第18話 POST /登録 → 202 Accepted
《あの扉が要求していたのは》
《これです》
アイが指したのは、門の脇の机だった。
鎧の男が二人。開いたままの台帳。木の札。インク壺。
それだけだ。
ソウイチは、口を開きかけて、やめた。
《あとにしましょう》アイが言った。
《いま、七人に見られています》
「――あー、待った待った」
バルドが、御者台から降りてきた。
「こいつはうちの雇いだ。バルド商会の護衛」
「証は」
「明日出す。商会の名で」バルドは言った。
「帳場に判があるんだ。俺の署名でいいなら、いま書く」
台帳の男が、立っているほうの男を見た。
「ゲルダさん」
その呼び方で、誰かが来たのが分かった。
五十くらいの女だった。灰色の髪を短く刈っている。
鎧は着ていない。厚手の外套の下に、革のベストだけだ。
歩いてくる音が、しなかった。
女は、ソウイチの前で止まった。
見たのは、顔ではなかった。
腰の剣に、目が二拍とまった。下りて外套の裾へ、また上がった。
「……その剣」
「牙です」
「そうだろうな」
それきりだった。
女は台帳の男に、あごをしゃくった。
「バルドの名で入れとけ」
「はい」
女は歩き出して、三歩目で振り返った。
「ソウイチだったか」
「はい」
「牙をあんな形に削る人間を、あたしは見たことがない」
それだけ言って、行った。
「犬は」
台帳の男が言った。
「連れです」
「従魔証は」
「ありません」
男は、くすんだ茶色の中型犬を、上から下まで眺めた。
「……ただの犬だな」
「ああ」
「ただの犬に見えねえ座り方をしてるが、ただの犬だ」男は言った。
「そう書いとく」
*
馬車の音が、通りの奥へ消えていった。
「……なあ」
台帳の男が、羽根ペンを置いた。
「あれ、書いてよかったのか」
「隊長が言ったろ」
「言ったけどよ」
男は、開いたままの頁を見下ろした。
『バルド商会 雇 ソウイチ』
十文字。それだけだ。
出身も、家名も、歳も、そこには無い。
「あのな」若いほうが言った。
「俺、さっきあの剣を持たされたんだよ」
「持たされてたな」
「重さは」
「無い」若いほうは言った。
「無いんだ。あの長さで、あの厚みで、片手で持って、無いんだよ」
台帳の男は、何も言わなかった。
「鞘から三寸抜いた。乳白色だった。刃こぼれが一つも無い」
「新品か」
「使い込んである」若いほうは言った。
「使い込んであって、一つも無いんだ」
台帳の男は、羽根ペンを取った。
そして、頁の隅に小さく何かを書き足した。
「何を書いた」
「印だ」
「印って」
「三月後に、この名前がまだ台帳にあったら」男は言った。
「そのときは、ちゃんと調べる」
「無かったら」
「無かったら、森で死んだってことだ」
*
門をくぐった。
石畳だった。
足の裏が、硬いものを踏んだ。土でも、落ち葉でも、岩でもない。
人が切って、並べて、平らにしたものだ。
ソウイチは、二歩目で立ち止まった。
――踏める。
「おい、乗れよ」
バルドが、御者台から手招きした。
「宿まで歩かせたら、俺が薄情者になる」
ソウイチは、その隣に座った。
暗くなりかけた通りを、馬車はゆっくり進んだ。
二階建てが並んでいた。壁は白い漆喰で、木の枠が格子に走っている。
窓は思ったより小さい。
その小さい窓に、ひとつずつ火が入っていた。
音が、多かった。
鍋を打つ音。子どもが走る音。戸を閉める音。
どこかで男が二人、値段の話で言い合っている。
荷車の車輪。犬。
全部が同時に鳴っていて、どれも近い。
森では、音がひとつずつ来た。
風。枝。獣。
次の音が来るまでに間があって、その間に、それが何かを考える時間があった。
ここには、間が無かった。
《創一さん。脈拍が》
「上がってるだろうな」
《はい》
「そりゃそうだよ」
ソウイチは、身を乗り出していた。
匂いが、変わり続けた。
十歩で、焼いた肉。
次の十歩で、生ゴミ。
その次で、何かを煮ている湯気。なめし革の酸っぱい匂い。
人の汗。馬の糞。焦げたパン。
――くさい。
そう思って、笑った。
一年半、自分とクッキーの匂いしかしない場所にいた。
《創一さん》
「なんだ」
《いま、笑いましたね》
「……言うなよ、そういうの」
「なあ」
バルドが、前を見たまま言った。
「なんだ」
「その外套な」
ソウイチは、裾を見た。
「うちは毛皮も扱う」バルドは言った。
「二十年、見てる」
「そうか」
「あれは、狼だな」
「狼です」
車輪が二回、石を踏んだ。
「……昨日の六匹じゃねえよな」
ソウイチは、答えなかった。
「もっとでかいのか」
「……まあ」
「まあ、か」
「剣もだ」バルドは言った。
「牙だって言ってたな。あの長さの牙が生えてる狼を、俺は知らねえ」
「そうですか」
「そうですか、ばっかりだな、あんた」
ソウイチは、前を見たままでいた。
バルドは、黙って手綱を握っていた。
やがて、こう言った。
「……いいぞ、言わなくて」
「え」
「商人は、客の仕入れ先は訊かねえ」バルドは言った。
「訊いたら、二度と来ねえからな」
*
バルドの家は、店から通りを二本入った先にあった。
石を積んだ二階建てだった。
窓が大きい。庭に木が一本ある。
戸を開けた瞬間に、中から声が飛んできた。
「おそい!」
七つくらいの女の子が、廊下を走ってきて、バルドの腰に頭から突っ込んだ。
「三日って言った」
「三日だった」
「四日!」
「……四日だな」
バルドは、その頭を押さえて、ソウイチのほうを向いた。
「娘のリーゼだ」
リーゼが、ソウイチを見上げた。
次に、その足元のクッキーを見て、目を丸くした。
「いぬ」
「ああ」
「さわっていい」
「いいよ」
クッキーは、されるがままになった。
奥から女が出てきた。
四十くらい。袖をまくって、手を布で拭きながら歩いてくる。
バルドの腕の布を見て、足が止まった。
「あんた、それ」
「狼だ」
「狼」
「六匹」
女は、バルドの腕を掴んで、灯りの下へ引っぱっていった。
布を解いて、傷を見て、黙って戸棚から新しい布を出してきた。
「……誰が縛ったの、これ」
バルドは、布から手を離した。
姿勢を直して、ソウイチのほうへ手を向けた。
「ソウイチさんだ」
「昨日、街道で狼に囲まれた。六匹だ。馬車はひっくり返って、俺は荷の陰で腰を抜かしてた」
「そこを、この人が来た」
マルタが、ソウイチを見た。
そして、その場で膝を折った。
「――マルタと申します」
「いや、そんな」
「この人と、この子の父親を、返していただきました」
ソウイチは、どうしていいか分からなくなって、半歩下がった。
「……やめてください。仕事です」
「仕事」
「……いや」
「雇われる前でした」
マルタは、少しのあいだ、ソウイチを見上げていた。
それから、立ち上がって、袖をまくり直した。
「鶏を焼きます」
ソウイチは、何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
――ありがとう、と言われたのが、いつぶりか思い出せない。
*
飯が出た。
鶏が、丸ごと一羽あった。
皮が飴色に焼けて、切れ目から湯気が出ている。骨付きのまま、大きい皿に乗っていた。
その横に、白いパンが山。
豆と腸詰を煮込んだ鍋。チーズが二種類。酢漬けの野菜。干した無花果。
葡萄酒の瓶が、卓の真ん中に立っていた。
「……多くないですか」
「四日ぶりの帰りで、命の恩人が来てる」マルタは言った。
「これでも足りません」
ソウイチは、匙を持ったまま、動かなかった。
「……冷めるぞ」
「ああ」
鶏の腿を、リーゼが取って、皿に置いてきた。
「これがいちばんおいしい」
一口目で、目の奥が熱くなった。
皮が塩辛くて、その下の肉が信じられないほど柔らかかった。香草が入っている。
噛むと、脂が奥歯のあたりで溶けた。
一年半、自分で焼いたものしか食っていない。
その前の一年は、灰色の部屋で、持ち込んだ干し肉だった。
誰かが自分のために火にかけたものを、口に入れるのが、いつぶりか思い出せなかった。
「おい」
「なんだ」
「泣くほどまずかったか」
「うまい」
「……うまい」
バルドは、それ以上何も言わずに、葡萄酒を注いだ。
リーゼが、卓の下からクッキーに腸詰をやっているのが見えた。
バルドも見えていた。見えていて、何も言わなかった。
*
客用の部屋に、寝台があった。
麻の敷布が、洗ってあった。日に干した匂いがする。
ソウイチは、その上に座って、動かなかった。
「……アイ」
《はい》
「さっきの続きだ」
《『名を、告げよ』》アイは言った。
《あれは、名乗れという意味ではありませんでした》
「じゃあ何だ」
《台帳と、突き合わせろ、です》
ソウイチは、門でのやりとりを思い出した。
――名は。マルセル。証は。へえ、これで。
名乗って、札を出して、台帳と合わせる。合えば通る。
《あなたは三つ告げました。ソウイチ。桐生創一。レン》アイは言った。
《扉は三つとも弾きました。嘘だと判断したのではありません》
「載ってなかっただけか」
《はい》
ソウイチは、天井を見た。
「……地下二百段の先にある、四十三年誰も開けられなかった扉が」
《はい》
「あの机と、同じ理屈で動いてるのか」
《そうなります》
クッキーが、寝台に飛び乗ってきた。
腹の上に乗る。茶色いままだ。
「……重いって」
どかさなかった。
《創一さん》
「なんだ」
《おやすみなさい》
「なんで急に」
《言う相手が、いなかったので》アイは言った。
《壁があると、言いたくなるようです》
壁の向こうで、リーゼがまだ何か言っていた。マルタがそれを叱っている。
皿を重ねる音。誰かが通りを歩いていく。
――うるさいな。
「……おやすみ」
*
バルド商会は、通りを二本戻った先にあった。
翌朝、連れて行かれたのは、街の中ほどにある石造りの三階建てだった。
間口が広い。荷馬車が二台、中まで入れる。
一階の奥に帳場があって、書き役が四人、それぞれ机についていた。算盤のような木の道具を使っている。
壁一面が棚だった。乾物だけではない。
麻、鉄、香草、樽。札が下がっていて、産地と日付が書いてある。
人が、絶えず出入りしていた。
「……乾物を売ってるって、言ってませんでした?」
「売ってる」バルドは言った。
「乾物から始めた」
バルドは、奥の部屋に通した。
机が一つ。椅子が二つ。
窓が高い位置にあって、朝の光が斜めに落ちている。
「出してみろ」
ソウイチは、布を広げた。
灰色の石が並んだ。大小十六個。
いちばん大きいもので、親指の先ほどある。
出さなかったものが、二つある。
ひとつは森の主のものだ。特大で、アイが「解析すると、見返されているような反応がある」と言った石。
もうひとつは、あの白い胴のもの。
――名前が無い。
名前の無い魔石を出せば、これは何だと訊かれる。訊かれれば、どこで獲ったかを言うことになる。
白い穴に辿り着かれる。
その二つは、懐に入れたままにした。
バルドは、指で六つをより分けた。
「これが昨日の狼だな」
「分かるのか」
「毎年、何百と見てる」
残りの十個を、一つずつ明かりに透かした。
「……こっちは何だ」
「森の、いろいろです」
「いろいろ、な」
バルドは、それ以上訊かなかった。
バルドは、十個のうちの一つを、爪で弾いた。
澄んだ音がした。
「……これ、どこの森だ」
「北です」
「北の、どのへんだ」
「奥のほう」
バルドは、しばらく黙っていた。
「街の近くで獲れるやつはな、こう鳴らねえんだ」バルドは言った。
「詰まりが甘い。魔素の入り方が薄い」
「これは」
「詰まってる」
「銀貨で、三百二十だ」
「……いくらだって」
「三百二十」バルドは言った。
「買取所の正価が三百。うちは二十上乗せする」
「上乗せ?」
「買取所は毎日いくらでも来る。あんたは、来ねえかもしれねえ」
ソウイチは、その数を、頭の中で持て余した。
「……アイ。銀貨一枚で、何が買える」
《白いパンが二十個です》アイは言った。
《宿の相部屋が四泊。革の長靴が、片方》
――パン一個が、二百円として。
ソウイチは、指を折った。
銀貨一枚で四千円。
三百二十枚。
――百二十八万。
前の世界で、そのくらいを稼ぐのに、四ヶ月かかっていた。
残業を入れて、土曜に出て、四ヶ月だ。
いま、机の上に十六個の石がある。
森で拾ったものだ。特別なことは何もしていない。
歩いて、倒して、腹から出して、袋に入れただけだ。
《創一さん》
「……なんでもない」
《顔に出ています》
「出てない」
《出ています》
ソウイチは、机の上の石を見た。
「……手数料は」
「取らねえよ」
「証が無いのに、あんたの名前で流すんですよね」
「流す」
「それは、あんたが被るってことですよね」
バルドは、椅子の背にもたれた。
「あのな」
「あんたみたいのが、うちの戸を叩いてくれる。それが商人にとってどういうことか、分かってねえだろ」
「……分かりません」
「一年半、森の奥で溜めたもんを、初めて街へ持ってきた。その最初の一軒がうちだった」バルドは言った。
「ここで俺が一割でも抜いてみろ。あんた、二度目は別の店へ行く」
「……行きませんよ、俺は」
「行かねえやつも、抜かれたことは覚えてる」
バルドは、引き出しから革の袋を出した。
机の上を滑らせてよこす。
重かった。
「三百二十。それと、こっちが別だ」
もう一つ、小さい袋が置かれた。
「なんですか、これ」
「護衛料」バルドは言った。
「昨日の。払うって言ったろ」
「いや、飯も、部屋も」
「それは礼だ。別の勘定だ」
ソウイチは、二つの袋を見下ろした。
この世界で初めて手にした金だった。
「……なあ」
「なんだ」
「あんた、儲かってるんですか」
「儲かってる」バルドは言った。
「こういうことを、二十年やってるからだ」
「で」バルドは言った。
「今日、ギルドに行け」
「ギルド」
「冒険者ギルドだ。あそこは国の台帳とは別の台帳を持ってる。身元より腕を見る」
「……登録できるんですか。俺でも」
「保証人が要る」
バルドは、立ち上がった。
「着いてってやる。うちの名を出せば、誰も文句は言わねえ」
*
冒険者ギルドは、石造りの二階建てだった。
入って右が酒場、左が受付。奥に掲示板。
朝から人が二十人はいた。
誰もソウイチを見なかった。
昨日の列と同じだ。街の人間は、他人を見ない。
村とは、そこが違った。
ソウイチは、掲示板の前で足を止めた。
紙が三十枚ほど貼ってある。木釘で留めてあって、端が反り返っていた。
――『下水の詰まり 銅貨八枚』
――『麦の積み下ろし 三日 銅貨十五枚』
――『ホーンラビット 五匹 銀貨一枚』
右のほうに、少し大きい紙が一枚あった。
――『北の森 入林者の捜索 依頼主・ガランド衛兵詰所』
《創一さん》
「見てるだけだ」
《はい》
受付にいたのは、若い女だった。
二十歳そこそこだろうか。栗色の髪を首の後ろでひとつにまとめている。
右手の指の付け根に、インクの染みがあった。拭いても落ちなくなったやつだ。
顔を上げてソウイチを見て、そのまま後ろに並ぶ二人へ目を移した。
どの目も、同じ速さで動いた。誰も特別扱いしない目だ。
「登録ですか」
「お願いします」
「保証人は」
「俺だ」バルドが横から言った。
「バルド商会さん」
「昨日、狼六匹から俺の荷を守った。証文は書く」
「……六匹」
そこで初めて、女の手が止まった。
顔を上げて、もう一度ソウイチを見る。
さっきより、一拍長かった。
「……失礼しました。エルナです」
「ソウイチです」
「はい。まだ書いてません」
「え」
「登録が済むまで、あなたの名前は、まだ紙にありません」エルナは言った。
「口で言うのは、ただの音です」
「では、水晶に手を」
受付の脇に、台がある。
その上に、拳ほどの乳白色の石が置いてあった。
ソウイチは、それを見た。
大人の背丈ほどもある、礼拝堂の水晶ではない。これは拳ほどだ。
それでも、同じ色をしていた。
「……何が分かるんですか」
「魔力量と属性です」エルナは言った。
「等級の目安にします」
バルドが、こちらを見た。
ソウイチは、手を置いた。
水晶は、光らなかった。
十二の年と、同じだった。
礼拝堂で、父がいて、兄がいて、村の子どもが笑って、神官が三度やり直させて、それでも一度も色がつかなかった。
――今度も、同じか。
エルナは、水晶を見た。
そして、羽根ペンを取った。
「魔力量、計測不能。属性、なし」
ペンが走る音がした。
「以上です」
「……以上ですか」
「はい」
エルナが顔を上げた。
「何か」
「いえ」ソウイチは言った。
「……笑わないんですね」
エルナは、少しのあいだ、ソウイチを見た。
「ここは教会ではありません」
そして、また手元に目を落とした。
「魔力が高くて三年で死んだ人を、私は十一人見ています。魔力が無くて四十年やってる人も知っています」
「うちが見るのは、依頼を達成したかどうかだけです」
「名前を」
三度目だった。
地下二百段の先の扉で。
昨日の夕方、門の机で。
そして、いま。
「ソウイチ」
「家名は」
「無い」
「出身は」
ソウイチは、息を吸った。
「……魔の森」
ペンが、止まらなかった。
「森。北の、ですね」
「はい」
「はい」
それだけだった。
「等級ですが」エルナが言った。
「新規の方は、F級からです」
「分かりました」
「ただ」
エルナは、羽根ペンを置いた。
「上から始められる窓口もあります」
「……上から」
「実技を受けていただきます」エルナは言った。
「落ちても、F級のままです。失うものはありません」
ソウイチは、少し考えた。
――上の等級には、上の依頼が来る。
街のことを、まだ何も知らない。値も、相場も、誰が信用できるかも。
それでも。
――一年、毎日十時間やった。
あれが世間のどのへんなのか、自分でも知らない。
「受けます」
*
裏に、土を踏み固めた稽古場があった。
十歩四方。壁際に木剣が二十本ほど立ててある。
二階へ上がる外階段があって、そこから稽古場が見下ろせるようになっていた。
出てきたのは、四十くらいの男だった。
厚い。肩から腕にかけて、服の下の形がはっきり出ている。
左の眉から頬にかけて、古い傷が一本。
「ドランだ。ここの実技を見てる」
「ソウイチです」
「規則を言うぞ」ドランが木剣を投げてよこした。
「あんたが俺から一本取れば、合格だ」
「一本でいいんですか」
「いい」ドランは言った。
「その代わり、俺が三本取ったら、その時点で終いだ。F級のままギルドを出てもらう」
「分かりました」
「止めは掛けねえ。当たれば痛えぞ」
《創一さん》アイの声が、耳の奥で言った。
《この方は、元王国兵です。膝と肘の使い方が、村の狩人とは別物です》
「強いのか」
《分かりません》アイは言った。
《この街の人間を、まだ一人も測っていません》
《ですが、この方の身体は読めます》
《右のかかとに、古い骨折の痕。庇わずに二十年使っています。左の肩に、繰り返し同じ角度の負荷。指の付け根の皮の厚さが、剣の柄の形をしています》
《この方は、たぶん、何千回も殺し合いをして、生きています》
木剣は、重かった。牙の剣より、ずっと重い。
ソウイチは、その重さを、手首で三回転がした。
――ああ。
灰色の部屋で、アイが作った重りが、これと同じだった。
最後の月は、これより一・四倍のを振っていた。
「はじめ」
ドランが、来た。
速かった。
この世界に来てから見た人間の動きの中では、間違いなくいちばん速い。
だが――遅い。
ソウイチは、半歩だけ外した。
木剣が、耳の横を通った。
《グレイウルフの初撃と、ほぼ同じです》アイが言った。
ソウイチは、打ち返さなかった。
二合目。三合目。
受けた。外した。受けた。
打たなかった。
――まだ見えてないものがある。
この男は、同じ打ちを二度打たない。踏み込みの深さを毎回変えてくる。
肩が動く前に足が来る。目線と剣先が違う方向を向く。
森の主には、そういうものが無かった。
あれは強かったが、獣だった。
人と戦うのは、初めてだった。
十合を越えたあたりで、ドランの息が変わった。
「……おい」
「なんだ」
「なんで打たねえ」
「見てます」
「見てる?」
「あなたの打ち方を、覚えてるところです」
ドランの目の色が、そこで変わった。
そこからが、本番だった。
打ち込みが、重くなった。
一手ごとに角度が変わる。上から来て、途中で横に折れる。
引いたと思った剣が、そのまま突きに化ける。
足で踏んでくる。肩でぶつかってくる。
木剣ではないところで削りに来る。
二十合。三十合。
土が鳴った。
《踏み込み、〇・三一秒》アイが言った。
《村の狩人が〇・六。街の衛兵で〇・四五。あの荷馬車を襲った狼が、〇・二八》
《――森の主が、〇・一一でした》
――三百二十七回。
初日に、あの〇・一一に、三百二十七回殺された。
外階段に、人が集まりはじめていた。
受付の窓にも、頭が三つ四つ並んでいる。
誰も、声を出さなかった。
*
四半刻が過ぎても、終わらなかった。
ソウイチの息は、上がっていなかった。
一年、毎日十時間。走って十二キロ、そのあと素振り。
四半刻の撃ち合いは、あの日課の、朝の一区切りにも届かない。
ドランの肩が、上下しはじめた。
――勝てる。
その言葉が頭に浮かんだとき、ソウイチは、自分の口の端が上がっているのに気づいた。
――あ。
前の世界で、二十九年。
誰かと本気で何かを競って、勝ったことが、一度も無かった。
灰色の部屋の三百六十五日は、三百一日目まで、全部負けだった。
いま、目の前に、強い人間がいる。
何千回も殺し合いをして生きてきた男が、本気でこっちを潰しにきていて、そして。
――届いてる。
楽しかった。
そこで、悪い癖が出た。
「……なあ、アイ」
《はい》
「これ、本気でやったら、どうなるんだろうな」
アイは、すぐには答えなかった。
《――やめておきましょう》
「一回だけ」
《創一さん》
「一回だけだよ。知りたいんだ」
――二十九年と、一年半。
自分がどこまで行けるのか、まだ一度も測っていない。
《…………》
《…………了解しました》
足の裏で、空気が変わった。
外界の魔素が、ソウイチのまわりで、向きを揃えはじめた。
「――そこまでだ」
声は、大きくなかった。
なのに、稽古場の音が、全部消えた。
ソウイチの足の裏から、揃いかけていたものが、ほどけた。
入口に、男が立っていた。
小さい。
背は、ソウイチの肩ほどしかない。白髪を短く刈っている。
右腕が、肘から先に無かった。
服は、その辺の年寄りと変わらない。麻の上着に、革のベルト。
誰も、動かなかった。
外階段の連中も、受付の窓の頭も、止まったままだ。
何が起きたのか、分かっていない顔だった。
――分かっていないのだ。
いま、この稽古場で何が起きかけたのか。
ドランが、木剣を下ろしていた。
その手が、震えていた。
三十合打ち合って一度もぶれなかった手が、いま、はっきり震えていた。
壁際で、バルドが立ち上がっていた。
「……ギルドマスター」
男は、バルドのほうを見なかった。
歩いてきた。
足音が、しなかった。
ゲルダもそうだった。
だが、あれは静かなだけだった。
これは、違う。
――音が、無い。
《創一さん》
アイの声は、平坦ではなかった。
《この方の位置から、いまのわたしは》
《――見えていました》
男が、ソウイチの前で止まった。
左手を、一度だけ持ち上げた。
その指が、ソウイチの足元の土を指した。
揃いかけた魔素が、消えたあとの土だ。
跡など、何も残っていない。
「あんた」
男は言った。
「いま、何を、乗せようとした」




