
「……だが、その絶頂の後にやってきた反動は、当時の俺の貧弱な想像力を遥かに絶する、破滅的なものだった。……掴み取った栄光の時間は、わずか三日も持たなかったよ。記事が出てから四日目の朝、俺の出社を待っていたのは、編集部のフロアを完全に占拠した警視庁公安部、そしてそれから……真っ黒な高級スーツに身を包んだ、人間としての感情が完全に欠落した、あの外事の男たちだったんだ」
八代の背後に、この社会を裏側からコントロールする巨大な国家組織の影が、音もなく忍び寄る。
とびきりの特ダネを掴んだつもりで調子に乗っていた一人の三流記者は、その時初めて、自分が「決して触れてはいけない神の尾っぽ」をその汚い足で踏みつけてしまったことを、死を覚悟するような冷酷な沈黙の中で、嫌というほど悟ることになるのだ。
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22.4. 破壊された人生と丙種規定の鎖
Ⅰ. 見えない巨大な手
「……あの悪夢のような第94号が世に出てから、およそ二週間が経った頃だった。編集部のフロアに漂う空気は、最初の祝杯の酔いから一転して、どこからか漂ってくる得体の知れない生物の腐敗臭のような、息もできない恐怖に完全に包まれ始めていた」
八代の声は、まるで冷たい墓石の表面を鉄の爪でガリガリと削る音のように低く、冷たかった。
「ある朝、俺がいつものように出社すると、俺たちの編集部という空間が文字通りこの世から『消滅』していたんだ。泥棒が入ったというレベルじゃない。過去の取材書類、フロアの全ての固定電話、記者たちが使っていた録音用のレコーダー、さらには壁に貼られていた過去のポスターの類いに至るまで、全ての物品がめちゃくちゃに荒らされ、跡形もなく持ち去られていた。
そしてその翌日だ。当時のうちの社長が、見たこともないほど青白い死人のような顔でフロアに現れ、震える声で俺たちに向かってこう宣ったんだ。『本日付で本誌は永久に廃刊、編集部は即時解散、編集長は本日をもって懲戒解雇。残りの部員は、今日中に全国の地方支社へバラバラに転属だ』とな」
八代は、テーブルの上で固く握りしめた左右の拳を、悔しさに小刻みに震わせた。
「特にうちの編集長は、社長の胸ぐらを掴んで激しく食ってかかったよ。俺たち三流記者にも、曲げられない意地と誇りがある、それをこんな理不尽な力で踏みにじるなとな。だが、社長は光の消えた死人のような目で一言も発さず、ただ吐き捨てるようにして部屋を出て行った。
……さらに不可解だったのは、世間の流通の動きだ。増刷分も含めてすべて完売したはずの俺たちの雑誌が、全国の主要な書店から『大人の事情で扱えない』という謎の共通理由で、一斉に段ボールごと返品されてきたんだ。出版の取次、物流、そしてうちの経営層。あらゆる組織の結節点に、俺たちの吐き出した言葉を最初から『なかったこと』にするための、見えない巨大な手が伸びていたんだよ。……俺たちは、抵抗する術さえ最初からすべて奪われ、ただ荒れ果てたフロアの真ん中で立ち尽くすしかなかった」
Ⅱ. 零れ落ちた「光」の正体
「そこからの本当の地獄は、より直接的で、言い訳の効かない物理的な暴力となって、生き残った俺たちの肉体を襲った」
八代は、地下喫茶店の奥底の濃い影の中に自らの巨体を深く沈め、ゆっくりと自らの左の顔面に肉厚な指をかけた。
「会社をクビになってすぐに社会から行方不明になった、あの元編集長。自宅のユニットバスの風呂場で、手首を切った『自殺』として事務的に処理された若手の同僚部員。雨の激しい夜、不自然なタイミングで交差点に飛び出してきた大型トラックの犠牲になって事故死した先輩。……そして、この俺だ」
シホの喉の呼吸が、完全に止まる。
八代は、前触れもなく静かに、自らの左の眼窩に向かって、人差し指と中指を深く突き入れた。
ペチャリ、という湿った嫌な生々しい音が店内に響き、ポロリと、彼の肉厚な手のひらの上に何かが転がり落ちた。
それは、琥珀色の照明の光を鈍く反射する、裏側に細かい電子回路が這う、驚くほど精巧に作られた人工の「義眼」であった。
「俺は、あの一瞬ですべてを失った。……自宅のアパートを何者かにめちゃくちゃに荒らされた、わずか一ヶ月後のことだ。家族を乗せて週末に運転していた車のブレーキが、何の前触れもなく完全に故障し、そのままスピードを上げた状態でガードレールを突き破って崖下に転落した。警察の公式発表は……整備不良による不幸な交通事故、ただそれだけで処理されたが、俺には分かっている。あれは奴らによる、生き残りを消すための『間引き』だ。
……俺はその最悪な事故によって、俺の命よりも最愛だった妻と、まだ小学生になったばかりの幼い娘、そして、この左目、左腕、左足を同時に失った。……シホ、お前のような若い人間には、一生かかっても分からんだろうな。自分の身体の半分が、自分自身の不注意や病気なんかではなく、顔も見えない誰かの気まぐれな『消去』という作業によって一瞬で奪い去られるという、あの地獄のような絶望の味が。……今、俺がお前の目の前で動かしているこの左の手も足も、人間の血なんて一滴も通っていない、国家が提供した冷たい精密機械(義肢)だよ」
シホは、完全に言葉を失い、ただ目の前に座る男の、肉体的な「欠損」とその裏にある回路の光を、呆然と見つめるしかなかった。
八代がその過去を語り始めてから、彼女は一度もその会話に口を挟むことができなかった。この男の歩んできた人生の質量が、あまりにも、あまりにも重すぎたからだ。
Ⅲ. 救済という名の隷属
「……すべての光が消えた真っ暗な無菌病室で、全身を白い包帯と無数のチューブに繋がれ、自分が調子に乗って招いた事態の惨状にただ一人で咽び泣いていた、あの絶望の時だ。一人の素性の分からない人物が、足音もなく俺のベッドの脇に現れたんだ」
八代の、冷え切った言葉の独白はまだ続く。
「その人物は、俺の絶望を慰めるような言葉はただの一言もかけず、ただ冷徹な事実だけを俺の耳元に突きつけた。『触れてはいけない国家の最高機密に、その汚い足で触れてしまったな。起きてしまった結果を今更嘆いてももう遅い。すべては終わった。……それよりも、明日からの自分の生き方のことを考えろ』とな。……そして、奴はベッドの上の俺に向かって、こう冷酷な提案をしてきたんだ。『今後一切、この件――プロメテウス財団、および雷門玄一という男が関わる全ての件に関わらないことを書面で約束するなら、お前の残された命だけは社会的に保証し、我々の力で保護してやる。その無残に壊れた身体も、こちらの持つ最新の技術で不自由なく動くように修復してやろう』と」
「……俺は、震える右手でその書面に署名した。当時の俺には、拒絶する選択肢なんて最初からどこにも残されていなかったからな。それこそが、お前も今その身に嵌められている『情報保護秘匿法・丙種規定』という名の、国家の強固な鎖の正体だ。……身体の再建手術と、吐き気を催すような地獄の劇薬リハビリをすべて終えて、数年ぶりに社に戻ったとき、俺を待っていたのはビルの中に新設された全く新しい部署と、見たこともない若い社員たちの顔ぶれだった。経営層の社長は交代し、当時の事件のディテールを知る者は社内には誰一人として残っていなかった。
……あの時病室に現れた男は、最後に俺に向かってこう言っていたよ。『我々のシステム側の対応が少し遅れてしまった。結果的に君しか生き残らなかったが、これからは幸運だと思って生きろ』とな。……それから12年もの間、俺はこの三流雑誌の編集長という椅子の上で、ただ死んだふりを決め込みながら、死人のように座り続けてきたんだよ」
Ⅳ. 復讐の炎は消えず
シホは、自らの震える声を必死に抑えながら、恐る恐る対面の男に尋ねた。
「……編集長。その後、12年間、本当にあなたの身には何も起きなかったのですか? あなた自身、本当に……何も、何一つとして仕返しをしなかったのですか?」
八代の、顔の右側に唯一残された本物の右目が、獲物を捉えた獣のようにシホの視線を鋭く射抜いた。
彼は、指の間に挟まれていた吸いかけのタバコを、灰皿の中で根こそぎすり潰すようにして、完全に揉み消した。
「……シホ。お前、この俺が、ただの12年という気の遠くなるような歳月を、何もせずに無為に過ごしてきたとでも本気で思っているのか?」
八代は、そこで不敵に、ニヤリと笑った。
その顔の表情は、先ほどまで自らの過去を呪っていた「死人のような自虐」のそれとは、明らかに一線を画していた。
12年という長い歳月の間、三流という名の泥の底に自ら身を沈め、その分厚い皮膚の下で密かに煮えたぎらせ続けてきた、国家への、そして財団へのドロドロとした苛烈な復讐心。その熱い質量が、歪んだ笑顔の奥底から、今にも溢れ出んばかりの勢いで漏れ出してきている。
「この俺が、奴らの施しごときで簡単にひよるわけが無かろうが? ……この『八代圭太』という男が、だぜ?」
取り外された左の義眼の奥の暗い空洞に、あるいは義肢の冷たい金属の節々の隙間に、彼がこの12年間、誰にも見つからないように密かに収集し続けてきた、敵の急所を撃ち抜くための「真実の弾丸」が、すでに何発も装填されていることを、シホはその時直感的に確信した。
一人の若い三流記者の泥臭い足と、五体を廃人同然まで破壊された男の、12年目の執念。
二つの孤独な魂が、今、12年前のあの凄惨な惨劇の幕を本当の意味で降ろすための、最悪の「引き金」に同時に指をかけた。
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22.5. 託された宿題
Ⅰ. 封印された「真実」の継承
地下喫茶店の淀んだ空気は、八代の過酷な過去の告白が完全に終わると同時に、それまでとは全く質の異なる、張り詰めた危険な緊張感によって支配された。八代は、右側に残された鋭い本物の目で、カウンターの奥に微動だにせず立つ、先ほどの初老のマスターの動向を静かに見据えた。
「マスター。……例の、12年間ずっとここに預けていた、あの『ブツ』を頼む」
マスターはそれに対して何も言葉を返すことなく静かに頷くと、戸棚の最も奥、一見するとただの古い領収書の束が綴られているようにしか見えない偽装された場所から、汚れの目立つ分厚い茶色の封筒を一つ取り出した。それは、十二年という長い歳月の間、幾多の国家の厳しい監視の目を奇跡的に潜り抜けてこの場所に眠り続けていた、情報の亡霊そのものであった。
「この中に……あの雷門玄斎導師が死の間際に俺に遺した研究ノートの、最も核心に触れる、警察も財団も押さえられなかった最後の数ページの実物が入っている。奴らが当時、血眼になって世界中を探しま回っていた、あの『陸x壱弐 ≒ ∞』という禁忌の数式が持つ、本当の数理的真意が記された唯一の断片だ」
さらに八代は、自らの上着の内ポケットの奥から、四隅の革が丸く擦り切れた、いかにも年季の入った黒い一冊の手帳を取り出した。
「そして、この個人的な手帳には、俺が十二年間、『死んだふり』の奴隷を演じながら、自分の動かせる手足と三流記者の泥臭い足だけを頼りに裏で密かに稼ぎ、独自のルートで裏を取り、繋ぎ合わせてきた情報のすべてが書き記してある。……プロメテウス財団の現在の国内における巨大な資金源のネットワーク、政府内部における奴らの本当の協力者の実名、そして、あの厚生省施設の地下のさらに奥深くで現在進行形で進められている『最悪のプロジェクト』の、俺なりの精緻な構造仮説だ」
シホがその黒い手帳の存在を凝視したまさにその瞬間、彼女の耳の奥に装着されたインカムから、ALICEの鋭い電子音が(ピン!ピン!)と、頭が痛くなるほどの高音で激しく鳴り響いた。それは、目の前にある紙の束が持つ圧倒的な情報の熱量を検知した人工知能による、歓喜に極めて近い、システム上の最大警告音であった。
「……俺はな、この12年間、ずっと暗闇の中で探していたんだよ。この、一人の人間の背中には重すぎる過去の宿題を、俺の代わりに最後まで解き明かし、あの化け物どもに本当の結末をつけてくれる『誰か』の存在をな」
八代の剥き出しのまなざしが、対面に座るシホの瞳の奥を深く射抜く。そこには、12年分の燃え盛るような激しい怒りと、最愛の家族を失った底知れない悲しみ、そして、目の前の若い部下にすべてを賭けようとする、一筋の細い「希望」が同居していた。
「お前は、俺が最初に思っていた以上に、この闇の最も深い深淵の領域に自ら関わってしまった。……だからこそ、これを他でもないお前に託したい。シホ、受け取れ……この、呪われた命の重みを受け継ぐ覚悟が、今の貴様にあるか?」
シホは、テーブルの上に差し出された、薄汚れた封筒と黒い手帳をただじっと見つめ返した。それは、単なる古い紙の束なんかでは断じてない。八代圭太という男の、かつて失われた最愛の家族の命そのものであり、彼の左目と手足の代償であり、十二年間もの間、ドブの中で耐え抜き続けてきた屈辱の記録。――紛れもない、重すぎる「命のバトン」そのものであった。
Ⅱ. 義体の鎖と、果たせなかった夢
シホは、自らの肺の奥にある空気をすべて入れ替えるように、深く、長く息を吐き出した。
「……編集長。私にここまで全てを話してくださって、本当に、本当にありがとうございます」
彼女は、微かに震える自らの指先で、テーブルの上の封筒の表面にそっと触れながら、この話を聴いている間ずっと胸の中で抱き続けていた、一つの素朴な疑問を口にした。
「……でも、なぜあなたは、あなたのその凄まじい執念と情報があれば、もっと早い段階で、他の大手新聞や海外のメディアにこれを匿名で告発することだってできたはずなのに、どうして今までこの場所に隠し続けていたんですか?」
「……他の誰でもない、俺自身のこの手で、奴らに復讐をやりたかったからに決まっているだろうが!」
八代の、精密機械であるはずの左手の五指に、ミシリと、内部のギアが悲鳴をあげるほどの異常な力が込められた。
指の間に挟まれていた吸い殻のタバコが、肉体の中で逃げ場を完全に失った彼の感情そのもののように、テーブルの上で無残に粉々に押し潰されていく。
「だが、俺の個人の力ではどうしても出来なかったんだよ。……おいシホ、俺のこの再建された肉体の構造をよく見ろ。目も、腕も、足も……その中身のすべては、奴らが俺を社会的に飼い慣らすために施した『義体』なんだ。……この神経接続の接続点の奥底には、俺の日常の行動を二十四時間体制で完全監視し、プロメテウスや雷門といった特定の機密キーワードや、特定の政府管轄の場所に近づくだけで自動発火する、強力な精神リミッターが最初から埋め込まれているんだよ。俺が奴らに逆らって自ら動こうとすれば、その瞬間に脳が直接内側から焼き切られるような、凄まじい激痛に襲われてすべての思考が強制遮断される。……俺はな、自分の身体の内側に、二十四時間自分を監視する『看守』を自ら飼い続けているんだよ」
八代の、顔の右側だけを不気味に歪めた笑顔。それは、物理的な自由のすべてを国家に奪われた男が遺した、精一杯の最後の抵抗の形であった。
「だから、俺はこれ以上自分の足では動けねぇんだ。残念ながらな、これが現実だ。……だが、お前は違う。お前はまだ、奴らの直接的な義体の鎖には一切繋がれていない、どこへでも走っていける自由な『野良犬』だ」
「……分かりました。……確かにお借りします。あなたの、このとんでもなく重たい過去の宿題を」
シホは、差し出された茶封筒と黒い手帳を、自らの鞄の最も奥深い底のスペースへと大切にしまい込み、ガタリと椅子を大きく鳴らしてその場から力強く立ち上がった。
もはや、そこには情報の質量に戸惑い、怯えていた「三流ゴシップ記者」の弱い姿はどこにもなかった。
「編集長。……それでは、行ってきます。あなたの失われた12年分の無念の分まで、私が全部、白日の下に暴いてきますから」
「……ああ。せいぜい気をつけて行ってこい。三流記者らしく、派手に転んで、全身泥にまみれてこい」
シホは、その男の姿を二度と振り返ることはなく、薄暗い喫茶店の急なコンクリート階段を、光に向かって一気に駆け上がっていった。
Ⅲ. 影の顕現、最後の役割
シホの身体の気配が、階段の上へと完全に消え去った後、八代はポケットから新しいタバコをもう一本取り出し、ゆっくりと時間をかけて火をつけた。
灰色の紫煙がフロアの天井へと静かに漂う中、彼は両目を閉じ、まるで自らの身体から憑き物が完全に落ちたかのような、これまでにない静かな表情を浮かべていた。
しかし、直後、地下喫茶店の内部の空気が、一瞬にして完全に一変した。
それまで店の隅の席で、退屈そうに新聞を広げて読んでいた中年の一人の男。そして、入り口の近くでコーヒーを黙って飲んでいた二人組の若い男。計三人の、ただの「一般の客」を装っていた者たちが、あらかじめ示し合わされていたかのような完璧な同期の動きで、同時に席から立ち上がったのだ。
そのうちの一人が、無言のまま素早い足取りで店を出ていき、階段を上がったシホの追尾を背後から開始する。
そして、店内に残された二人の男、さらには、さっきまでカウンターの奥に平然と立っていたはずのあの初老のマスターまでもが、ゆっくりと、確実に、座る八代のボックス席を完全に包囲するようにして、足音もなく近づいてきた。
「……ふー。やっぱり、最初からそこにいやがったか、お前ら」
八代は、手元の灰皿に吸いかけのタバコを静かに押し付け、彼らに向かって冷酷な冷笑を浮かべた。
マスターのその両目の輝きは、もはや客を穏やかに迎えるだけの、ただの市井の商人のものでは完全になくなっていた。
「……上層部から、我々現地側の対応が少しばかり遅すぎた、と言われましてね。八代さん。……これは明確な、12年前の契約違反ですよ」
「……うるせぇよ、今更ガタガタ抜かすな。俺は一人のジャーナリストとして、自分の人生の最後の仕事を、今ここで綺麗に終えただけだ」
八代は、残された右目を静かに閉じ、自身の脳内の神経接続の奥深くに埋め込まれていた、あの国家の監視プログラムが、限界数値を迎えて真っ赤に発火し始めるのをその意識の底で確かに感じ取っていた。
翌日。
スクープ・ハンター社の頼れる編集長・八代圭太が、何の前触れもなく突如として会社から姿を消し、その日の夕方に、本人のアカウントから一通の極めて簡素な「一身上の都合による退職願」のメールが社内の共有サーバーへと機械的に送信されてきたことを、西野シホが真実として知ったのは、それからずいぶんとの後のことであった。
会社側は、彼の突然の失踪に対して、その行方を必死に追うような素振りはただの一度も見せることはなく、まるで最初からこの世界に「八代圭太」という名前の人間が存在していなかったかのように、事務的にすべての処理を冷酷に進めていった。
八代圭太。
三流記者という名の泥の中にその身をあえて深く沈め、最愛の家族の復讐を果たすためだけに、12年という過酷な地獄の時間を耐え抜いた男。
彼は、自分に与えられた最後の役割――「真実の継承」というバトンを部下に渡す作業をすべて終え、静かに歴史の深い闇の底へと消え去っていった。
そして、彼から命のバトンを託された西野シホは、もはやただの芸能ゴシップを追いかけるだけの、無知な三流記者では断じてなかった。
最先端のデジタルの光(ALICE)と、過去から届いたアナログの闇(八代の研究手帳)。
二つの、現代における最強の巨大な武器をその両手に手に入れた彼女は、世界の存亡に直接関わる最高機密を背負う、特級の情報員へと、その内面から完全に変貌を遂げていた。
「さあ、それじゃあ始めましょうか、ALICE。……あの人が遺していった、重たい宿題の答え合わせをね」
夕暮れの東京の激しい喧騒の真ん中で、バイクに跨るシホの瞳の奥には、かつてないほど鋭く、冷徹なまでの固い決意の光が、美しく宿り始めていた。
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