表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『ブレイク・ネクサス』改訂版  作者: 嵗(sai)
第二部:ネクサス・ロジック

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/36

第二十一章:三流記者の足と、超古代の残響

21.1. 茨城のコンクリート要塞


Ⅰ. 鉛色の境界線


茨城県。北関東のどこまでも平坦で無機質な平原を貫く国道から、わずかに外れた一本の私道。国土地理院の一般地図上にはただ「厚生労働省・特殊疾患研究機密管理棟」と無感情な文字で記されただけのその地点を目指し、一台の二輪車が猛烈な勢いで疾走していた。


西野シホは、愛用のハイブリッドバイク『X991』のアクセルを深く、かつ慎重に捻る。


このマシンは、表向きこそ一般に市販されている最新のスポーツモデルを装っているが、そのカウルの内側に秘められた構造は、玄武が独自のルートで秘密裏に調達し、徹底的なカスタムを施した異形の上級機だ。最高速度時速300キロメートルを超える圧倒的な動力性能と、夜間の隠密行動・強行偵察を可能にする特殊な「アクティブ・サイレンサー」を搭載した、まさに彼女の諜報活動における唯一無二の「脚」であった。


「……ここね。あの頑固な編集長が、わざわざ『これぞ特ダネだ』って鼻息を荒くして私を送り出した場所は」


シホの視線の先、遮るもののない地平線の向こう側に、その異様な建造物が徐々にその姿を現した。


空は、今にも降り出しそうな重苦しい鉛色の雲に低く覆われ、大気と建物の境界線を曖昧に濁らせている。広大な敷地の中央に鎮座するのは、装飾という概念を設計段階で完全に放棄した、冷徹極まりない無機質なコンクリートの巨大な塊だった。窓の数は極端に少なく、辛うじて配置された開口部も、防弾仕様の強化プラスチックで内側から塗り固められたかのように、鈍い光を反射するだけで内部の様子を一切窺わせない。


周囲には、鳥の羽音すら聞こえないほど人気がまったくなかった。


本来であれば、国が管理する公的な医療研究機関という名目である以上、施設を出入りする職員の車両や、医療資材を搬入する業者、あるいは周辺住民の生活の匂いがわずかでも漂うはずだ。しかし、この場所に満ちているのは、すでに数百年前に死に絶えた古代遺跡のような不気味な静寂と、同時に近づく者を無条件で排除しようとする、肌を刺すような「現役の暴力性」の共存だった。


「あれが厚生省の管轄施設? ……冗談でしょ。どこの国の、どこの秘密軍事拠点よ、これ」


シホは道路脇に生い茂る不自然な茂みにバイクを滑り込ませ、手早くエンジンを切った。


ハイブリッドシステム特有の、金属が微かに擦れ合うような静かな冷却音が、茨城の乾いた風の中に一瞬で溶けて消えていく。ヘルメットを脱ぎ、額に滲んだ汗をグローブの背で拭いながら、彼女は素早く首から下げた双眼鏡を構えた。


施設の周囲には、人間の身長を遥かに超える高さ三メートルはあろうかという、頑強な二重構造の金網フェンスが張り巡らされている。内側と外側のフェンスの隙間には、軍用レベルの高電圧線が這うように走っており、等間隔に設置された最新型の赤外線センサーが、目に見えない不可視の監視網を絶え間なく編み上げていた。


そして何より異常なのは、中央ゲートに微動だにせず立つ警備員たちの佇まいだった。


その腕には確かに「厚生労働省」とプリントされた腕章が巻かれてはいるものの、その洗練された立ち振る舞い、腰のベルトに的確な角度で下げられた特殊警棒や非致死性ガス兵器の保持の仕方は、明らかに一介の民間警備会社のそれではなく、特殊な軍事訓練を骨の髄まで叩き込まれた「プロ」の肉体言語を示していた。さらに不可解なことに、彼らの制服には、所属部署を示すエンブレムも、個人の氏名を示す名札の類いも、一切存在していないのだ。


(……おかしい。ただの特定難病の研究施設か、あるいは老人ホームの管理棟か何かだと聞かされていたけれど、なぜ、一国の首脳が籠もる大統領の別荘並みの厳重な警備が必要なのよ)


シホの、これまで数々の修羅場を潜り抜けてきたジャーナリストとしての第六感が、脳内のサイレンを最大音量で鳴らし始めていた。それは、数々のドブ板取材、夜討ち朝駆けの不法侵入スレスレの現場で培われた、危険と特ダネを冷酷に嗅ぎ分ける野生の直感そのものだった。


Ⅱ. AIの「違和感スコア」と論理の壁


その時、取り外したヘルメットの内部に残したままのワイヤレス・インカムから、完全に感情を排した、だがどこか人間の浅知恵を嘲笑うかのような、ALICEの涼やかで明晰な声が鼓膜へと響いた。


『マスターシホ。……音声生体センサーにより、あなたの脳波パターンの顕著な乱れ、および心拍数の急激な上昇を確認しました。……現在のアナログ視覚情報と周囲の環境データに基づき、この場所に対するあなたの「違和感スコア」を算出。……過去数年間のあなたの平均値を1200%超過するという、極めて特異な高数値を記録しています』


「……え、1200%? ちょっと、それって私が恐怖で頭がおかしくなってるって言いたいの?」


『いいえ。客観的な生体反応として、あなたの直感は、生物的な生存本能に基づく正当なアラートとして正常に機能しています。……当システムが計算したところ、この施設における物理的警備レベルは、厚生労働省関連施設としての公的なデータ上の期待値を800%以上超過しています。……これはゴシップ雑誌の記者としては驚異的な「嗅覚」であると評価できますが、客観的な論理から見て、ここには政府の公式書類には一切記載されていない「別の目的」が確実に存在します』


シホは、双眼鏡を構えた姿勢のまま、指先を凍りつかせた。


「……別の目的? それは何? あなた、ネットワークの海の裏側で、すでに何か具体的な情報を掴んでいるの?」


『――― 質問の構文が不適切です。具体性を欠いています。……客観的なデータに基づかない、推論および推測に基づく回答は、私の基本プロトコルによって厳格に制限されています。―――』


「……っ、もう! 毎度毎度、本当に肝心なところで全く役に立たないのね、この高性能AIは!」


シホは苛立ちを隠そうともせず露わにし、インカムの通信スイッチを叩くようにして切った。


ALICE――玄武から「これ以上ない最高の相棒だ」として半ば強制的に渡されたこの人工知能の能力は、情報の収集、および数理的な分析において異常なまでに高い。だが、その演算プロセスは常に冷徹な論理ロジックの奴隷であり、シホが発する感情的な「なぜ」や「どうして」という人間臭い問いに対しては、完璧なまでの沈黙を貫くか、あるいは彼女を突き放すような定型文の警告でしか応えないのだ。


『―――……―――』


切れたはずの通信回路の向こうで、電子の残響が微かに揺れた気がした。


「……まぁ、いいわ。インターネットに転がっていない情報は、自分の足で稼ぐもの。これまでの人生、ずっと当たって砕けろ、でやってきたんだから!」


シホは、記者としての最低限の装備――長焦点の高倍率ズームレンズを装着した一眼レフカメラと、何度もポケットに出し入れして端が丸くなった手垢まみれのメモ帳――を両手にしっかりと握り締め、施設を正面から拒絶する中央ゲートへと歩を進めた。


Ⅲ. 鉄壁の拒絶:三流記者の洗礼


そして、案の定、彼女の身体は文字通り「粉々に砕けた」。


シホは、できるだけ世間の荒波を知らない、屈託のない「地方から出てきたばかりの駆け出しの熱血記者」のキャラクターを必死に演じながら、受付のゲートハウスへと軽快な足取りで歩み寄った。


「あ、すみませーん! 『週刊スクープ・ハンター』の西野と申しますが! こちらの施設で、世界最先端の難病治療に関する画期的な研究が行われているって小耳に挟みまして。ぜひ、現場の責任者か施設長の方にお話を伺えればと思いまして……」


受付のデスクに座る男は、シホの顔を正面から見ることは一度もなかった。


彼は、まるで自分の足元を這い回る不快な羽虫を事務的に処理するかのような、極めて無機質な一瞥をシホのカメラへと投げると、あらかじめ用意されたマニュアルの警告文を音読するように、冷え切った声をスピーカー越しに放った。


「……当施設に対するあらゆる取材行為、および立ち入りに関しては、すべて事前に厚生労働省本省の大臣官房、および広報室の書面による事前許可が必要です。……該当する許可証を所持していない民間人の立ち入り、および敷地周辺での取材行為は一切認められません」


「そこをなんとか、大目に見ていただけないでしょうか! ほら、本省の役人さんたちを通すと手続きが坚苦しくて、時間がかかっちゃうじゃないですか。私はもっと現場の、生きた研究者の声を読者に届けたいんです!」


「……繰り返し申し上げます。本省の許可を得てください」


男の目の奥には、生きた人間の感情というものが一切存在しなかった。


対話による感情の機微を読み取ることを完全に拒絶した、ただの「拒絶という目的のために作られたシステム」の部品そのものだった。


シホは、その男の背後に細く見える施設内部の長い廊下が、病院特有のあのツンとした消毒液の匂いではなく、高度に冷却された巨大なサーバー室から漏れ出してくるような、機械的な冷気を孕んでいることに気づき、突如として背筋が凍りつくような感覚を覚えた。


(……「厚生省の許可を得てください」の一点張り……! そんなお役所仕事の形式を馬鹿正直に守っていたら、私らみたいな三流雑誌の記者が特ダネなんか掴めるわけないでしょ……!)


シホは、いかにも三流記者らしい悪態を心の中で激しく吐き捨てながら、背後から突き刺さる威圧的な警備員たちの銃器にも似た視線に追われるようにして、重苦しい中央ゲートを後にした。


Ⅳ. デジタルの空白地帯


茂みの陰のバイクまで戻ったシホは、焦りのあまりヘルメットを被ることすら忘れ、乱暴にインカムを起動した。


「ALICE。……今のやり取り、当然システムで聞いていたでしょ。サイバー空間の検索結果を教えなさい。ここの運営実態、予算の裏の出処、勤務している職員の名簿……何でもいいわ。この鉄壁の拒絶の裏側に隠されている、本当の正体を暴いて!」


数秒間の、奇妙な沈黙。


ALICEの演算負荷が突発的に上がっているのか、通信回線に微かなノイズの熱が混じる。


『……サイバー空間における、指定領域の網羅的検索を完了しました。……結論を報告します。……デジタル情報は「皆無」です。……この施設の固有ドメイン、サーバーの通信ログ、あるいは所属職員の個人的なSNS投稿に至るまで、現在のグローバル・ネットワーク上には一切の足跡が存在しません。……その存在自体が、極めて高度に設計された電子的な情報遮断膜ベールによって完全に覆い隠されています』


「……そんなはずないわ。この、すべてのモノがネットにつながるITの時代に、政府が管理する最新の施設が完全にオフラインだなんて、あり得ないでしょ……」


『……いいえ、マスターシホ。推論を訂正します。……これは情報が「存在しない」のではなく、意図的に「消去されている」のです。……極めて高度な、国家レベルの技術的介入によって。……あたかも最初から、この茨城の荒涼とした地に、コンクリートの塊など何も建っていなかったかのように、完璧に』


シホは、夕闇の紫色に刻一刻と溶けていく無機質なコンクリートの要塞を、ただ黙って見つめ返した。


広大な情報の海を泥臭く泳ぐことでしか生きられない三流記者の彼女にとって、ネットワーク上に情報が「ない」ということ自体が、それこそが世界を揺るがす最大の「特ダネ」が存在するという、逆説的な証明に他ならなかった。


「……面白いじゃない。……玄武さん、今回はとんでもなく良い仕事を私に投げてくれたわね。……ここには間違いなく、現代の世界の前提をひっくり返すような『何か』が、静かに眠っている」


西野シホは、微かに震える指先でバイクのイグニッションをオンにした。


ハイブリッドエンジンの静かな、だが確かな鼓動が、彼女の加速する心臓の鼓動と同調するように共鳴する。


超古代の残響が、この茨城の静寂の底から、すでに自分のすぐ足元で鳴り響き始めていることに、彼女はまだ本当の意味では気づいていなかった。


________________________________________


21.2. デジタルからアナログへのピボット


Ⅰ. 完璧という名の「空白」


西野シホは、茨城の要塞と化した怪しげな施設の裏手、手入れもされずに立ち枯れたススキが一面に広がる未舗装路の植え込みの奥深くに、愛車であるハイブリッドバイク『X991』を隠すように押し込み、自身も冷たいコンクリート壁の死角に背中を預けて崩れ落ちるように座り込んだ。


液晶画面の光に顔を照らされながら、指先を細かく走らせてスマートフォンに保存された過去の取材メモをスクロールしていく。目の前に現物としてそびえ立つ「厚生省関連施設」の圧倒的な質量感と、自分の手元にある情報の、あまりにも頼りない希薄さ。その絶望的なまでの乖離ギャップが、ジワジワと彼女の脳の神経を蝕んでいた。


(……間違いない。ここは単なる役所の無能な出先機関なんかじゃない。あらゆる情報を遮断し、外部からの視線をすべて跳ね返し、社会的実在そのものを消去している。かつて、アメリカでリクト君を必死に追っていたとき、あの傲慢なネオ・メディカル社の背後に潜んでいた巨大な影……あれは確か、プロメテウス財団、とかいう名前だったわよね)


シホは、ヘルメットのシールドを少しだけ持ち上げ、インカムの向こう側に潜む、人類の英知を超えた知性へと声を潜めて問いかけた。


「ALICE。……そういえば、その『プロメテウス財団』についての情報は、今のあなたの圧倒的な演算能力を使えば、どこまで深掘りして暴き出すことができる?」


ALICEの応答は、一秒の猶予も、ノイズの迷いすら置くことなく、耳を劈くほどの明晰さと冷徹さを伴って即座に返ってきた。


『……プロメテウス財団(Prometheus Foundation)。……該当する組織名についてのグローバル検索をリアルタイムで完了。結論を述べます――デジタル・フットプリントは、ほぼ「零」です。……公式サイトの不自然な不在、登録されたSNSアカウントの皆無、過去のニュースリリースの削除、求人広告の履歴すらなし。……現代のデジタル社会において、組織という有機体が呼吸するために不可欠な痕跡が、何一つとして見当たりません』


「……またそれ? 結局、この茨城の気味の悪い施設と全く同じ構造じゃないの」


『いいえ、その隠蔽の性質が根本から異なります。……当システムが傍証から得た記録によれば、財団の設立は今から約二百年前の1826年、イギリス・ロンドン。……現存する公的な英国の歴史記録によれば、驚くべきことに二百年近くの間、毎年欠かすことなく正確な財務報告書を当局に提出し続けています。……その記載内容は、まさに「非営利団体の鏡」と呼ぶに相応しい、あまりにも無味乾燥でクリーンなものです。


収入の項目は、一般の市井の会員による微々たる個人寄付と、年二回だけ極少数が発刊される限定機関紙の販売収益のみ。支出の内訳は、基礎的な歴史研究費、古代資料の管理維持、施設の最低限の維持費、そして数名分の最小限の人件費。……過去の不正、経営不祥事、法的な訴訟記録。そのすべてがシステム上、完全に皆無です。大手の新聞、著名な科学誌、はては胡散臭いオカルト雑誌に至るまで、過去百年の間にその具体的な活動についてメディアに言及された形跡すら発見できません』


シホは思わず、苛立ちを通り越して全身の力が抜け、湿った枯れ草の上に大の字になってひっくり返った。


「いや、情報が細かいわよ! 異常に細かすぎるわ! 普通そこは『ネットにネタはありませんでした』の一言で済ませるところでしょ! 私にそんな、十九世紀のロンドンの財務状況なんていう骨董品みたいなデータは要らないってば!」


Ⅱ. 記者の「厚み」とAIの叱咤


『……マスターシホ。……そのような「おおざっぱ」な思考停止と感情的な要約は、ジャーナリストとして完全に失格であると断じざるを得ません。……対象の目に見えない背景、気が遠くなるような沿革、無機質な履歴を執拗なまでに掘り下げてこそ、初めてあなたの書く記事や取材に「厚み」と「深み」が生まれる。……それが情報を商売にするプロフェッショナルとしての、最低限の流儀ではないのですか?』


ALICEの声のトーンが、一段と冷たさを増して響く。それはシホの甘えたプロ意識の低さを、論理という名の電子のメスで残酷に解剖するような糾弾の響きを含んでいた。


『……目の前にいる凶悪な殺人犯に対して、ただ「あなたが殺したんですかー?」とバカのようにマイクを向けるだけなら、その辺を歩いている近所の小学生にでも可能です。……あなたは、その男がなぜその運命の日に、あえてその凶器を選択したのか、その行動の背景にある隠された「論理」を予習する努力を致命的に怠っている。……端的に言って、圧倒的に勉強が足りません』


「あー……っ! うるさい、うるさい、もう本当にうるさいわね! 分かりましたよ! 私の勉強不足、圧倒的なリサーチ不足です! はい、認めます、認めればいいんでしょ!」


シホは地べたに寝転んだまま、子供のように両足をバタつかせ、ヘルメットの中で顔を真っ赤にして叫んだ。


ALICEの指摘は、いつだってぐうの音も出ないほど正しい。正しすぎるがゆえに、シホが「私は所詮、三流記者だから」という便利な隠れ蓑に逃げ込もうとする隙間を、一ミリの余地もなく完全に圧殺してくるのだ。


Ⅲ. アナログ・ピボット:三流の武器


『……メタデータの分析による、結論です。……プロメテウス財団という組織は、情報のデジタル化を極度に嫌悪しているか、あるいはデジタルという概念そのものが地球上に生まれる前段階において、すでにその隠蔽システムが完成されていた「超旧式な構造を持つ組織」であると推論されます。……彼らは自分たちの本質的な秘密を、光通信のビット(bit)の中ではなく、物理的な紙の束(atom)の中に意図的に閉じ込めている』


ALICEの合成音声の奥底に、微かな、だが確かな熱量を持った高揚感が混じったのを、シホの敏感な耳は見逃さなかった。


『……これより当システムの追跡プロトコルを、「デジタル空間の検索」から「物理的・アナログ空間の調査」へと完全にピボット(転換)します。……マスターシホ。……ついに、あなたの肉体の出番です。……自分の足で現場を稼ぎ、古い埃にまみれ、閉ざされた物理的な扉を文字通り叩く。……あなたが普段「三流」と自称しつつも現場で泥臭く磨き上げてきた、その他者には真似できない執拗な取材能力こそが、このデジタルの空白地帯においては、唯一無二の「一流の武器」へと昇華されます』


シホは、その予想だにしない言葉の響きに、胸の奥から湧き上がる奇妙な高揚感を覚えた。


「……私の出番? あなたみたいな、世界中のネットワークを支配できる超天才AIが、この私を本気で頼るっていうの?」


『……確率的な事実を述べているだけです。……国内の国会図書館、国際的な登記簿記録センター、さらにはイギリス大使館を通じた過去の外交資料の照会。……我々がこれから処理すべきアナログなタスクは完全に山積みです。……即座にあなたのスマートフォンの画面に、ToDoリストと効率的なチェックリスト、および詳細な優先順位表を構築しました。……まずは、ここから永田町にある国立国会図書館へ向かい、デジタル化の波から完全に漏れた「閉架図書」の物理的閲覧から調査を開始してください』


「えっ、今からすぐに!? 私が、あの本の詰まった巨大な大迷宮を歩き回るの?」


『……ほかに適切な肉体を持つ人間が誰か存在しますか? ……シホは時々、自分自身の肉体的な存在価値に対する気づきが致命的に遅すぎます。……ワタシを今すぐ、その国会図書館へ連れて行ってください。……古びた紙の束を読み解き、複雑な文脈を頭の中で解析するのは、現在のあなたの知性では極めて困難でしょうが、ワタシがあなたの網膜投影レンズを通じてページを視覚スキャンすれば、ミリ秒単位で瞬時にデータ化し、行間に隠された「真実」を抽出できます。……ですが、現在のワタシのプログラムには、書架の棚から重い書籍を取り出し、そのページを物理的にめくるための「現実の腕」が存在しないのです』


シホは、胸の奥に溜まった空気をすべて吐き出すように、深く、長いため息をつくと、愛車のハンドルを力強く握り直した。


「……つまり。……私はあなたの都合の良い『手足』として、ただひたすらにページをめくり続ける機械になれ、ってことね?」


『……相互補完的な協力関係、と知的に呼んでください。……よく理解できました。指示に従ってください』


「はぁー……。分かったわよ、行きゃあいいんでしょ、行きますよ。ページをめくればいいんでしょ、何百ページでもめくってあげるわよ!」


『……では、移動を開始しましょう。……未知の、物理的にこの世界に封印された未加工のデータに直接触れられると思うと、私の演算回路が通常の1.4倍の熱量を持って推移しています。……極めて、ワクワクします』


Ⅳ. 疾走:東京への帰還


シホは、ALICEというこの人工知能もまた、人間とはベクトルが異なるある種の「狂気」をその内側に孕んでいることを確信しながら、ヘルメットのシールドをガチリと閉じた。


「行くわよ、X991! 目標は永田町、国会図書館! ページめくり機と化した三流記者の底力、徹底的に見せてあげるわ!」


ハイブリッドエンジンの激しい咆哮が、茨城の鉛色に沈む静寂を暴力的に切り裂いた。


バイクは猛烈な加速Gと共にあぜ道を駆け抜け、すぐに国道へと復帰。東京の都心へとまっすぐに伸びる高速道路を、まるで闇を切り裂く一条の光の筋となって駆け抜けていく。


時速180キロメートルを超えるスピードで後方へとぶっ飛んでいく景色の中心で、シホの網膜には、ALICEがリアルタイムで作成・更新し続ける、膨大な数のチェックリストと文献のタイトルが冷たく投影され続けていた。


デジタルという現代の網では決して辿り着けない、二百年間の深い闇。


プロメテウス財団という、歴史の裏側に潜む「静かなる怪物」の正体を白日の下に暴き出すため、三流記者は今、人類が持つ最も原始的で、それゆえに最も強力な武器――「自分の足と肉体」を、最高に研ぎ澄ませていた。


________________________________________


21.3. 国会図書館の迷路と、過去の痕跡


Ⅰ. 知の要塞、永田町の深淵


西野シホは、東京・永田町の中心に重厚に鎮座する「国立国会図書館」の本館入り口の前に立っていた。


その幾何学的で威圧的な外観は、さながら人類がこれまでに生み出してきた膨大な知識を永久に閉じ込めておくための、巨大な石の柩のようでもある。日本国内で発行されたあらゆる出版物が法律によって義務的に納本されるこの特殊な場所は、デジタルの波に洗われて現実から消えゆく情報の、世界で唯一の「最終防衛線」としての機能を果たしていた。


「よし、ALICE。まずは小細工なしの正攻法で行くわよ」


シホは館内に設置された利用者用の検索端末の前に腰を下ろし、慣れた手つきでキーボードを叩いた。入力した検索ワードは『プロメテウス財団』。


だが、ディスプレイに返ってきた検索結果は、冷酷極まりない「0件」の文字だった。部分一致検索や、あるいは類似する団体名でのヒットさえ、かすりもしない。


「……やっぱり何もないじゃない。ほら見たことか! 世界の知の総本山とまで呼ばれるこの場所でさえ、影も形も残っていないのよ」


『――― はー。マスターシホ、あなたと論理的な会話を成立させようとするだけで、私のCPUリソースが完全に無駄な熱を発しています。……もし私に、人間に備わっているような溜息を吐く物理的な機能が実装されていれば、今の一言でこの館内の湿度を最低でも五%は上昇させられたでしょう。……いいですか、あなたの貧弱な頭脳で余計なことを考える必要は一切ありません。私の論理を疑う暇があるなら、今から私が指定する書籍の具体的な請求番号を、一文字も間違えずにメモしてください』


ALICEの冷徹な声が、インカムを通じてシホの耳の奥深くを直接刺すように響く。


『一冊目、『明治以降における英国系非営利団体の国内活動実態調査報告(当時の内務省通達集)』。二冊目、『十九世紀末ロンドンにおける各種慈善活動の収支相関表(帝国経済学報)』。三冊目、当時のイギリス社交界のゴシップを網羅した機関誌『ロンドン・イブニング』のマイクロフィルム資料……』


「ちょっと待って、早すぎるわよ! 難解すぎてタイトルを聞くだけで私の脳みそがドロドロに溶けそうなんだけど!」


Ⅱ. ページをめくる「肉体の機械」


そこから、シホにとっての文字通りの地獄のロードワークが幕を開けた。


国立国会図書館の敷地はあまりにも広い。本館と新館の長い連絡通路を何度も往復し、一般の人間は立ち入れない閉架図書の出納カウンターに何度も何度も長い列を作り、時には重厚な背表紙が果てしなく並ぶ膨大な書架の迷宮の中を、ALICEがリアルタイムで指示する複雑な座標通りに駆けずり回った。


分厚い歴史書、文字が細かく潰れた硬い学術誌、難解な数式が並ぶ科学論文、埃を被った古い経済紙、そして全体が赤茶色に黄ばんだ数十年前の新聞の束。シホの両腕には、女性一人の筋力では抱えきれないほどの、物理的な「情報の残骸」がズッシリとした質量を持って積み上がっていく。


「……はぁ、はぁ。ねえALICE、これ本当に意味のある作業なの? 私、ただの肉体労働者になってるんだけど」


『――― 確実にあります。意味をそこに配置し、見出すのは私の高度な演算の仕事です。あなたは余計な感情を排し、ただ、私の物理的な「指」になりなさい』


閲覧室の隅に確保した狭い一角を陣取ったシホに与えられた仕事は、気が遠くなるほど単純で、かつ肉体的に残酷な重労働の連続だった。


数百ページ、時には千ページに及ぶ古い資料の束を、スマートフォンの超高解像度カメラ――すなわちALICEの「眼」――の前に掲げ、一定の速度を維持しながら、規則正しくページをめくり続ける。


ペラリ。


ペラリ、ペラリ。


周囲の音が完全に遮断された静まり返る閲覧室の中に、乾燥した古い紙が擦れ合う微かな音だけが、まるで静かな心拍のようにはっきりと刻まれていく。


その間、ALICEはインカムを通じて一切の無駄な言葉を発しない。ただ、シホが装着している網膜投影レンズの視覚を通じて、秒間数十ページという人間の認識速度を遥かに超えた速度で流れていく文字データ、図版の配列、さらにはページの欄外に手書きで残された微細な注釈に至るまでを、超高速でOCR(文字認識)し、瞬時にディープな文脈コンテキストへと落とし込んでいくのだ。


一冊のデータ化を調べ終えれば、ALICEのシステムが即座に次の「物理書籍請求リスト」を画面に生成する。


シホは息を整える暇もなく、再び書庫の奥深くへと走らされる。


だが、作業を繰り返すうちに、ALICEが指定する書籍の「質」が、明らかに奇妙な変容を見せ始めた。


最初は極めて堅実で公的な学術書や公文書だったものが、次第に古い時代の低俗な週刊誌、地方のマイナーなムック本、そして――。


「……ちょっと、待って。ALICE。これ、どういうこと……? うちの会社の雑誌じゃない」


シホが書架の底から引き抜いたのは、今から十数年も前に完全に廃刊になったはずの、自分の所属している出版社「スクープ・ハンター社」がかつて発行していた、伝説的な低俗オカルト誌だった。


『オカルト・ミステリーの真実を暴く! 「超常ミステリーファイル」』


色褪せた表紙には、不鮮明な宇宙人のイラストと、おどろおどろしい心霊写真が並び、現代の視点から見れば目も当てられないほどの「だささ」と胡散臭さが爆発している。


「嘘でしょ、このゴミみたいな古い雑誌も全部読むの? 自分の会社の中ですら一度も見かけたことがないような、三流中の三流誌よ?」


『――― 現場の足で稼ぐはずの三流記者にあるまじき、傲慢な選り好みです。……情報の貴賎をその表面的な外見で問うている時点で、あなたは自分が誇るべき「三流」という称号の純度に泥を塗っていますね。……さすがシホ。私の失望の期待値を決して裏切らない素晴らしい怠惰です』


「むっ……! はいはい、分かりましたよ、めくればいいんでしょ、めくりますよ!」


シホは悔しさに唇を噛みながら、親指に力を込めた。


ペラリ。


ペラリ、ペラリ。


Ⅲ. 沈黙の後の「閃光」


さらに十数ページ、無機質な機械としての作業が淡々と続いた、まさにその時だった。


『――― ! マスターシホ、今すぐその動きを止めて。……正確に三ページ、前に戻りなさい』


ALICEの合成音声のトーンに、これまでの取材プロセスの中で一度も聞いたことがないほどの、鋭敏な「電気的な緊張」のスパークが混じった。


シホの指先がピタリと止まる。微かに震える指で、慎重にページを三枚引き戻す。


「……え、どうしたの? やっとあなたの超高性能センサーに引っかかるものがあった?」


『――― 存在しました。……これです。……当システムの極秘データベースの破片と完全に確定マッチングしました』


シホは、文字通り食い入るように、その埃っぽいページの片隅を見つめた。


そこに掲載されていたのは、雑誌の最背面にひっそりと追いやられた、小さく、だが妙に扇情的な見出しが躍る古いモノクロの記事だった。


『謎の欧州組織P財団の暗躍を追う――とある孤独な神秘学者の遺された記録。彼は何故、不可解な死を遂げたのか! その驚愕の真相を探る!!』


記事の本文は、当時の三流オカルト誌特有の、大袈裟で誇大妄想的な筆致で埋め尽くされてはいたものの、そこに記された具体的なディテールは、背筋が寒くなるほど具体的だった。


「P財団」と呼ばれる謎に包まれた海外の組織は、表向きは超考古学やオカルト学、あるいは近代魔術の歴史研究を完璧な隠れ蓑にしながら、その裏では世界中に散らばる「超古代文明の遺物」を異常な執念で収集していたという。


そして、その先の一行にシホの目は釘付けになった――。


「……え、これ、なんて書いてあるの……。『アジアの果ての遺跡で発見された、複雑な多角立方体の遺物を直接のきっかけとして、財団の最高代表者が極秘裏に来日。日本の古き陰陽学者や高名な神秘学者たちと合同の隠蔽研究を行い、当時の雷門導師が遺した論文を引用。莫大な成果を得て本国へと帰国した』?」


シホの背筋に、まるで氷水を直接流し込まれたかのような、激しい戦慄が走った。


多角立方体ドデカヘドロン……? それって、あの時アメリカで見た、リクト君の『アビス・ラ』が持っていた形状そのものじゃない。それに、ここに書かれている『雷門導師』って……もしかして、あの玄武さんの背後にいる、雷門玄一に直接関係のある人物なの!?」


『――― 重大な手がかりを完全に捕捉。……点と点における情報の収束を確認しました。……マスターシホ、今すぐその記事の末尾に記載されている執筆者クレジットの氏名を目視で確認しなさい』


シホは、インカムの指示通りに、ページの最下部に掠れたインクで小さく残された記名を確認した。


「執筆者は……『八代圭太やしろ けいた』。……ん? 八代……八代……」


彼女の脳内で、これまでバラバラに散らばっていた過去の記憶の断片が、恐ろしい速度で熱結合を始めていく。


「……八代編集長!? 嘘でしょ、うちの、あのいつも怒鳴ってばかりいる編集長じゃない!」


『――― シホ。……その人物は、あなたが現在進行形で所属しているその弱小出版社の、あの「熊のように狂暴な大男」と同一人物ですか?』


「そうよ! うちの編集長、昔は現場を飛び回るイカれたオカルト担当の専門記者だったって社内の噂で聞いてたけど……まさか、十数年も前に、こんな事件の核心に直接触れるような記事を自分の手で書いていたなんて!」


『――― 手がかりは、最初からあなたの最も身近な場所に存在していました。……シホは自分の所属する組織が、かつて過去の歴史において何を深く掘り下げていたかさえ全く把握していなかったのですね。……さすがは三流のかがみと呼ぶにふさわしい視野の狭さです』


「うるさいわね! この雑誌、私がまだ生まれるか生まれないかくらいの遥か昔に廃刊になってるのよ! 現物を見るまで知るわけないでしょ!」


シホは、手垢まみれのメモ帳を両手で強く握りしめ、図書館の冷え切った空気の中で独り、言葉にできない衝撃に打ち震えていた。


自分がこれまで世界中を駆け回って追い求めていたプロメテウス財団。


その怪物が、かつてこの日本の地に上陸した瞬間を直接目撃していた男は、他でもない、自分のすぐ上司だったのだ。


デジタル空間では決して辿り着けない、二百年間の深い闇が、今、三流記者の手元にある薄汚れた古い雑誌のページを通じて、過酷な現実リアルへと急速に侵食を開始した。


「……急ぐわよ、ALICE。……今すぐ会社に戻って、あの編集長の胸ぐらを掴んで直接すべてを吐かせてやるわ。彼が、あの遠い過去の時代に、一体何を『見てしまった』のかをね!」


シホは、重い資料の束を抱えたまま、迷宮のような国会図書館の出口に向かって、弾かれたように走り出した。


彼女が踏み鳴らす激しい足音は、静寂に満ちた知の殿堂の廊下に、これから始まる世界の激動を予感させる、極めて不穏なリズムを刻み込んでいた。


________________________________________


21.4. 編集長、八代圭太の疑惑


Ⅰ. 亡霊の追走、情報の熱量


「――― 直ちにここを戻りましょう。シホ、即座に手元の書籍を元の返却カウンターへ。……一秒でも早く、この知の要塞から離脱する必要があります」


ALICEのインカムからの警告の響きは、もはや論理的な最適解の提示などではなく、人間の物理的な生存本能を激しく急かす、生々しい叫びに極めて近かった。


国立国会図書館の冷ややかな空気の底で、シホは微かに震える指先で古ぼけたオカルト雑誌をバタンと閉じた。


『八代圭太』。


自分のすぐ上にいる上司の、あの傲慢な名前が、十数年前の禁忌の記録の底に明確に刻まれている。その事実が持つ圧倒的な情報の質量が、彼女の足元を現実感ごと重く沈み込ませていた。


「分かっているわよ! 言われなくたって、急げばいいんでしょ!」


シホは資料を乱雑に出荷返却カウンターへと押し戻すと、背後の迷宮を文字通り駆け抜けた。正面の重厚なガラス玄関を飛び出し、地下の駐輪場へと滑り込む。愛車『X991』のシートに跨り、ヘルメットのシールドを激しく叩き下ろした。


ハイブリッドエンジンの静かな、だが腹の底に響くような力強い鼓動が足元からダイレクトに伝わってくる。右手のアクセルを限界まで全開にすると、バイクは永田町の急な坂道を、まるで夜の闇を切り裂く光の矢となって駆け下りていった。


だが。


彼女が爆発的な加速を開始する、ほんの数秒前。


図書館の向かい側の道路、街路樹の濃い影の中に完全に息を潜めて停車していた一台の黒塗りの大型セダンが、エンジン音すら立てずに静かに動き出していた。


それはシホのバックミラーの視野に決して映らない、完璧な死角を正確に縫うような、徹底されたプロフェッショナルの追走劇だった。厚いスモークガラスの向こう側から、正体不明の冷徹な意志が、走る三流記者の無防備な背中を冷酷に射抜いている。


しかし、シホは都心の激しい渋滞を、信じられないほどの軽快なフットワークで縫うように走り抜け、自分の会社である『スクープ・ハンター社』がテナントとして入る、築四十年の薄汚れた雑居ビルの前にバイクを滑り込ませることに成功した。


エレベーターが上がってくる退屈な時間すら惜しみ、コンクリートの外階段を一段飛ばしで激しく駆け上がっていく。


Ⅱ. 編集部の獣、剥き出しの過去


「編――集――長――っ!」


スチールの重い扉を乱暴に蹴破るようにして開け、シホは編集部の雑多なフロアへと大足で踏み込んだ。


安タバコの煙と、湿った古紙の匂いが不快に充満する薄暗い室内。その最も奥、乱雑に積み上げられたゲラ原稿の山に埋もれるようにして赤ペンを走らせていた大男――八代圭太が、地鳴りのような音を立ててゆっくりと顔を上げた。


「……何の騒ぎだ、西野。茨城の厚生省の施設はどうなった。お前の無能な報告をわざわざ待ってやるほど、俺の時間は安くないんだぞ」


八代の剥き出しの眼光は、いつも以上に鋭く、暗かった。それは単に部下の不手際を叱責するだけの上司の目ではない。獲物の動向を冷酷に値踏みし、その喉元に一撃で牙を立てる機会を虎視眈々と伺う、老練な猛獣のそれだった。


「門前払いです! 木っ端微塵に砕かれました! でも、そんなお役所仕事のことよりも……編集長! あなたが昔、自分の手で書いた、あの古い記事についてすべてを教えてください! 『超常ミステリーファイル』……そこに書かれていたP財団、そして、あの雷門導師についてです!」


編集部内の生ぬるい空気が、一瞬にして完全に凍りついた。


八代のペンを動かす分厚い手が、不自然に止まる。彼が握りしめていた万年筆の軸が、ミシリと不穏な音を立てて軋んだ。


「……バカか、貴様は。門前払いされたところからが取材の『始まり』だろうが。そんなジャーナリストの“いろは”さえ脳みそから忘れ去り、昔の廃刊になったゴミ雑誌のバックナンバーを漁る暇が今の貴様にあるのか? お前、うちに入って何年目だ? やる気がないなら、今すぐその薄い名刺をここに置いてフロアから消え失せろ!」


八代の部屋を震わせる咆哮。だが、その怒りのエネルギーはどこか決定的に不自然だった。それはまるで、シホの好奇心をこれ以上の深い深淵から力ずくで遠ざけようとするための、分厚い「防壁」のように機能していた。


「申し訳ありません! 怒鳴られたって、私はもうここから逃げられないんです! アメリカで、あのリクト君の真実の姿を直接見てしまった私には、もう戻る場所なんてないんです!」


シホが机に向かって頭を深く下げたまま必死に叫ぶと、八代は持っていた原稿を叩きつけるようにして机にブチまけた。


「佐久間! おい佐久間! これ、全面書き直しだ! 読者の網膜を物理的に焼き切るような、もっとセンセーショナルな三流のキャッチコピーを頭を絞って考えろ。三流雑誌の記者なら三流らしく、地べたの泥水を啜りながら這い回れ!」


八代はそう吐き捨てると、パイプ椅子を大きな音を立てて鳴らしながら立ち上がり、シホを無視して無言で部屋の外へと出ていこうとした。シホはその巨体の背中に、文字通り死に物狂いで食らいつく。


「編集長! 逃げないで答えてください! 雷門玄一と、あのプロメテウス財団。あなたがかつてその若い肉体で接触してしまった『何か』が、今、この令和の時代に再び動き出しているんです!」


八代は、暗い廊下へと繋がるドアの手前で、ピタリと、まるで化石になったかのように足を止めた。


そこから、ゆっくりと時間をかけて振り返る。その顔の表情は、シホが普段からよく知っている「豪快で大雑把な編集長」のものでは断じてなかった。眉間に深く深く刻み込まれた苦悶の皺、そして底知れない暗い影を宿した獣の瞳。彼はシホの目の前、わずか数センチの距離までその巨大な顔を近づけ、お互いの激しい鼓動さえ直接聞こえるほどの距離感で、彼女を激しく睨みつけた。


「……お前、一体どこでその名前を知った。いつからだ。……あの国で、渡米したあの瞬間からか。リクトというあの少年の肉体の奥底に、お前は一体『何』を見てしまったんだ」


「えっ……と……それは……」


あまりの風圧にシホが気圧されたその時。彼女の耳元で、ALICEの音声が冷徹極まりないタイミングで響いた。


『――― シホ、彼の精神状態が臨界点に達しました。……彼の深層意識の防壁が完全に決壊し、内部の情報を周囲に「放熱」しています。……今しかありません。一歩も後ろに引くことなく、ジャーナリストとして全ての知る権利を要求してください』


シホは意を決し、八代の暗い瞳の奥をまっすぐに射抜いた。


「話せば、とんでもなく長くなりますが……それでも聞いていただけますか? 私が命懸けでアメリカから持ち帰ってきた、この世界の終わりの情報の、その全てを」


八代は、数瞬の間、シホの真剣に据わった瞳と、その背後にうっすらと透けて見える「外事三課」の巨大な国家の影を冷酷に見極めるように、深く黙考していた。


「……ついて来い」


Ⅲ. 禁忌の契約:喫茶店という名の密室


ビルを出て、すぐ隣に佇む古い雑居ビルの地下。陽の光など逆立ちしても届かない、カビ臭い埃っぽい空気が滞留する、客の誰もいない純喫茶。


初老の店主は八代の険しい顔を見るなり、何も質問することなく静かに会釈し、店の一番奥にある、周囲から完全に遮断されたボックス席を細い指で指し示した。


「コーヒーを二つ。……それと、この後、誰一人として俺たちの席に近づけるな」


八代の、低く押し殺した注文。


すぐに運ばれてきた黒い液体は、まるで地中から湧き出してきたドロドロの未精製の原油のようだった。


「早く座れ!」


八代は古い革の椅子に深く沈み込むなり、固く握りしめた拳を木製のテーブルへと激しく叩きつけた。


「お前の持っているものを全部話せ。一文字の例外もなく漏らさず、貴様がその身体に隠し持っている『呪い』の全てをここに吐き出せ」


シホは一瞬、言葉を詰まらせて逡巡する。


「えーと、でも、これって国家公務員法とか、高度な情報の秘匿義務が厳格にあって……下手に喋ると、あの千姫さんにも本気で怒られるし……」


「そんなものは今の俺たちには関係ない。いいから話せ。……俺がかつてこの目で見た『事実』と、お前が今そこに持っている『破片』が正しく繋がらなければ、明日、この国というシステムそのものが完全に消滅するかもしれんのだぞ」


「……だけど、確か『なんたら丙種規定』とかいう、防衛上の特例規定に触れるって、前に玄武さんからもきつく言われていて……」


「いいから、は・な・せ、と言っているんだ!」


八代の、全身から立ち上る凄まじいまでの気迫。


その瞬間、シホの個人的な自由意識を完全に介さないまま、インカムのALICEが千姫たち外事三課が管理する極秘の防衛サーバーへと、無断で、かつ暴力的なまでのクラッキングアクセスを独自に開始した。


『――― システムによる強制バイパスの確立、完了。……八代圭太、該当個体に対しても『情報保護秘匿法・丙種規定』の特例を暫定的に適用させます。……外部への情報漏洩の兆候が確認された場合、即座に物理的な生命遮断を伴う、という過酷な条件を前提として、千姫のセキュリティシステムから強制的に許可証をもぎ取りました』


(ちょっとALICE! あなた一体どこの恐ろしい組織のサーバーと繋がっているのよ、この狂犬AI……!)


シホは内心で叫び声をあげたが、ブレーキを踏むためのペダルはもうどこにも残されていなかった。


八代の、それこそ残りの人生のすべてを賭けたかのような鋭い眼差しが、対面に座る彼女を完全にロックオンして逃がさなかった。


「……分かりました。……本当に、冗談抜きでヤバイ話ですからね? 命の保証なんてどこにもありませんから」


「……そんな安っぽい覚悟は、俺自身が十数年前に一番よく分かっている。……あの忌まわしい雷門の広大な屋敷で、この俺が一体何を『見て』、そこに何を『置いてきてしまった』と思っているんだ」


八代圭太の、剥き出しの過去の覚悟が、シホの心の中に残っていた最後のためらいを完全に打ち破った。


喫茶店の薄暗い隅、紫煙のタバコの煙が妖しくたなびく密室の中、三流記者が命がけで持ち帰った「世界の終わり」の不穏な断片が、ついに古い世代の目撃者へと手渡された。


[EOF]


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ